第2話 烏山



 与次郎は、いくらか安堵した。


 行きに烏山からすやまでもののけに襲われ端が潰れてしまった荷物は、その日の夜遅くに、受け方の御武家様の元へ無事に送り届けることができた。

 入れ物が少し潰れただけで、中身は特に大事だいじにはいたっていなかったらしく、それが何よりの救いであった。


 主人の佐竹義宣に届ける荷物を受け取ると、夜分遅くに訪ねたことや荷物の端が潰れたのを丁寧に詫びてから、与次郎はその場を後にした。


 門を出ると、月明かりの中、ときが与次郎を待っていた。

 ときは、月を眺めていた。

 月光の下で、刻の姿はなんとも言えない崇高な雰囲気に包まれていた。


 与次郎は、月を眺めている刻のもとに小走りで近づくと、

とき様、お待たせ致しました。

 無事荷物を届けることができました」

と、声を掛けた。

 暗闇の中、刻が着ている白い狩衣が月明かりに照らされ、まるで発光しているかのようであった。


 与次郎が側に来ると、刻は半分欠けた月から目を逸らさないまま、

「……良い夜だなあ、与次郎」

と、しみじみと言った。


「……そうでございますね」

 与次郎も、刻と同じように月を眺め、共感した。


 刻は、にこにこと笑顔で与次郎を見返すと、

「……さあ、では、神退治の旅にくとしましょうか」

と言った。


 与次郎は、刻の首から下にちらりと目を向け、狩衣姿を眺めると、

「旅の御支度は、もうよろしいのですか?」

と聞いた。


 与次郎の言葉に、刻は、

「うむ。心配無用。

 もうできておりますよ」

と、笑顔で答えた。


 与次郎は目を見開き、

「……む……」

と言葉を漏らした後、

(……しかし……)

と言いかけて、口をつぐんだ。


 それにしては軽装であるな……、と、思ったからである。


 旅に必要な、雨や日差しを凌ぐ編笠あみがさも無ければ、長旅用の藁ぐつを履いている訳でもない。

 その格好は団子屋で出会った時と同じで、風折烏帽子に白い狩衣を纏った姿のままである。

 持っているものも、先程白い狛犬を出す時に使った矢立やたてと和紙と、飲み水を入れた竹筒のみのようであった。


 急なことで支度もままならなかっただろうから、まだ準備が整っていないにも関わらず、急ぎと聞いてもしや気を遣ってくれているのではないだろうか。

 長旅であるから、たとえ3日で戻るといえども、何が起こるか油断は出来ない。

 ましてその道中でもののけをたおしてゆかねばならぬのだから、弓や刀などの武器もるだろうし、体力もさらに削られるだろう。

 最初の宿場が見えたら、いろいろと調達しようか……。


 などと思考を巡らせていると、


「これ! 与次郎! 急いでいるのだろう!

 心配無用だから早う、おぶってくれ」


と、笑みを浮かべながら、ときはなんとも愉しそうな様子で、かしてきた。


 与次郎は、はっと我に返って、刻の方を見た。


「……も、申し訳ござりません。では、これに……」


 慌てて、与次郎は刻が背中に乗りやすいよう、腰を屈めた。

 刻は、与次郎の背に乗った。



「では、参ります」


 与次郎はそう言うと、刻の重みを背で受けながら、地面を後ろへ蹴り上げ、凄まじい速さで、闇の中を駆け出して行った。





◆◆◆




「ところで、与次郎」


 しばらく走っていると、背中に乗っているときが、声をかけてきた。


「なんでございますか」

 与次郎が聞いた。


「……そなたの名ですが……。

 字はどう書くのですか」


 刻が聞いた。


「……は。

 字、でございますか」

 与次郎は聞き返した。


「はい。真名まなが知りたいのです。

 よじろう、とは、どのような字を書くのでしょう」


 刻の問いに、与次郎は、

「は……。真名は、『つぎあたふ』と書きます」

と答えた。


 刻はそれを聞いて、

「ほお……」

と、なんとも嬉しそうな声を漏らした。



「なんと……。

 い名だ。まことに」


 刻は、しみじみとそう言った。



「久保田藩の主人に、名付けていただいたのでござります」


 与次郎は、その名付けてもらった頃のことを思い出し、急に懐かしさで胸が溢れた。



「……昔、住む場所が無くなり困っていたところを、えんあって主人の義宣よしのぶ様に助けていただきました。

 その時、名ばかりでなく、土地まで授けていただきました。

 この御恩は一生かけてお返ししようと、その時この身に、固く誓ったのでございます」


 与次郎は、はっきりとした口調で言った。


 刻は、

「それはそれは……。

 良き主人と、素晴らしい御縁によって、巡り会えたわけですね」

と、微笑んで言った。


「はい。仰る通りでございます」

 与次郎は答えた。


 刻は微笑んだまま、また、名のことについて話し始めた。


「……そなたの名、『』という字は、はるか昔、二本の象牙を多くの手で持ち、仲間とともに捧げさまが、真名まな に変化したものです。

 転じて、『』というたった一文字ひともじの中に、『助け合うこと』や、『仲間とともにゆく』『物を授ける』といった、多くの意味が隠れているのです」


 ときは、続けて言った。


「『与える』とは、この世に生きる上でまことに素晴らしい行いだと、わたくしはつくづく思いますよ。

 例えば食べ物を分け与える行いは、身を削ってその相手を自分とともにこの世に生かすということです。

 そのものの未来を繋ぎ、次の縁を繋げることになるのです。


 『次に与ふ』


 『与次郎よじろう』という名は、『縁を繋いでいく』ことと、同等の意味があるのです。


 まことに素晴らしき、い名ですな」


 刻は、しみじみとそう言った。



 刻のこの言葉に、与次郎は少し、顔が熱くなった。


 名を聞かれて、こんなにも自分の名を褒められたことはなかった。

 同時に、主人の義宣につけてもらったこの自分の名を改めて誇らしく思い、静かにじんわりと、心が熱くなるのを感じていた。


 刻は言った。


「言葉を扱うのは、この世で人間だけです。

 その辺に転がっているただの石ころも、人が『石』と名付けたことによって、この世にある立派な存在となり、たましいが宿るようになったのです。


 言葉とは、この世にある全ての森羅万象に、人間がそれ自体に意味を持たせたたましいみなもとです。

 名にはさらに、そのものの強力なたましいが宿ります。

 自分に付けられた名は、この世に生まれ存在している、あるいは存在していたという、特別なあかしでもあるのです。

 自分の名を一生、大切に扱わなければなりません」



 与次郎は、低い声で響く刻のその一言ひとこと一言に、集中して耳を傾けていた。


「……特別な証……」


 与次郎は、ぽつりと呟いた。


 刻の一言一言が、胸の奥底に深く深く沈み込み、やがてゆっくりとひとつになってゆくような、不思議な感覚になるのを感じていた。


 刻の話の余韻に浸りつつ、与次郎は走りながらふと、刻の名のことを思った。


(……刻様の名は、いったいどういう意味なのだろう……?

 そういえば、かりの名と仰っていたな)


 与次郎が口をひらきかけたとき、目の前に、昼過ぎ頃に立ち寄ったあの宿場が見えてきた。


「……あっ、刻様。宿場が見えてきました。

 少しだけ休んでゆかれますか」


 与次郎は刻に聞いた。


「うむ、そうしましょう。

……少し確かめておきたいこともあります」


 与次郎は背中に乗っている刻に、「承知しました」と一言ひとこと応えると、速度を増し、宿場に向かって、勢いよく突き進んで行った。




◆◆◆



 宿場に着くと、1人の継飛脚つぎびきゃくの男が馬の世話をしていた。

 月が隠れ、辺りはまだ真っ暗だったが、時刻はあかつき七つ頃、あと小一時間程で、東の空にが出始める頃であった。


 刻は与次郎の背から降りると、馬に草をやっているその継飛脚の元へ、一直線につかつかと近づいていった。



「もし。ちょっとお訊ねいたします」

 刻が声をかけた。


 継飛脚は、暗闇で突然声をかけられたため、一瞬びくっと体をすくめた。

 そして声がした後ろを振り返り、刻を見るや、またしても「ひゃっ!」と驚き、固まってしまった。


 刻の姿は、風折烏帽子を被り、真っ白い狩衣を身に纏った姿である。

 暗闇の中に突然現れたその白い狩衣は、淡く発光しているように見え、それを纏った刻の姿は神々しくもあり、またあるいは幽鬼ゆうきの姿のようにも見えた。

 初めは「亡霊か!」と体をこわばらせていた継飛脚であったが、月が顔を出し目が慣れると、刻のその整った顔立ちや気品溢れる凛とした立ち姿に、いつのまにか少し、落ち着きを取り戻した。

 その、まるで憑かれたように、刻の姿に釘付けとなってしまった。


 刻は、自分をじぃっ……と見つめてくる継飛脚に向かって、もう一度、

「もし」

と訊ねた。


 継飛脚が、はっと我に返った。


「な、なんだい、あんた」

 男は絞り出すように、声を出した。


「わたくしたちは、これから烏山からすやまへ向かうところでございますが、この連れの者が、往路おうろで烏山の神と名乗るもののけに襲われたのでございます。

 そのもののけについてもし何か御存知でしたら、どんな事でも構いませんので、教えていただけないかと」


 刻がそう訊ねると、継飛脚は突然、


「かっ、烏山だって!?」


と弾けたように叫んだ。



「何か御存知で」

 刻がもう一度聞くと、継飛脚は与次郎の方をちらりと見てから、こう言った。


「……あ、あんた、本当に襲われたのかい……?

 ここ二十日はつかほど、あそこを通る飛脚や旅のもんたちが、次々と行方知れずになっちまってるんだ。

……噂では、烏山を通った誰ぞわからんやつが山神様を怒らせちまったもんで、怒った山の神が山道さんどうを通る人間を次々に喰っておるらしい。

 恐ろしうてそんな山へは、ようゆかん。

……悪いことは言わんから、あんた達も別の道から迂回した方がええ」


 男はそう言うと、二人の顔をもう一度交互にちらりちらりと見て目を泳がせてから、背中を向け馬の世話に戻り出した。


「……怒らせた……と」

 刻がぼそりと言った。


 結局それ以上のことは、継飛脚は何も知らないようだった。


 刻は、継飛脚の男に礼を言うと、与次郎に向き直った。


「ここで夜明けまで、少し休んでゆきましょう。

 が出てきたら、出立しゅったついたしましょう」


 間もなく空が白みはじめ、夜が明けた。


 出発する寸前、宿場で稲荷鮨屋に出会った。

 二人は稲荷鮨を二つずつ買い、旨そうに平らげて空腹を満たした。


「好物なんです」

と、顔をほころばせながら、与次郎が言った。



 宿場を後にし、刻を背に乗せて、与次郎は烏山へ向かって走っていった。


 烏山に近づくにつれて、刻の様子が少しずつ険しくなっているのを、与次郎は背中で感じていた。



「……これはなかなか……厄介ですな」


 刻は言った。


「何か、感じるのですか」

 与次郎が聞いた。


「……そなたの左腕の傷からうっすら感じていた気が、段々と強く感じらてきました。

 近づいておりますね」


 間もなく、不気味にそびえ立つくだんの烏山が、異様な空気を漂わせながら、刻と与次郎の目の前にひっそりと現れた。

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