第4話 特訓開始

 翌日も、自分たち陸上部は大会に向けた練習を行っていた。昨日ほど湿度は高くなく、肌に纏わりつくような不快な熱気は感じないものの、一呼吸するごとに口内の水分が奪われるような乾いた暑さだ。雲一つない青空には太陽が輝き、部員たちの肌をじりじりと焼いている。

 そんな中、自分は他の長距離組とは別メニューの練習を行っていた。同期や後輩に倍する速度でグラウンドを駆け抜け、次々と部員を追い越していく。このペースで走り始めてからもう少しで1000m。鼻と口から全力で酸素を取り込もうとするが全く量が足りず、心臓は破裂せんとばかりに大きく拍動している。疲労感を感じるという次元は既に超えており、脚はもはや自分の意志通りに動かなくなりつつあった。


 「ふぅううう!」


 1000m地点に到達したところで、急激にペースを落として減速する。規定距離を走り切ったという達成感が身を包み、思わず足を止めてしまいそうになった。しかし、まだ止まってはいけないのだ。これはそういう練習なのだから。

 重い脚を引きずるようにしながら、ややゆったりとしたペースで走り始める。速度を落としたことによって少しだけ身体が楽になるが、肺の痛みと呼吸の苦しさは未だ続いている。……そして、そのまま400mほどの距離を走ると、再び加速してペースを上げた。全身に乾いた風を感じ、休まっていた身体が再び悲鳴を上げ始める。

 一定の距離ごとに速いペースと遅いペースの走りを交互に行う。この練習は、いわゆるインターバル走というものだ。数ある練習法の中でも非常に強度の強いものとして知られており、自分としては名前を聞いただけで憂鬱な気分になるほどである。だが、そんな練習を自ら望んで行っているのには理由があるのだ。


 (今の俺に足りないのは、レース後半の粘りだ)


 インターバル走。その中でも比較的長距離を走るクルーズインターバルという練習には、低酸素の状況下における持久力の増加と、スピードの強化が行えるという特徴がある。また、短時間で肉体を限界まで追い込めるため、時間当たりの練習効果が高いともいわれている。後半で苦しくなってからの持久力に乏しく、大会まで時間がない自分にとってはぴったりの練習法だ。

 

 (絶対に頑張るんだ。伊藤のためにも)


 昨日の伊藤との一件があってから、自分なりになにができるか色々考えた。その中で、短期間で脚力や心肺機能、スピードなどいくつもの項目を強化するのは不可能と判断し、後半の持久力というただ一点を磨こうと決意したのだ。

 無論、そのためには他の部員との共通練習を減らし、自分に適したメニューを多く取り入れる必要がある。そこを顧問の小森に許可してもらえるかが心配だったが、以外にもあっさりと認めてくれた。


 「へぇ、お前がそんなこと言うなんて珍しいな。……まあ、陸上は個人競技だから、練習メニューを変える程度なら他の部員に迷惑はかからんだろ。お前がそうしたいんなら、最後の最後、悔いのないようにやってみろ」


 オーバーワークには十分注意すること、事前に何の練習をするか知らせることといった条件付きではあるが、そうして小森は自分の提案を受け入れてくれた。面倒くさいから取り合えず認めてくれたということではない。あのときの小森の表情は真剣そのものだった。きっと、こちらの提案の裏にある事情や感情を察してくれたのだろう。

 彼の気持ちにこたえるためにも、何としても成果を挙げなければならない。自分が背負っているのはもはや己の気持ちだけではないのだ。簡単にあきらめることなどできない。そう思うと、不思議と体に力がみなぎった。


 既定の本数を走り終えてゴール地点に達すると、あまりの疲労から思わず膝をついた。長距離を走った後急に運動を止めるのは体に良くないが、そんなことを気にしていられないほどの倦怠感だ。呼吸をするたびに胸に鋭い痛みが走り、滴り落ちた汗がグラウンドの土に吸われていく。


 (な、なんとかやりきったぞ。俺……)


 厳しい練習をやり遂げたという達成感が身を包む。少しすると上がりきっていた息が整い、脚にも力が戻ってきた。何とか立ち上がるが、汗をかきすぎたせいか少々めまいがする。とりあえず水分補給を、と思って歩き出すと、後ろから声をかけられた。


 「金剛寺、大丈夫か? なんか滅茶苦茶頑張ってたじゃないかよ」


 見れば、そこに立っていたのは磯貝だった。息はさほど上がっていないが、その坊主頭は汗まみれであり、日の光を浴びてきらきらと輝いている。彼も練習が一段落したところのようだ。


 「うん、まあちょっと色々あって気持ちが変わってさ。中学最後の大会だし、今からでも気合入れていこうかなと。何ていうか、ここで諦めたくないんだ」


 磯貝が驚いたように目を見開く。が、それも一瞬で、心の底から嬉しそうに笑みを浮かべた。


 「おお! 金剛寺、いいじゃねえか! 何があったのかは知らねぇけど、ようやくやる気を出してくれたんだな!」


 自分の手を取って上下にぶんぶんと振る。汗まみれの暑苦しい握手ではあるが、不思議と悪い気はしなかった。


 「金剛寺! あと二週間一緒に頑張ろうな!」

 「お、おう。そうだね、悔いのないように頑張ろう」


 同じ種目の部員がやる気を出すということは、その分自分のライバルが増えるということにもなるのだが……。磯貝はそんなことは眼中にないとばかりに喜んでいる。思えば、磯貝は熱血な性格のため周囲から浮きがちで、練習に限らず一人だけで独走していることが多い。だからこそ、自分と同じ気持ちの部員を見つけられたことが嬉しいのだろうか。

 そんなことを考えていると、磯貝が口を開く。


 「あ、そうそう。話は変わるんだけど、さっき伊藤が調子悪いって家に帰っちまったらしいぜ。珍しいこともあるもんだよな。」


 思いがけない言葉に目を見開く。伊藤が体調不良?  彼女の体の丈夫さは折り紙付きであり、中学校と小学校を通して一度も病欠したことがないという逸話の持ち主なのだ。彼女自身もよく周りにそれを話していたため、彼女の屈強さは皆の知るところである。


 「マジで? 明日は雪でも降るんじゃない?」

 「いや、それなんだけどよ……」


 磯貝は一瞬言いよどむが、話したくてたまらないという感じですぐに言葉をつないだ。


 「短距離の女子が話してたんだけど、最近あいつ100mのタイムがいまいちみたいでさ。そのことで結構悩んでたらしいんだよ。だから、今日早抜けしたのもそれと関係があるんじゃないかって」


 それを聞いて、昨日の伊藤の走りが思い出される。普段よりぎこちなく見えるのは気のせいかと思っていたが、まさか事実だったとは。そうすると、彼女が小森に相談していたのもそれに関してだろうか。


 「うーん、俗に言うスランプってやつかな」


 そう言うと、磯貝が肯定するように頷く。短距離走は一瞬の勝負であるため、他の種目以上に選手のメンタルが記録に影響しやすいと言われている。たとえごく小さな悩みだったとしても、それが僅かでも足運びに影響すれば記録は多少なりとも変わってくるだろう。そして、その小さな変化は0.01秒を競う100m走という種目においては致命的である。

 

 「会話している限りでは特に変わったところは無かったと思うんだけどな。一体何が原あったんだろう……」


 あれこれと原因を考えてみるが、まるで分からない。昨日二人で話していたときはあれほど笑っていたというのに、あの笑顔は悩みを包み隠して浮かべているものだったのだろうか。胸に小さく鋭い痛みが走る。


 「金剛寺ってさ、伊藤とは小さい頃からずっと一緒なんだよな? そんなお前でも心当たりがないなんて……。心配だなぁ」


 耳が痛い言葉だ。だが、そう言った磯貝は心の底から伊藤の身を案じているように見えた。演技のできるような性格ではないので、それが彼の本心なのだろう。


 「まぁ。とにかく俺が言いたいのはだな……。伊藤が何か悩んでたら相談に乗ってやってくれってことだ。もう大会も近いんだし、そこで力を出し切れなかったらあいつも一生後悔しちまうだろ」


 磯貝が真剣な目を向けて言う。友達や知り合いが不幸に遭えば我が身のことのように心配する。彼はそういう男なのだ。たとえ相手が伊藤でなくても、きっと同じように心配するだろう。


 「もちろん。俺にとっても伊藤は、その……大切な幼馴染だし」


 大切な幼馴染。口に出して言うと少し気恥ずかしくなってしまう。だが、自分にとっての伊藤はそれ以上の存在だ。誰かに言われるまでもなく、困っているのならできる限り助けてあげたい。その気持ちが通じたのか、磯貝も笑顔を見せた。


 「よし、お前がそう言ってくれて嬉しいぜ! 俺は残りの練習メニューも片付けちまうかな。金剛寺もあんまり無理するなよ!」


 そう言うと、磯貝は他の部員の元へと走っていった。長距離組は昨日重めのメニューをこなしたばかりなので、本来なら今日は軽めの練習をする日なのだ。先程のような長話ができたのも時間にゆとりがあったからだろう。そして、自分も本日分の練習は先程のインターバル走でほぼ終了である。短時間で体に負荷をかけるというコンセプトだったので、通常より早めの時間で終えることができた。




 その後ストレッチとクールダウンを終えると、本日の練習は通常よりも早く終了となった。どうやら短距離組も軽めの練習をする日だったようで、運よく部員全員のスケジュールが揃っていたのだ。

 ここ一ヶ月ほどは大会に向けて遅い時間まで練習するのが常であったため、今日のように日が落ちる前に解散になるのは久しぶりだ。残された時間が僅かであることを考えるともっと練習したいという気持ちも湧いてくるが、無理に練習の強度を上げすぎても体を壊すだけである。小森との約束もあるので、今日は早く帰り、これからのためにもゆっくり休むべきだろう。


 「金剛寺、また明日なー。ゆっくり休めよー」

 「磯貝もお疲れ様! また明日ねー」


 部室で制服に着替えた後、磯貝や他の部員たちと別れて帰路に就く。まだ夕方と言うには少し早い時間だが、体を焼くような日差しは随分と弱まり、むせるような暑さも鳴りを潜めつつあった。

 そんな中、川沿いの土手の道を歩いて行く。いつも通りの帰り道だ。右手には並木が立ち並び、左手に流れる川からはせせらぎの音が聞こえてくる。家までは徒歩で30分といったところだろうか。


 (気持ちが切り替わっても、やっぱり身体がそれについてこないな。駄目だ、もっと頑張らないと……)


 歩きながら今日の練習のことを思い返す。後半の持久力を重点的に強化するというのは、我ながら悪くない作戦だと思っている。しかし、如何せん時間が足りない。最大限効率的に練習を進めても、本番までにどれだけタイムが縮まるかは未知数だ。


 (いや、ここで弱気になっちゃだめだ! 最後まで頑張るって決めただろう!)


 今までならとっくに諦めていただろう。しかし、今の自分は昔の自分とは違う。伊藤に良いところを見せ、自分に自信をつけるために頑張ると誓ったのだ。


 (伊藤と言えば……。小さい頃は、よく二人でこの川辺で遊んでたっけな)


 土手の下の河川敷が目に入り、ふと小さい頃を思い出す。恐らく小学校3~4年生くらいのときだっただろうか。伊藤がまだ活発で、我が強く、周りに対してどんどん主張していくような性格だった頃だ。当時の彼女は現在の周りに気が利く彼女とは正反対で、友達もそれほど多くは無かったと思う。だが、自分はそんな彼女と一緒にいるのが好きだった。幼い頃からずっと一緒だったせいか、何故か彼女の歯に衣着せぬ言動も気にならなかったし、彼女の明るい笑顔を見ているとこちらまで幸せな気持ちになったのだ。


 「また昔みたいに話せればいいんだけど、難しいかなぁ……」


 ため息交じりにそう呟き、視線を河川敷に落とす。河川敷と言っても大した広さは無く、子供が走り回って遊べるだけのスペースがあるだけだ。水切り、かけっこ、缶蹴り……。壁だのなんだのと考えず、無邪気に伊藤と遊んだ日々。共に過ごした数々の思い出が蘇り、二度と戻らない日々に胸が痛む。

 沈んだ気持ちでしばらく歩いていると、誰かが川のすぐ傍に座っているのが目に入る。白地に青い襟のセーラー服。自分の学校の女子生徒のようだ。


 (ん? あれってまさか……)


 袖とスカートからは日焼けした細長い手足が覗き、後ろで一本にまとめた黒髪が風に揺れている。あの後ろ姿は、間違いなく伊藤のものだ。距離はあるが断言できる。

 彼女は河川敷の草の上に座り込み、何をするわけでもなくただ川の流れを見つめていた。その表情をうかがうことはできないが、何か考え事でもしているのだろうか。


 (話しかけに行くべきか、それとも放っておくべきか)


 悩み事があるとき、人に話を聞いてもらいたい場合と一人でじっくり考えたい場合の2つのパターンがあると思う。今の伊藤が後者の状況なら、話しかけずに一人にしておくべきだろう。しかし、もし前者の状況だったら……。誰かに助けを求めているのだったら、何としてでも力になりたい。


 「伊藤が何か悩んでたら相談に乗ってやってくれよ」


 先程の磯貝の言葉が脳裏に浮かぶ。


 (そうだ。とりあえず話しかけてみて、伊藤が一人になりたそうだったら素早く退散すればいい。うん、そうしよう)


 この状況では、何も行動を起こさないのが一番よくない気がする。それに、もし伊藤の相談に乗ってあげることができれば、彼女の好感度も少しは上がるのではないか、という考えもあった。部活の練習を頑張ろうと決意したのも、元はと言えば伊藤の気を引くためなのだ。彼女と親密になれそうな機会は見逃せない。

 そう考えると、土手の道を外れて河川敷へと続く坂を下りて行った。

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風を切る ~こんな俺だけど、それでも彼女の隣に立ちたい~ 金剛力士像 @konngourikishi

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