第10話 九頭龍大神


 両腕を上半身ごとがっちりと縛り付けられている蒼頡のふところの中へ、鬼女が自身の卑しい右手をするりと差し込んだ、その時であった。

 蒼頡の懐の隙間から突如、目がくらむほどの激しい閃光が


────────カッ!


と一瞬にしてはなたれ、闇に包まれていた岩窟内を、まばゆく照らし出した。


 直後、


────────ぶつりッ、


という肉の裂ける音が、洞窟内に響き渡った。


「────ぎゃあッ!!」


 鬼女が悲鳴を上げ、蒼頡の懐に入れた右手を、素早く外に出した。

 見ると、鬼女の右手首がぱっくりと半分にまで割れており、中の骨と赤い肉が、痛々しく見えていた。


 鬼女が自身の負傷した右手を外へ出したと同時に、蒼頡の懐から、一枚の光る和紙がひらり、と飛び出してきた。


 和紙には『たつ』という字が書かれており、淡く光っていた。

 その淡く光る『たつ』の字の中から、鈍色にびいろに輝く一本の立派な斧が、鋭い刃先をギラつかせながらゆっくり、するすると、静かに姿を現し出した。


 やがて和紙から出てきた斧は、がらんっ、と重たい音を立てて下に落ち、淡く光ったまま、動かなくなった。

 書かれていた『断』の字は消え去り、和紙は白紙となって、ひらひらと、斧の横に舞い落ちた。


 発光している斧のおかげで、闇に包まれていた洞窟内がほんのりと照らし出され、蒼頡の目に、今いる岩窟内の内部の様子がようやく見えるようになった。

 上下左右がごつごつとした岩の群れに包まれていることは予想がついていたが、蒼頡が想像していたよりも、そこはずっと広い空間であった。


「……お……おのれ……」


 目の前の鬼女が、深手を負った右手首を左手で抑えながら、蒼頡をキッ、と睨んだ。

 鬼女は、全裸であった。


 蒼頡は鬼女を見据えながら、


「……自らの欲望を満たすためだけに神の地を荒らし、人の命をもてあそんだその愚行。

────ただでは済まんぞ」


と、静かに言った。

 蒼頡の言葉に、鬼女は口の端を小さくゆがめ、ふっ……と、鼻でわらった。


 直後、鬼女の目がみるみる血走り出し、ぶるぶると小さく震えだした。

 同時に、鬼女の額と前髪の生え際がめりめりと音を立てて浮き上がり、びちびちと肉を裂きながら、鋭い二本のつのが、ずるり……と姿を見せた。

 口の端からは黄色い牙が二本、めきめきと飛び出し、整っていた美しい顔つきが、憤怒の形相に変わった。

 

「……そのような手も足も出ぬ姿で、何をぬかすか……。

 無駄な抵抗なぞしおって……!」


 そう言うと、鬼女は腰をかがめ、目の前に落ちていた光る斧の持ち手を、左手でぐっ、と掴んだ。


「……同じ目に合わせてやろう」


 言うなり、鋭い目つきで蒼頡を睨むと、鬼女は再び口の端を小さく歪め、斧を持つ左手にぐぐ、と力を込めた。

 蒼頡の瞳に、全裸で斧を振り上げる恐ろしい鬼女の姿が、はっきりと、映り込んでいた────。





◆◆◆





「……鴣鷲こしゅう殿。

 ここまで来たのはいいのですが……。

 ここから先、一体どうすれば……」


 九頭竜山くずりゅうざんの山頂にたどり着いた与次郎が、隣にいる鴣鷲こしゅうに向かって聞いた。


 鴣鷲は、


「……申し訳ござりません。

 わたくし自身も、正直ここからどうしたらいのかが、実は今ひとつわかっておりませぬ……。

 与次郎様の持っていらっしゃった梨を見て、この場所しか無いと、思ったのでございますが……」


と、申し訳なさそうに言った。


 鴣鷲を見つめると、与次郎はそこから見える見事な山々の方に今一度向き直り、しばらくその景色を眺めた。


 やがておもむろに右手をふところに入れ、そこから実がぱんぱんに熟した、金色に淡く光るあの大きな梨を掴んで外に取り出すと、胸の前でその梨を手の平の上に乗せ、上からじっ……、と、梨を眺めた。


 その時、与次郎と鴣鷲の身体を、一陣の風が、


“────────ざあっ!”


と、吹き抜けた。


 直後、与次郎の手の平に乗っていた梨が、


“……ころっ“


と、横に倒れた。



“────────…………むくりっ”



 梨が、


「…………むっ!?」

 与次郎が、思わず声を上げた。


 動いた梨が、一回り大きくなった。


“…………むくりっ”


「……!」

 またしても梨は一回り大きくなり、与次郎の手の上で、ずしり、と重くなった。


“…………むくっ……”


“…………むくむくむくむくむくっ……”


 梨は徐々に大きくなり、与次郎の頭くらいの大きさになった。


“…………むくむくむくむくむくっ……”


 梨はまだまだ大きくなり、与次郎はいよいよ、手の上に持っていられなくなった。


「っ……あ!」


 とうとう、与次郎は梨から手を離した。


 梨は光りながらさらに巨大になっていき、与次郎の背丈程の高さになった。


“…………むくむくむくむくむく…………っ!”


 梨の成長は止まらず、与次郎の背丈を軽々と超えると、そばに立っていた立派な山木さんぼくの幹をもあっという間に追い越し、縦に横にむくむくと、ますます膨れ上がっていった。


 と、その時────。


 今まで晴天だった青空に、どんよりとした巨大な黒雲が、みるみる立ち込め始めた。

 太陽は隠れ、分厚い雲が与次郎と鴣鷲の頭上に、ごうごうと拡がった。

 やがてその分厚い雲の中から、激しい稲光いなびかりとともに、


"────どおおおうううんっ!!"


という、凄まじい雷鳴が轟き出した。


 空を見上げた与次郎は、


「……あっ……!!」


と、驚きの声を上げた。



 雷鳴轟く分厚い黒雲の間から、ぬうっ……と、巨大な一匹の立派な龍の顔が突如、顕現したのである。

 その大きく炯々けいけいたる二つの眼光が、北信五岳の山々を、空からギラりと眺めた。


 するとその横からもう一匹、同じ大きさの龍の顔がぬうっ、と現れ、二匹の龍の顔が、黒雲の中に並んだ。

 さらにその周りの雷雲を掻き分けて、次々と同じ龍の顔が、三匹、四匹、五匹……と、姿を現し始めた。


 全部で九頭の巨大な龍の顔が、雷鳴轟く黒雲の中から、与次郎と鴣鷲の頭上に、凄まじい大迫力の姿を、現したのである。


 九頭の龍は、巨大な梨を一目ひとめ見るなり、大声で一斉に笑い始めた。


「「「────…………ぐっ、がっ、がっ、がっ!!


…………これはなんとも…………。


────美味うまそうな梨が、落ちておるではないか…………────」」」


 戸隠山の守護神、九頭一尾の水神が、巨大に成長し続ける見事な梨を見てひくひくと鼻を動かし、立派な長いひげを優雅に泳がせ、みな一斉に声を合わせて、嬉しそうに、そう言ったのであった。

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