新解釈 蜘蛛の糸
高村 芳
新解釈 蜘蛛の糸
風に揺れる蓮の葉の上で、蜘蛛は朝の冷涼な空気を感じていた。この世界にやってきてから、ゆったりと日々を過ごすことが多くなっている。蝶などを捕らえて食べずとも、腹が減ることはない。鳥が近くの枝に止まっていても、鋭い目で向かってくることもない。食われる心配もなく、死ぬこともない。ここは素晴らしいところだ、と蜘蛛は思っていた。
蓮よりも強く甘い香りをまとった者が、こちらへと近寄ってくる。時折やってきてはこのあたりを散策し、昼頃には去っていく者。人間と姿形は似ていても、あれは人間ではないと蜘蛛にもわかっていた。蜘蛛はそのよくわからない存在のことを「光る者」と呼んでいた。光る者は、ちょうど蜘蛛が乗っている蓮の葉の脇に音もなくしゃがみこんだ。ふわりと衣が膨らみ、柔らかな影が蜘蛛の上に落ちてくる。
光る者の視線は、池の中へと落とされている。蜘蛛はその視線をたどり、蓮の葉の先まで移動して、自分も池の中をのぞきこんだ。
水底には、こちらの世界とは似ても似つかない世界が広がっていた。小さい人間たちが、何千も何万もひしめき、蠢いている。隣の人間を殴る者もいれば、首を絞める者もいる。真っ赤な液体を腕から流している者もいれば、顔が真っ黒になって動かない者もいる。人間なんてろくなやつがいない。蜘蛛は、人間に手で強く払われて危うく死にそうになったことを思い出し、嫌な気持ちになった。
「どれ」
光る者は何か思い立ったように、蜘蛛の尻から紡がれる一本の糸を手にとった。その先端が池の水面に落ちたかと思うと、美しい蜘蛛の糸は意志をもったかのようにするすると下へと伸びていった。蜘蛛も思わず、その糸の行く先を見守る。
「あいつは……」
蜘蛛は糸の真下にいる男に見覚えがあった。この世界に来る前のことだ。巣へ戻ろうと急ぎ地面を這っているところ、人間に踏まれて死にそうになったことがあった。蜘蛛は必死で落ちてくる影から逃げようとしたが、間に合いそうもなかった。「もう駄目か」と蜘蛛が覚悟を決めたとき、自分の頭上に落ちた影が消えた。どうやら人間は蜘蛛の存在に気付き、慌てて足をどけてくれたらしかった。命拾いした蜘蛛は、その人間が呟くのを聞いていた。
「蜘蛛も小さい体で、懸命に生きている……」
そうして去って行く人間の後ろ姿を見つめながら、蜘蛛は「こんな人間もいるのか」と思ったのだ。体の大きな人間が、地面を這って生きる自分を気遣ってくれた。自分のことを小さいながらも命あるものととらえ、生かしてくれた。そんな優しい人間が、どうして池の下のあんな汚い世界にいるのだろうか。蜘蛛はあの男をなんとか助けられないだろうか、と思った。
その男は自分の目の前に降りてきた糸を不思議そうに見つめ、手に取って二回ほどひっぱってきた。その力に蜘蛛は一瞬よろめいたが、蓮の葉の上でなんとか踏ん張った。糸の丈夫さが確認できたからか、男は両手両足で巧みにバランスをとりつつゆっくりと上ってくる。糸を握りしめる力の強さが、糸を介して蜘蛛まで伝わってくる。蜘蛛は自分を助けてくれた御礼を、その男に伝えたいと思っていた。男がここまで上ってくれば、言葉は交わせなくてもきっと思いは伝わるであろう。「おお蜘蛛よ、そんなに小さな体で俺のことを救い出してくれたのか」と、手のひらにのせてくれるかもしれない。そう考え、糸が切れぬよう、必死に蓮の葉の上でこらえていた。
男が水面まであと半分という距離まで上ってきたところで、他の人間たちも我先にと蜘蛛の糸を上ってきた。蜘蛛の糸はそうそう切れない。男が上ってくるまでは、どれだけ人間が上ってこようとも耐えられるはずだ。男が自分のあとを上ってくる人間たちに何か叫んでいるのが見える。蜘蛛は早く上ってこいと、心の中で思っていた。そんなことをしていないで、早く、早く上ってこいと、蜘蛛は願わずにはいられなかった。
そのとき、蜘蛛は得も言われぬ恐怖を感じた。この世界に来てから初めてのことだった。それは光る者から静かな波紋のように伝わってきた恐ろしさだった。光る者の目は、人間たちが地面に這いつくばる蜘蛛を見つめるときと同じ目をしていた。光る者はその手を糸のほうにかざした。そのときだった。
「あっ」
糸がぶつっと切れる感覚が、蜘蛛にも伝わってきた。急に糸にかかっていた力がなくなる。蜘蛛は糸が切れた衝撃で、蓮の葉の上でよろめいた。蜘蛛が水中に目をこらすと、糸の先が所在なげに漂っているのがわかった。他の人間ともども、男はふたたび汚い世界に落ちてしまったのだと、蜘蛛は悟った。
「死んだというのに、哀しいものですね。人間も、虫も」
光る者はそう一言呟いてから、何事もなかったかのように立ち上がり、池を後にした。蜘蛛はそれをずっと見つめたまま、蓮の葉の上から動けなかった。蓮の葉に浮いた露が、陽光を反射して輝いていた。
了
新解釈 蜘蛛の糸 高村 芳 @yo4_taka6ra
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