第5話 撞着


 与次郎と鴣鷲こしゅうは蒼頡に命じられ、広間の入口と四つの障子窓に、『しょう』と書かれた和紙を一枚ずつ、手分けをして張り付けていった。

 与次郎の姿が見えていない屋敷の奉公人達は、与次郎が手に持っていた三枚の紙がひらひらと宙を舞い、窓や扉に自らの意思で勝手に張り付いたかのように見えたため、まるで生きているかの如く動き回る和紙の様子にみるみる顔を青くし、気味悪がった。

 蒼頡が書いた『聖』という字は、やがてじんわりと淡い光を放出すると、皆が集まっている広間の一室を、その温かな光で、優しく包み込んだ。

 蒼頡が、

「よし。もしからすのあやかしが来ても、そのあやかしはこの広間に入ることはおろか、中を覗き見ることもできません。皆様安心して、こちらでお待ちください。

 ただし私たちが戻るまで、この部屋から一歩も外に出てはなりません。

────……よろしいですかな」

と、屋敷の者達に向かって言った。

 屋敷の奉公人達は誰一人、声を発しなかった。無言の承諾であった。

 

「念の為、私の式神を一人残していきます。

……与次郎────。この場は頼んだぞ」


 奉公人達には何も見えていない空間に向かって、蒼頡が言った。蒼頡が見つめる先に、与次郎の姿があった。


「……は。畏まりました」

 与次郎はどきどきと鳴り止まぬ心臓の早鐘を痛いほどその身に感じながら、蒼頡の瞳を真っ直ぐに見て言った。


 蒼頡は、与次郎に向かってにこ、と微笑むと、

「では、九重郎くじゅうろう殿。屋敷の裏庭まで案内していただけますかな」

と、槍を持った奉公人の中間ちゅうげん・九重郎に向かって言った。


「承知いたしました。では、裏庭へご案内いたします」

 蒼頡の言葉を聞いた九重郎がそう言って、勢いよく扉の方へと近寄った。が、扉に貼ってある『聖』の字が目に入った瞬間、足がぴた、と止まり、九重郎は外へ出ることを、思わず躊躇した。よくわからぬ和紙が張り付いたこの戸を、果たして無防備に開け放ち、そのまま外の廊下へと出て行ってもいいものなのだろうかと考え、戸惑った。

 九重郎が扉の前で立ち往生し、蒼頡の顔をちらりと見やると、蒼頡が、

「あ、これは失礼をいたしました。今は気配がござりませんので、心配無用です」

と言ってすたすたと扉に近寄り、九重郎の代わりに入口の戸をすぱんっ、と開け放った。

 九重郎や屋敷の奉公人たちが、蒼頡が扉を開けたことでそこから突然あやかしが襲ってくるのではないかと皆揃って瞬時に息を呑み、ひゅっと肝を冷やして、身を固くした。……がしかし、この時あやかしが襲い来ることなどは全く無く、広間の外の廊下も、いたって静かであった。


「それでは、鴣鷲こしゅう。まいりましょうか」

 蒼頡が、鴣鷲に向かって爽やかに呼び掛けた。

 鴣鷲は、市女笠から落ちる垂衣をひらりと靡かせ、蒼頡の元へと飛ぶように、ふわりと近づいた。

「扉を閉めたら、私がこの広間に帰ってくるまで決して、入り口や障子を開けてはなりませぬぞ」

 蒼頡は、与次郎と奉公人達に向かって再び釘を刺すと、扉をびしゃりと閉めて、九重郎と鴣鷲とともに、広間を後にした。

 蒼頡、鴣鷲、九重郎の三人が広間を出て行った後、扉や障子窓に張り付いている『聖』と書かれた和紙が次第に淡い光を伸ばしてゆき、やがて与次郎や屋敷の奉公人達も含めた広間の中全体を、その光でじんわりと、部屋の隅々まで静かに、優しく包み込んでいったのであった────。






◆◆◆






「九重郎殿。いくつかお聞きしたい事がございます。よろしいですかな」

 裏庭に向かって廊下を歩いている途中、前を歩く九重郎に向かって、蒼頡が声を掛けた。

 九重郎は、歩く速度を少し緩めてからくるりと後ろを振り返り、蒼頡をちら、と見やると、

「……あ、はい。私でお答えできることでございましたら」

と言った。

 蒼頡は、九重郎の背中にぴったりとついて歩きながら、

「円蔵殿と半四郎殿の部屋は、裏庭から近いのでございますか」

と聞いた。


「部屋でございますか」

 思わず蒼頡にそう聞き返したが、九重郎は蒼頡がこの質問をしてきた意図をすぐに察し、心の中で即座に、独り合点した。

 一呼吸間を置くと、九重郎は、

「いえ。どちらかといえば、部屋は二人とも、裏庭から遠い位置にございます。

 この先にある奥の階段から二階へ上がって廊下を西に進みますと、円蔵様と半四郎の部屋が並んでいます。正門から入って真正面にある屋敷の二階部分を見上げると小窓が二つあったかと思いますが、その位置にそれぞれ、二人の部屋がございます。

 裏庭はこのまま奥の階段の前を通り過ぎ、さらに進んで東……正門から真裏の位置にありますので、円蔵殿と半四郎の部屋とは、ちょうど逆方向でございます」

と答えた。


「……ふむ。ということは────。

 円蔵殿と半四郎殿は、二日前の晩のことについて、やはり嘘をついておったということでございますね」


 蒼頡が、感情の全くこもっていない淡々とした口調で、九重郎に向かってそう言った。

「……」

 蒼頡の言葉を聞き、九重郎は黙った。九重郎があえて黙しているということを、蒼頡はわかっていた。


「────円蔵殿は、“何やら裏庭の方から怪し気な声が聞こえてきたため目を覚まし、寝ている半四郎を部屋まで起こしに行ってから、二人で揃って見に行った”と仰っておりましたが、西の正門側にある二階の部屋と真反対の位置にある東の裏庭からお二人の部屋まで怪し気な声が聞こえてくるなどというのは、どう考えても腑に落ちない点でござります。

 円蔵殿と半四郎殿は、明らかに嘘をついている。

……二人が嘘をついているということを、九重郎殿も実は、重々ご承知なのではござりませぬか」


 蒼頡にそう問われると、九重郎は、

「まあ……たしかに私も裏庭からの声があの部屋まで聞こえるなぞ全くもっておかしいと思いましたし、半四郎の隣に私の部屋がございますが、その時実際に私の耳には何も聞こえておりませんでしたので、二人が嘘をついていることは充分気付いておりました。……陰陽師様の仰る通り、円蔵殿と半四郎の話が真実でないことは火を見るよりも明らかでございます。

 しかし円蔵殿と半四郎が、裏庭から怪し気な声がまことに耳に聞こえてきたと、頑なに言い張るのですよ。蛆の幻覚のこともあり、小助や女中達は二人の話を信じてしまっているようで、さらに小助は昨暁、実際に円蔵殿と半四郎とともに烏のばけものをその目で見たと、証言しております。それでまあ、二人が嘘をついていることについては、私はあまり深くは考えないようにしておりました」

と、正直な自身の胸の内を明かした。


「────なるほど。

……ちなみにもう一つお聞きしたいのですが────おむら様の部屋は、この屋敷のどちらにあるのでございますか」

 蒼頡が少し考えてから、再び九重郎に訊ねた。


「おむらですか。

 おむらの部屋は、裏庭に近い東の位置にございます。

 ちょうど、二階の小助の部屋の真下にございますね」

 九重郎がそう言うと、

「……小助殿の部屋の真下、ですか」

と、蒼頡が聞き返した。


「ええ。

……実は……陰陽師様。この際でございますので、私が知っていることを何もかも、包み隠さずお話し申し上げます。

 ここだけの話ではございますが……その、小助とおむらは、実は恋仲であったのでございますよ」

 九重郎が声を潜めて、背中にいる蒼頡に向かって打ち明けた。


「恋仲」

 蒼頡が、九重郎が吐露した言葉を繰り返した。


「ええ。どうも小助の奴は月に何度も、人目を盗んで自分の部屋をこっそりと抜け出しては、おむらの部屋まで夜な夜な逢引に行っていたようでございます。二人は屋敷の者達に知られぬよう隠しておりましたが、かような狭い屋敷の中、皆にばれない方がおかしいことでございまして」

 九重郎が辺りをきょろきょろと警戒しながら歩を進め、そう言った。

 

「もしやからすが現れた前日の晩も、小助殿はおむら様の部屋へ逢引に行っておったのでございますか」

 蒼頡が九重郎に聞いた。

 九重郎は首だけをくるりと動かし、振り返って蒼頡の顔を見つめた。そうして口を閉じたまま鼻から息を深く吸い込み、ふー……と、長い息を鼻から吐き出した。

「……やはり陰陽師様は、勘の鋭い方でございますね。

 おそらくそうだと思います。

……というのは、円蔵殿と半四郎が────。いや、実はあの二人……。小助とおむらの夜伽の行為を、夜中に実はこっそりと、おむらの部屋までたまに盗み見に行っていたのでございますよ。以前から、皆が寝静まった夜中に二人で示し合わせておむらの部屋まで何度も出向いておりまして、誰にも気づかれぬよう、二人の情事を隠れて覗き見たり聞いたりすることを愉しんでおりました。一度、私も来いと半四郎に誘われたことがございましたが、おむらにも小助にも全く興味が無い私にはその誘いはどうにも気が進まず、断っておりました。

 二日前の晩も、円蔵殿と半四郎が何やらぼそぼそと話す声と、そのまま二人でこそこそと部屋を抜け出す怪しい音が、私の耳に聞こえておりました。そういう時は決まってあの二人は揃っておむらの部屋へ覗きに行っておりましたので、おそらくあの晩もいつものように小助はおむらの部屋へ逢引に行っていたのだと思います。

 かように怪しき事態が起こっているこの不穏な時ぐらい、円蔵殿も半四郎もそのような無粋な行いなどやめておけばよいものを……。今宵も二人でおむらの部屋に行ったのだなと、私は夢うつつになっている薄い意識の中で感じておりました」

 九重郎がそう言うと、

「……ははあ。────なるほど。

 ということは、二人は小助殿とおむら殿の行為を盗み見るため、おむら様の部屋にこっそりと行かれたその時に、裏庭から怪し気な声を聞いたのかもしれませぬな」

と、蒼頡が言った。


「……それかもしくは、小助とおむらの夜伽の行為を見に行ったことを隠すため、怪しき声がしたなどというありもしない出鱈目な嘘を、咄嗟についたのではないでしょうか……」

 九重郎が、胸の内に感じていることを述べた。

 

「しかしもし怪し気な声というのが出鱈目だったとしたら、二人が裏庭に出て行くきっかけがござりませんね。

 それに、小助殿がおむら様の部屋に一緒にいたのなら、昨暁おむら様が裏庭に行っていることに、小助殿は気付かなかったのでしょうか」


 今まで蒼頡の後ろで二人の会話を黙って聞いていた鴣鷲が、ふと疑問に思ったことを口にした。


「小助はおむらとの事が済んだら、夜明け前には二階の自分の部屋に戻って行くようでしたので、昨暁もおむらが裏庭に行く前に、おむらの部屋を後にして自分の部屋へ戻っていたのかもしれません。小助の部屋からなら、二階であっても裏庭で叫ぶおむらの声は充分聞こえるでしょうから。

……あ。そういえば、昨暁は円蔵殿も半四郎も、夜中に部屋を出て行ったきり、一度も隣の部屋に戻ってきてはおりませんでしたな。夢うつつでしたので、定かではございませんが────」

 鴣鷲の言葉に、九重郎が記憶を辿りながら言葉を返した。



 蒼頡がぐっと瞳を見開き、ぐるぐると思考を巡らせていた、その時。



"────ご……ごご……ごごご……────"



 黒く禍々しき靄のようなものが、突如蒼頡たちの目の前に立ちふさがるように現れた。


 九重郎は目の前にあるその黒い靄には全く気付かず、辺りを警戒したまま、重苦しい靄の渦の中を、無防備にずんずんと突き進んで行った。


 蒼頡が九重郎に声を掛けようとした瞬間、逆に九重郎が、後ろにいる蒼頡に声を掛けてきた。



「陰陽師様。ここに、先ほど言っていた二階に上がる階段がござります。

 ここを通り過ぎてさらにこのまま東へ進むと、裏庭がある勝手口が見えてきます」

 九重郎が、二階に上がる階段と東に進む廊下を順に指差し、蒼頡と鴣鷲に向かって説明した。



 九重郎が指を差した階段の上、そして東に向かう廊下の奥、その両方から、肌を刺すような痛いほどの"おん"の気が同時に、蒼頡と鴣鷲の全身に、上から重くのしかかってきていたのであった────。

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