第9話 九頭龍山


 与次郎と鴣鷲こしゅうは、蒼頡と鬼女が消え去った戸隠村とがくしむらを後にし、二人揃って、戸隠山とがくしやまの山道の手前に辿り着いていた。


 山道の入口にある樹の幹には注連縄しめなわがしてあり、その注連縄の境目から奥が、神域であることを示している。

 注連縄しめなわをくぐり一歩足を踏み入れた瞬間、与次郎は、飯縄山いいづなやまに入った時と同様、ぴん……と空気が一変したのを、その身にぞくり、と感じ取った。


 木々の間には白く光るもやが妖しくひっそりと漂っており、山内は幽寂な雰囲気に包まれていた。


 戸隠山に入って間もなく、与次郎はまたしても息苦しさを感じ、呼吸が荒くなった。

 急な登り坂とはいえ、いつもであれば少しくらい険しい山道でもすんなり駆け登っていけるところを、今はなぜかその力が出ない。


(……そうか……)


 与次郎はそこで、ようやく勘づいた。


「……神の御力おちからが宿る神山しんざんの山中では……、

────……には、

……どうも、心身の負担が大きいようでございますね……」


 山頂に向かって息を弾ませながら駆け登る与次郎が、横で低く飛ぶ鴣鷲に向かって言った。

 与次郎の言葉に、鴣鷲は肯定も否定もせず、黙ったまま、与次郎のそばをふわふわと低く飛び続けていた。

 進むにつれ、山道はますます険しくなった。


 えぐり取られたような岩壁の横をずんずんと突き進み、足場の悪いごつごつとした大岩の群れを ぐっ、ぐっ、と踏みつけながら登ってゆくと、やがて、五十尺(約十五メートル)以上はある、垂直に伸びる神山しんざんの断崖絶壁が、凄まじい存在感を放ちながら、与次郎と鴣鷲の目の前に、どん、と現れた。


 白狐の姿となっている与次郎は、岩壁から飛び出しているわずかな岩の出っ張りに足をうまく引っかけると、美しい毛並みをさらさらとなびかせながら、天に向かって垂直に伸びる険しい岩壁を、するすると器用に登り始めた。

 鴣鷲も与次郎の後に続き、まるで水底みなぞこから水面みなもへ浮かび上がる魚のように、岩壁に沿って垂直に、すー……と音も立てずに昇っていった。


 鴣鷲とともにあっという間に岩壁の頂上に到達した与次郎は、瞳に映った光景を見た瞬間、言葉を失った。


「……これは……」


 素晴らしい景色であった。


 眼前に広がる空はすっきりと晴れ渡っており、東を見ると夏の青空の下、青々と輝く飯縄山いいづなやまの姿が一望できた。

 夜明け頃、飯縄権現いいづなごんげんに拝謁した際に体験した、飯縄山いいづなやまから天に続く階段の上から一望できたあの絶景もまた格別に素晴らしい景色ではあったが、ここへきてまた違った角度から、美しく厳しい大自然の圧巻の姿を、与次郎はその目に見ることができた。


 その眺望に感動しながら、与次郎が行く先にふと視線を向けると、両側の岩壁が削り落ちた、足場の狭いやせた尾根が長く伸び、まるで蟻が一列になって進むような幅の細い険しい道が、行く手に続いていた。

 そこは、一歩踏み外せばあっという間に崖下へと落ちて行きそうな細い道であったが、与次郎は白狐の姿のまま、臆せずひょいひょいとその道を器用に渡っていき、そのままさらに山頂へ向かって、息を荒げながら休むことなく、ずんずんと突き進んで行った。

 鴣鷲も、市女笠から靡く垂衣たれぎぬをひらひらと漂わせ、低く飛びながら、与次郎の後に続いた。


 強い陽射しを浴びる山々の森の緑や北信五岳の絶景を眺めつつ、与次郎と鴣鷲はそうしてついに、戸隠山の山頂にたどり着いた。

 

────だが、二人の目的地は、ここでは無かった。


「……ここが、戸隠山の山頂でございますか……」

 与次郎が息を切らしながら、ぽつりと呟いた。


「────はい。

 与次郎様。ここまで来たら、もうあと少しでございます」


 鴣鷲が、与次郎に向かって言った。



 れの呼吸を整えながら、


「……承知しました。

 あと、少しでございますね」


と、与次郎が笑顔で返した。


 少し落ち着きを取り戻し、与次郎と鴣鷲は、戸隠山の山頂からさらに、北東へ進んだ。

 えぐり取られたような岩の稜線がまたしても続き、その削れたやせ尾根の険しい縦走路じゅうそうろを、与次郎はぴょんぴょんと軽やかに渡って行った。


 断崖絶壁を上下に飛び跳ねながら渡り切ったのち、二人がさらに山の上へ上へと懸命に登りつめながら突き進んでいると、突如、鴣鷲が声を上げた。


「────与次郎様。見えました。

 あの場所でございます」


 暑さも相まって、いよいよ与次郎の意識が朦朧としかけた時であった。

 鴣鷲のその言葉に、与次郎は危うく失いかけていた意識を、ぐんっ、と呼び戻した。


 やがて速度を落とし呼吸を整えながら歩き出すと、鴣鷲が指し示したその場所にたどり着き、ゆっくりと、そこで足を止めた。


「……ここでございますか……、鴣鷲殿」


 与次郎が改めて聞き直した。

 鴣鷲が、こくり、と頷いた。


 与次郎は、すー……と長く息を吸い、ふー……、と、その息を深く吐いた後、改めて、ようやくたどり着いたその場所から見える景色を眺め、言った。


「……ここが、九頭竜山くずりゅうざんの山頂でございますか」


 しゅるしゅると人間の姿に戻ると、与次郎は噴き出す汗をそのままに、緊張した面持ちで、水分の無いからからになった口の中の唾を、無意識にごくり……、と、呑みこんだのであった。

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