第1障

第1話 与次郎



 江戸時代初め頃。


 久保田藩 初代藩主、佐竹さたけ義宣よしのぶに飛脚として仕えている、与次郎よじろうという男がいた。

 外見は童顔、切長の目に白い肌、唇は小さかった。

 中肉中背だが身体は鍛え上げられていて、飛脚と言われると納得するほど、脚の筋肉が特に発達していた。


 一見すると男前の快男児だが、与次郎は、普通の飛脚とは一味も二味も違った。

 久保田から江戸まで、通常の人の脚では片道十五日程度かかるところを、一人六日で往復するほどの俊足の持ち主であった。

 これほど速く帰ってくる飛脚は、他にはいない。


 義宣よしのぶは与次郎を大層気に入って、与次郎のために城の北側に土地を与え、自分のそばに仕えさせていた。


 義宣に仕えて六年ほど経ったある日、与次郎はいつものように、江戸まで使いを頼まれた。

 預かった大切な荷物を、与次郎はしっかりと自分の身体にくくりつけ、落ちないように固定した。

 そして、「行ってまいります」とひとこと挨拶をすると、地面を勢いよく蹴り上げて、飛ぶように城を出発した。



 一日経ち、二日経っても、与次郎は一睡もせず、ひたすら走った。


 休みなく走り続け、丸二日半ほど経った。


 与次郎は下野国しもつけのくに烏山からすやまを駆けている最中であった。

 この調子なら、江戸までは半日もかからず着くだろう。


 森の中、与次郎はそう思いながら、木と木の間の道なき道を、猛スピードで駆けていた。


 と、突然、今まで晴天だった空の雲行きが怪しくなり、晴れ渡っていた空にみるみる黒雲が拡がり始めた。



(まずい。雨が降るぞ)


 思った矢先に、突如、雷がけたたましく鳴り響いた。

 そして、ぽつ、ぽつ、と雨粒が頬に当たり出した。

 間もなく豪雨となって、走っている与次郎を襲った。


 激しい雨で前が見えない。

 地面がぬかるんで足はドロドロになり、速度が緩んだ。

 与次郎は、それでも足は止めなかった。


 と、その時、またしても激しい雷鳴とともに、一瞬黒い影が与次郎の目の前を掠めた。


 何かを察知し、思わず身構えた瞬間、鋭い痛みが与次郎の左腕を貫いた。



「!」


 突然の激痛に、足を踏み外した与次郎は、山の斜面に沿ってたまらず転げ落ちてしまった。


 ゴロゴロと転がり落ち、途中木の幹に体を打ちつけ、止まった。

 ぐうっ……と、喉から声にならない声が出た。


 激痛。


 またしても、雷が轟いた。


 与次郎は、左腕と打ちつけた身体の痛みに耐えながら、荷物を見た。

 潰れた部分があり、中身の確認はできない。


 無事だろうか……と思った瞬間、ざぁざぁと降る激しい雨音とともに、天から声が降ってきた。



「……これは……珍しい……極上の……」



 ぞっとする声だった。

 腹の底にずしんとくる、低い、重い声だ。



「……なにものだ。もののけか」

 与次郎が言った。


「……この山に棲む神だ。喰うぞ」

 卑しい笑みを含んだ声が言った。

 稲光りとともに、激しい雷鳴が響き渡った。


 と同時に、与次郎はあの発達した脚で地面を踏み締め、勢いよく立ち上がって、雨でドロドロになった地面の土を、抉りながら後ろへ蹴り上げた。

 そして、瞬く間にその場からいなくなった。


「待て。逃がさん」

 低い声が言った。



 雷雨の中、猛スピードで与次郎は走った。

 左腕は何かが貫通した痕があり、傷痕は焼け爛れて血が出ている。

 とにかく無事に江戸まで荷物を届け、江戸からの荷物を主人に持ち帰らねばならない。



 遠くから声が聞こえた。

「むう……」


 さっきより、声がだいぶ遠い。

 どうやら、与次郎の俊足に追いつけないようだった。


 無我夢中でしばらく走り続け、烏山を抜けた時、それまで激しく降っていた雷雨が止み、黒雲が消え去った。


 そして、今の出来事がまるで嘘だったかのように、視界がぱっと明るく開き、目の前に青空が広がっていた。


 逃げ切れたのである。


 それからも休みなく走り続け、ようやく宿場しゅくばが見えて来た。

 城を出てから初めて、与次郎は宿場で休むことにした。





◆◆◆




 宿場で傷の手当てをし、水分を補給し、好物の稲荷鮨を頬張りながら、与次郎は少し考え、不安に思った。


(予定が狂った。帰りもあの山を通らないと、約束の日に城に戻れない)


 もののけに襲われたため、すでにかなり時間が過ぎてしまっている。

 江戸まではもう目と鼻の先まで来ているのでまだなんとかなるが、帰りにまたあの烏山からすやまを通って戻らないと、城に着くのがだいぶ遅れてしまう。

 迂回する手をぐるぐると考えたが、慣れない道はあまり気が進まない上に、義宣よしのぶと約束した日までに城へ戻るとなると、やはり間に合わない。

 そもそも、烏山は何度も行き来しているのに、与次郎があのようなもののけ(か、もしくは神)に襲われたのは初めてのことであった。

 また襲われて大怪我をすれば、それこそ致命的である。


 どうしたもんか……と思いながら二個目の稲荷鮨を頬張っていると、同じ宿場で休んでいる、二人の継飛脚つぎびきゃくたちの会話が聞こえてきた。



「あれはかの有名な陰陽師、安倍晴明あべのせいめい様の生まれ変わりかもしれん」


「いや、大江山の鬼、あの酒呑童子しゅてんどうじたおした、源頼光公みなもとのよりみつこうの子孫であるに違いないという噂ぞ」



 与次郎は、継飛脚たちを見た。

 継飛脚たちは、与次郎が突然振り返って自分たちを見てきたので、

「ん? あんたも知っているのかい?」

と聞いてきた。


「いや、全く知りません。何の話をしているのですか」

 与次郎は聞いた。


「江戸のはずれに、あやかしやもののけを見事退治する有名な陰陽師がいるんだ」


「つい二、三日前も、石工いしくの男に取り憑いたもののけを、何かの法力ほうりきか呪術によって見事、祓ったらしいのだ」

 継飛脚たちは口々に話した。


「なんという名の陰陽師なのですか」

 与次郎がまた聞いた。


「それが、名を名乗らぬそうだ。

 名を聞くと、名乗るほどのものじゃございませんと言って、名を明かさぬそうだ」

 左の継飛脚が言った。すると、右の継飛脚が言った。


「いや、それが先程噂していたその石工が、そのかたに向かってどうしても名を知りたいと何度も食い下がったところ、

『そこまでおっしゃるのでしたら、周りには、"とき"と、呼ばせております』

と、そうおっしゃっていたそうだぞ」



「……"とき"、と」


 与次郎は聞き返した。珍しい名だ。

 忘れないように、与次郎は(とき、とき)と何度も頭の中で繰り返した。そして継飛脚たちに、

「江戸のはずれとは、どちらになりますか」

と聞いた。


「あんた、まさか会おうとしてるのかい」


 与次郎はうなづくと、

「急いでその方に、ご相談したいことがあるんです」

と言った。


「それなら、今ならまだ江戸の石工の元を離れてはいないらしいから、急いで行けば会えるかもしれんぞ」


「わかりました。今すぐ向かいます。石工の家は、江戸のどの辺りにございますのでしょうか」


 与次郎は石工のいる場所を聞くと、継飛脚たちに礼を言って、瞬く間に江戸に向かって走り出した。



(────……とき。とき。とき……────)


 頭の中で何度も、その陰陽師の名を繰り返した。






◆◆◆





 江戸に着く頃には、が西に沈みかけていた。

 荷物を届ける前に、先に石工のもとへ行きたかった。

 もしその陰陽師が江戸のはずれの屋敷に帰ってしまったら、さらに時間をくってしまう。



 江戸の町に入ると、夜が迫っているからか、人通りはまばらになっていた。


 石工のもとへ急ごうと道を走りかけると、遠く橋の向こうの川沿いに、団子屋が見えた。



 与次郎はふと、その川沿いの団子屋のえんに腰掛けている、風折烏帽子かざおりえぼしを被った男に目が止まった。


 与次郎は、その男が妙に気になった。


 進行方向を右に変え、橋を渡り、まるで引き寄せられるように、川沿いの団子屋に向かって歩いていった。

 団子屋に近づくと足を止めて、ゆっくりとその団子屋の縁に座っている、風折烏帽子の男に近づいてみた。



 真っ白い狩衣かりぎぬを着ている。



 風折烏帽子の男が、与次郎に気づいた。

 目が合った。


 くっきりとしたふたえまぶたで、瞳が大きい。

 眉はきりっと太く山形で、鼻筋はスッととおっている。 

 なんとも端正な顔立ちをしている。


 見つめられると、その大きい瞳に吸い込まれそうな、心の中を見透かされているような心地がした。



 整った薄紅うすあかい唇が開き、にこりと笑った。



「呼んでいたのはそなたでしたか」


 男が言った。



「……え」


 男の言葉に、与次郎は思わず声を漏らした。



「『とき、とき』と、呼んでいたでしょう」



「!」


 与次郎は、声も出ず驚いた。



「あなたが心内こころうちに呼んでいるときとは、わたくしのことかと」


 男はそう言うと、皿に残っていた団子の串を手に取り、三つ刺さっているうちの最初の一つを頬張った。



「……まさか、あなた様が……。

 とき様でいらっしゃいますか」


 与次郎は少し身構えながら、男に聞いた。



 男はふふっ、と笑った。



「……あまりにもそなたがわたくしの名を呼ぶので、ここで団子を食べながら、待っていたのですよ。

 段々と声が大きくなってきたので、来い来い、と呟いていたら、程なくしてそなたが現れました」


 団子を味わい飲み込んでから、男は言った。

 皿の上には、すでに団子が刺さっていない串が一本、残っていた。


「あなた様は、心のうちが読めるのですね……?」


 与次郎がまた聞いた。



「念ずる力が強いと、なんとなく。

 ましてかりとはいえ、自分の名でしたから」


 男が、さらりと言った。





 驚いた。


 まさか、江戸に着いてまだ間も無いというのに、こんなに早くこの目の前の御方おかたに会えるとは、与次郎は思ってもいなかった。

 まるで、与次郎が急いでいるのを承知で、ここぞとばかりにこの方の元へ天が導き、与次郎の手助けをしてくれたような気がした。


 不思議なことに、男と会ってから、与次郎はいていた心がなぜかすー……っと静まり、穏やかになっていくのを感じていた。


 男の周りの空気が、澄んでいる。

 夕闇が迫っているというのに、なぜかこの男が光り輝いているように見え、不思議とまぶしく感じられた。



「────……やはりお噂どおり、人並み外れた御方おかたとお見受けいたします」

 与次郎が言った。



 あははっ、と男は突然、はじけるように笑った。



「その言葉、そっくりそのままお返しいたしますよ」

 男は楽しそうに笑って言った。


「飛脚の与次郎とは、そなたのことですね?」


 笑顔で男は聞いてきた。

 与次郎は、名も名乗らぬうちから素性を見抜かれたことにまたしても少し驚いたが、

「……いかにも」

と素直に返事をした。


「しかしどうして……」

……わたくしのことを……、 と与次郎が言いかけると、男は言った。


「飛脚のなりをしているのは、見ればわかりますが……。

 ただの飛脚ではないということも、わたくしには感じ取ることができましたよ。


飛脚ひきゃく与次郎よじろう


 なんでも、千里せんり十日とおかで走るとか。


 それほどの飛脚はなかなかおりませんので、そなたを一目ひとめ見た瞬間、あの噂の飛脚であろうと、悟りました。

 有名でございますよ」


 大きい、きらきらした瞳で、男は与次郎を見つめた。


 与次郎は、少しだけ納得したと同時に、

「千里を十日で! さ、さすがにそれはっ……」

と、少しおずおずとした。


 誇張された自分の噂話が広まっていることに動揺し、とまどってしまった。


 与次郎のそのとまどっている様子を、男はきらきらした大きな瞳で微笑みながら、楽しそうに見ていた。



「ところでなぜ、わたくしの名を呼んでいたのですか?」


 男の問いに、与次郎ははっと我に返り、怪我をした左腕のズキズキとした痛みを感じながら、いきさつを話した。


 そして、

「……この荷物を届け終えた後、城へ戻る道中にある、烏山からすやまの神と名乗るもののけをどうか、たおしていただきたいのです。

 江戸へは今日限りでなく、この先何度も行き来いたしますので、通り道で毎度、烏山の神に邪魔をされると困るのです」

と言った。



「なるほど。しかしわたくしは、そなたについて行けるほどの脚を持っておりませんぞ」

 ときがそう言うと、


「わたくしがおぶって行きます」

と、真剣な表情で、与次郎が返した。


「ほお……」

 ときが、嬉しそうな、それとも楽しそうな、しかしそれを必死でこらえているかのようななんとも言えない表情になって、声を漏らした。


「もしそのもののけをたおすことができましたら、久保田の城までそのままあなた様をおぶってお連れいたし、盛大におもてなしいたします。

 宴が終わり充分お休みくださいましたら、わたくしが江戸までおぶって、とき様をお送り致します」

 与次郎が、ときの目をまっすぐに見て言った。



 人一人ひとひとりをおぶって、三日で江戸から久保田藩くぼたはんまで戻ると、与次郎は言っているのである。

 そしてその道中で烏山のもののけを退治し、無事久保田藩の城まで戻ることができたら、宴を開きときをもてなし、そしてまたおぶって江戸まで送り返すと、言っているのである。



「その言葉、まことでありますな」


 ときの問いに、


「はい。まことであります」

と、与次郎は答えた。



 ときは、口を真一文字にして堅い顔をしている与次郎に向かって、にこっと爽やかな笑顔を返した。



「では準備いたしましょう」


 そういうと ときは、ふところから矢立やたてと和紙を出し、中から筆を出して、さらさらと『こま』という文字を書いた。


 すると、すぐにその『こま』という文字が淡く光り出した。


 と同時に、和紙が少しづつ、生きているかのように盛り上がり始めた。


 と、突然、その和紙から、白い石でできた、光り輝く立派な狛犬こまいぬが目の前に飛び出し、地面に音もなく着地した。

 膝下くらいある大きさで、ときを見つめながら、煌々と光っている。

 姿かたちは石で出来ているのに、まるで犬のような動きをし、生きている。


 先程さきほどときが『こま』と書いた和紙は、『狛』の字が消え去り、まっさらな状態に戻って、ひらひらと地面に落ちていた。




「なん……」

 言葉も出ず与次郎が驚いていると、ときは残っていた団子を一つ串から抜き、狛犬に向かってポンと投げた。


 狛犬はその団子をうまく口で受け取り、飲み込んだ。



 そして、


びゃくよ。主人が戻るまで家の番をし、守っていなさい」

と、ときがその狛犬に命令した。


 和紙から出てきたその光り輝く狛犬は、ときにそう命じられると、一瞬のうちに姿を消した。



「いまのは……」

 与次郎が聞くと、ときが笑顔で言った。


「ついこの間まで、石工を困らせていた狛犬の神です」


 その言葉を聞き、与次郎は、はっ、と息を呑んだ。



(……もしや、継飛脚達が噂していた先日の石工のもののけというのは……)

と、与次郎が思考を巡らせていると、


「さあでは、まいりましょう。

 最後のおひとつ、いかがかな」


 団子を掴んだ手を、竹筒に入っている水で洗い流してから、ときは与次郎に、串に刺さっていた三つ目の最後の団子を差し出した。


「あ! かたじけのうござります。実は、小腹こばらが減っておりました」


 与次郎はそう言って、残っていた最後の団子にかじり付いた。


 その様子をにこにこと眺めると、ときは、


「さて、ではまずはその荷物を届けなくてはなりませんね。

 まいりましょうか」


と言って立ち上がり、与次郎とともに、団子屋を後にした。



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