第13話 名前

「俺にはきっと愛情がわからないんだ。お前はどうしてその気持ちが愛だとわかるんだ?」


紅玉の瞳には純粋な光しか見えない。心底不思議なのだろう。

本当に困った人。そして、とても愛しい人だと思う。


「ご存知のように、私は高い塔のてっぺんに閉じ込められて外界と隔たれた場所で育ちました。関わる人と言えば、ツゥイを筆頭に数人だけです。私も両親の愛情も恋人への恋情も知りませんが。だからこそ、あの塔から出してくれる人をずっと夢見ていました。そうして貴方が求めてくれたのです」


父は愚かな男で、母は可哀想な人だ。

テネアリアにとっての家族とは愛情を向けるような者ではなかった。

だからこそ、おとぎ話に憧れたともいえる。


「サイネイトが調べて勝手に求婚していたんだ。迎えを手配したのもあいつだぞ。俺は何もしていない」

「それを今、言います?」


正直に話さなくても別に怒ったりしないのに。

夢見る姫の願いを叶えてあげようとかいう配慮なんて思いつきもしないのだ。

呆れつつ告げれば、やはり彼の眉間の皺は深くなる。安定の困り顔だ。傍から見ればやはり不機嫌にしか見えないが。


「知ってますよ」

「なに?」

「きちんと知っています。陛下が知らないうちに求婚話を聞いて、やっぱり知らないうちに婚姻が認められて、のこのこ私がやってきたってことくらい。心の準備も整わないうちに私が貴方の目の前に来ちゃったってこともわかっています。それでも、私の夫は貴方だったから。一目惚れだって言ったじゃないですか」

「やっぱり信じられない」

「信じてくれなくてもいいですよ。私が勝手に貴方を愛しているんですから」


テネアリアはぎゅっとユディングのお腹に抱きついた。硬い筋肉で覆われた腹の熱を感じてくふふと笑う。

触れると現実だと実感できる。幸福感が増しましだ。


「ひ、姫?!」

「私は貴方の妻なのですから、名前で呼んでいただきたいわ」

「…名前」

「テネアリアです。そのままでもテネーでもアリアでもアリーでもお好きにどうぞ」


愛称を呼んでくれる人など今まで一度も居なかった。そもそも、自分の名前を呼ばれることもない。ツゥイすらほとんど敬称で呼んでいた。

だから、彼にならなんとでも呼んで欲しい。それがとても特別なことだと知っているから。


ワクワクしながら見上げれば、心底困り果てた凶悪顔があった。


「…離れてほしい、んだが」

「名前を呼んでいただけるまでは陛下のお願いは聞きません」


グリグリと頬をくっつけて引き締まった胸を堪能する。なんだか控えめな花の爽やかないい香りがする。彼がつけている香水だろうか。

それとも服に焚き染められている香だろうか。


「みだりに男に触れるのは、よくない」

「夫婦はイチャイチャするものだって知ってます。だから、これは大事なことなんです。大体、結婚したのに初夜も済ませてないとか…あ、今から初夜でもいいですよ」

「初夜?!」

「なんです、初めてってわけでもないんでしょうに」


二十六歳の男が童貞の筈がないと情報は得ている。だから、そんなに狼狽える理由がわからない。

ぱちくりと男を見上げれば、なぜだか絶望的な表情をした皇帝がいた。


「いや、お前からそんな言葉が出るとは思わなくて…何をするのか知っているのか?」

「ばっちり実地で勉強済です」

「実地で?!」

「あー、いえ、見栄をはりました。体は乙女ですわよ。でも勉強しましたからご心配なく。今から準備してきましょうか?」

「…………勘弁してくれ」

「あら、乙女の本気を無視されるの? わかりました、今すぐ準備をしてまいりますわ」

「待て!」


がばりと体を離すとぎゅっと腰を掴まれた。不可抗力だが、かなり嬉しい。


「……時間をくれ、テネアリア」


思いのほか優しげに呼ばれた名前が耳朶をくすぐる。

それだけで幸福の絶頂のような気持ちがした。

もちろん彼の懇願には満面笑顔で応じる。拒否するだなんて選択肢はあっさりと吹っ飛んだ。


「かしこまりました!」


そのあと、ユディングがデザートを食べ終わるまでお腹にしがみついていたのは言うまでもない。


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