終章

お見舞い

 信介は病院に来ていた。

 あれだけ困難な山行、理不尽な怪異に遭いながらも、信介はかすり傷くらいしか負ってはいなかった。

 それでもレスキューヘリを呼んで帰ってきた以上、精密検査は必要になる。

 それはミスカトニック大学からの意向でもあった。


 検査でも何も見つからない。

 無罪放免、というか無事に検査入院を終えた信介が向かう先はレイク教授とエラリィ女史の入院先だった。


 本来、精神的疾患による入院の場合、家族の許可なしにお見舞いに行くことは難しい。

 だが、状況が状況であり、彼らは外国人であるために、家族も近くにはない。

 ミスカトニック大学からの口添えもあったのだろうが、信介のお見舞いは許可された。


 レイク教授の状況は惨憺たる有様だった。目や耳に埋め込まれた卵こそ除去されたものの、その精神の汚染は山中で同行していた時からなんら改善は見られない。

 彼から吐き出される言葉に意味のわかるものはなかったが、世の中すべてを呪っているかのような、怒りと憎しみと言いようのない負の感情で満ちていた。

 しばらく面会をしたのち、なにも得ることなく病室を出る。


 信介はなんとなくだが、シィヤピィェンという存在を理解していた。それは何度も遭遇し、テレパシーを交わし、幾度となく危機をかわしてきた経験からのものだ。

 シィヤピィェンは危険だが、温厚で害意を持たない生物でもある。

 しかし、そのテレパシーに長時間さらされると、その精神がシィヤピィェンと同じだけ幼いものに変わってしまうのだ。


 レイク教授がどのような人生を送って来たかは知らない。

 しかし、饒舌でにこやかな理性と知性の皮をはぎ取られると、剝き出しの憎悪と呪詛の感情しか残らなかったのだろうか。

 決して気の合う相手ではなかったし、時として鬱陶しいと思うこともあった。しかし、世代や国籍を超えた友情も感じている。一度きりの山行だったがチームワークが生まれていると信じていた。

 彼の顛末を考えると同情しかなかった。

 信介は誰からも見られない場所に着くと、密かに涙する。


 それと比べると、エラリィの病室は華やかだった。

 エラリィと看護師が楽しげに遊んでいる。

 彼女は信介に気付くと、満面の笑みを浮かべた。


「ちんちゅけ、あそぼ! あそぼ!」


 成人女性でありながら幼い言動を繰り広げるエラリィの様子を眺めながら、信介は苦笑いを浮かべる。

 レイク教授と彼女と、どちらが幸せなのだろうか。

 しかし、そんな疑問の答えを出す権利は信介にはなかった。いや、それは誰にもわからない。本人たちにも決めることなどできないであろう。


 病室ではテレビの映像が垂れ流されていた。

 その内容は死海で優雅に過ごす記者と芸能人の姿だった。

 だが、信介にとって死海から連想されるのはクトゥルーにほかならない。


 クトゥルーは怒りを込めて攻撃をしてきたはずだが、信介自身には何の影響もなかった。これは一体どういうことなのだろう。

 帰ってきてから何度となく考えていたが、なぜかは次第にわかってきたような気がしている。


 クトゥルーと人間とはスケールが違うのだ。

 それは体長や体積、体重もあるだろうが、それ以上に時間や空間に対する感覚が違うのだろう。クトゥルーの雄大にしてスケールの大きい攻撃は、個人に直接叩き込まれるものではないのだ。


 ポスッ


 なにかが信介にぶつかってきた。それは元気に走り回っていたエラリィだった。

 信介はその長い体をかがめて、エラリィに目線を合わせる。


「俺も今日退院してきたばかりなんだ。遊べなくてゴメンな」


 それだけ言って、彼女の病室を後にした。

 そして、病棟を抜けて、病院の外へ出る。家路に向かって歩きはじめた。


 太陽がカンカンに照っている。眩しげに目に手を当てながら、時計を見ると、ちょうど正午になったところだった。

 信介はポケットに入れていたコンパスを取り出す。N極を意味するはずの赤い針は太陽の方向を指し示していた。


 信介はつぶやく。


「これから、地球はどう変わるんだろうな」

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