第6話 轍鮒


 蒼頡と鴣鷲は、重くのしかかってくる黒く淀んだ“おん”の気が充満する屋敷内の廊下を、九重郎の背中を追いかけながら慎重に進んでいた。前を歩いている九重郎は、黒い気の渦が、自身の目には全く見えていない様子であった。

 辺りがあまりにも黒い靄に包まれていたため、通常の人間よりよっぽど鋭い視覚を持っている蒼頡ですら、五歩も離れれば瞬く間に九重郎の背中が見えなくなるほどであった。


 黒い靄が充満する屋敷の廊下を東に向かってしばらく進むと、九重郎がついに、

「着きました、陰陽師様。この勝手口の向こうが、裏庭でございます」

と、蒼頡に向かって言った。直後、内側に仕掛けてあったえ棒をがこ、と外し、扉の窪みに静かに手をかけ、勝手口の引き戸を恐る恐る、慎重にゆっくりと開け放った。


 勝手口の戸が開いた瞬間、蒼頡と鴣鷲は屋敷内のどんよりとした不穏な空気から一瞬だけ、外の新鮮な空気に触れることができた。

 しかし、裏庭の様子は全体的にどんよりとした黒い靄が重苦しく漂っており、今までいた屋敷内の澱んだ空気とほとんど変わりがなかった。昼間にも関わらず空は暗く濁り、裏庭の方にまで“おん”の気がじわじわと侵食していた。

 九重郎は手に持っていた槍を“ぎゅっ”と一層強く握り締めると、音を立てないよう注意しながら、勝手口の引き戸の隙間から外の様子をちらり、と確認した。

 勝手口の入口から裏庭の様子を眺めた蒼頡が、突如瞳をぐっと大きく見開いた。


 蒼頡の視界に飛び込んできた裏庭の池は、勝手口から外に出て十歩も歩けば池全体の様子がわかるほどの広さであった。ごろごろとした石が池の周りに点々と連なっており、池の上を渡れるよう、水上の真ん中に石の足場も点々とできていた。蒼頡が思い描いていた以上に池は意外と大きなものであった。


 勝手口の外へ躊躇うこと無く飛び出すと、蒼頡はつかつかと池の側に近づいた。

 それを見た鴣鷲が飛ぶようにして蒼頡の背中にふわりと軽やかについてゆき、さらに、外へ出るのを躊躇していた九重郎が意を決して勝手口の外に一歩踏み出し、慌てて二人の後を追いかけていった。

 

 強烈な異臭が、三人の鼻腔目掛けて漂ってきていた。

 池の水は少なかった。何の苦労もなく、三人はすぐに池の中心にいるおむらの遺体を発見することができた。


 顔や身体の前面は水の中に沈んでおり、池の表面に細い背中が露わに出ている。その背中には、右肩から左腰にかけてばっくりと刀で斬られている跡が痛ましく見えていた。皮膚の表面と肉が裂かれ、骨にまで達しているであろう深く大きな傷であった。おむらの遺体は腐臭を放ち蛆がわき、衣服は着ていなかった。無残な姿のまま、おむらは池の中に打ち棄てられていた。背中の傷に黒い靄が薄く取り巻いているのが、蒼頡と鴣鷲の目に見えた。

 辺りに漂っている強烈な腐臭に耐え切れず、九重郎は思わず鼻と口を腕で覆った。


 蒼頡は懐から矢立と和紙を取り出した。矢立の中から筆を取り出すと、蒼頡は和紙に『けん』という字を書いた。その後、口の中で何やらぶつぶつと呪文を唱えると、『顕』という字はやがて、淡い光を放ち出した。

 蒼頡はおむらの死体につかつかと近づいていくと、

「……すまぬが、そなたの過去の記憶を少し、見せていただきます」

と言って、おむらの背中にある傷の上に、『顕』と書かれた和紙をそっと載せた。

 すると、蒼頡と鴣鷲、そして九重郎の頭の中に、おむらの生前の記憶が水のようにすう……っと、流れ込んできたのであった────。










◆◆◆











────布団の中である。裸であった。



 隣に、人の温もりを感じる。

 小さいながらも逞しく、ごつごつとした硬くしなやかな身体つきである。男の身体であった。

 おむらは全身に心地の良い疲労感を感じながら、微睡まどろむ小助に向かって、視線を注いだ。

 暗闇で見えないが、そこにある愛しい男の存在を肌で感じ、おむらは満たされた心地に酔いしれていた。


 その時ふと、おむらは何の前触れも無く、とある過去の記憶を脳裏に思い起こした。

 小助だけにはいつか話しておきたいと思っていた、秘密の、あの出来事────。


 他の者に知られてはいけない。この目で見、この耳で偶然にもはっきりと聞いてしまった、ある事実。

 おむらは愛しい人と、この秘密を共有したかったのだ。 



 意を決して口を開くと、おむらはおもむろに、小助に話しかけた。



「────小助様。実は……。

 わたくし、見てしまったのです」


 おむらの言葉に、小助が、

「……見たって、何を」

と聞き返した。


「……見てはいけないものを、見てしまったのです」

 おむらが勿体ぶるように言った。


「小助様。どうか……今から話すことは、私達の胸の内だけにとどめておいてくださりませ。

……決して他言しないよう、お願い申し上げます」


 おむらが真剣な声で、小助に向かってそう言った。


「いったい、何を見たってんだ」

 おむらの真剣な様子に、小助が聞き返した。


「────……先日執り行われたばかりの、粂吉くめきち様の処刑のことと、関係があるのでござります」


 おむらが、声を潜めて言った。


粂吉くめきちだと」

 小助が言った。おむらが、こくりと頷いた。


「ひと月ほど前から、鼠や猫が屋敷の周りで何匹か斬り殺されておりましたでしょう。そのあと、屋敷近くで村人や通りすがりの者が次第に斬られるようになりました。この辺りで辻斬りが出たと、皆落ち着かなくなって……」

 おむらが言った。


「だから、捕まったじゃねえか。粂吉が。全部奴の仕業だっただろう。村の若い女を斬り殺したところを、たまたま役人に見つかっちまったんだ。

 粂吉の奴……うちの屋敷によく出入りしていたが、あれは半四郎様が粂吉を頻繁に呼んでいたからだそうだ。同郷らしい。二人とも百姓の次男で気が合ったそうだ。

 半四郎様も驚いただろうよ。まさか竹馬の友が、知らぬ間に円蔵様の持っている刀を部屋から盗んで、屋敷の周りで辻斬りをしていたとは……」

 小助が、少し興奮気味にそう言った。


「その、刀のことでございます」

 おむらが、暗闇の中にぼんやりと浮かぶ小助の顔の輪郭を見つめながら言った。


「……刀?」


「はい。その、円蔵様の刀のことでございます。

────偶然にも、私は円蔵様が……」



 おむらが言葉を続けようとした、その時。




“────がたりっ────”




 はっ、と息を呑み、小助とおむらが揃って、部屋の戸を同時に見た。


 小助は布団から這い出ると、扉の方へゆっくりと近付き、す、と静かに戸を開けた。開けた戸の隙間からひょこりと顔を出し、小助は外の廊下をぐるりと見渡したが、今しがた部屋の外に感じた人の気配は、すでに無かった。


「……誰もおらぬ」

 小助はそう言って、部屋の戸を静かに閉めた。


 おむらは、一気に青ざめた。ぞっとした。全身に悪寒が走り、皮膚の表面にぶつぶつと鳥肌が立つのを感じた。

 嫌な予感がしていた。



「……眠くなってきた。明日も早いから、部屋へ戻るかな」

 小助が欠伸あくびを嚙み殺しながら言った。


「話の続きは、次の夜にしよう」


 小助はそう言って再び部屋の戸を開けると、もう一度外の廊下に誰もいないかきょろきょろと確認してから、おむらの部屋を後にした。



────小助が自身の部屋に戻ってから程無くして、西の部屋から円蔵の絶叫が聞こえてきた。

 烏の幻聴や蛆の幻覚を見たと騒ぎ立てる円蔵を、九重郎と半四郎がなんとかなだすかしているその様子を、小助はただ見ていることしかできなかった。

 朝には、鼠や猫の死骸が屋敷のあちこちに散らばっていた。



 死骸の処理に追われ、烏の大群によって他の奉公人たちとともに屋敷内に閉じ込められてしまったおむらは、恐怖に怯えていた。

 


 その日の夕刻、他の者の目を盗み、小助とおむらは裏庭のすぐ近くにある、東側に建てられた小さい納屋の中で少しだけ、二人きりになることができた。

 小助は瞳孔が開き、眉間に皺が寄り、張り詰めた表情であった。額に汗が滲んでいた。




「────大事な話がある」

 開口一番、小助がおむらに向かって唐突に言った。


「今宵、皆が完全に寝静まった頃合に……この納屋でお前を待っている。誰にも言わず、必ず一人で来てくれ」

 小助が逼迫した表情で言った。


「……承知いたしました」

 小助のあまりの気迫に、おむらは大事な話とはなんなのか全く見当がつかないまま、素直にそう応えた。

 小助はおむらの顔を見つめると、両肩に手をかけた。

 そのままおむらを抱き寄せ、包み込むようにしばらく抱きしめたあと、おむらの顔をもう一度見つめ、そのまま唇を重ねた。

 おむらは、このまま時が止まってしまえば良いのにと、本気で思っていた。

 

 


 納屋から離れた二人は別々の場所から他の奉公人達と合流し、手分けして、食料の備蓄品などの確認をした。いつ外に出られるかわからないため、数日分の食料と水の確保だけは皆で話し合い、慎重に行った。



 そうしてすぐに、夜になった。




 皆が寝静まった夜八よるやどき────。




 おむらは部屋を抜け出し、裏庭を出て納屋へ向かった。


 どきどきと鳴る心臓の早鐘の音を聞きながら、おむらは月明かりを頼りに、納屋の戸をそっと開けた。

 中に人の気配は無く、納屋の中はしん……と静まり返っていた。


 

「小助様」

 おむらが納屋の中に入って小さく声をかけたが、やはり返事が無い。



「……早かったのかしら……」

 おむらがぽつりとそう呟いた、その時。



 開け放っていた納屋の入口から差し込んでいた月明かりが突然消え、暗くなった。


 おむらが振り返ると、そこに、二人の男が立っていた。


 同時におむらは、暗闇に目が慣れてきた。出で立ちではっきりとわかる。どちらも、小助では無い。



 月明かりの中、ぼんやりとしか見えていなかった二人の男の顔が徐々に浮かび上がってきた。


 納屋の入口を塞ぐように、二人の男が、おむらの目の前に立っている。




「……小助は、今宵ここには来ぬぞ」



 腰に差した二本の刀のつかを撫でながら、円蔵がにたりと笑ってそう言った。


 その横に、一本の刀を握り締め、おむらの顔をじっと見つめる半四郎の姿が、薄闇の中で鬼のようにぼんやりと、浮かんでいたのであった────。









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