第3話 夕暮れのグラウンドで

 「よいしょ!」


 一辺が5mはあるかという巨大なブルーシートを広げ、高跳び用マットの上にかぶせる。あとは風で飛んでいかないよう重りのタイヤをのせれば仕事完了だ。残念ながら我が陸上部では整理整頓と言う観念が希薄なため、あちこちに散らかったタイヤを集めるのも一苦労だったが、それもなんとか終えることができた。

 既に日は沈みかけており、校則で定められたグラウンドの使用可能時間も過ぎていた。そのため辺りには静寂が広がっている。使用時間外のグラウンドにただ一人立つ自分。孤独感とともに、心の奥から何とも言えない優越感が湧いてくるようだった。


 「あれ、金剛寺じゃない。何してるの?」

 「うわっ!?」


 悦に入っていたところに突然後ろから声を掛けられ、肩がビクンと震える。慌てて振り向くと、そこに立っていたのは伊藤だった。


 「な、なんだ、伊藤か。びっくりした……。驚かせないでよ」

 「私はさっきずっとからこの辺りにいたよ? 気付いてなかったの?」


 伊藤が不思議そうな顔でこちらを見た。そんな何気ない表情でも見とれてしまうほど可憐なのだから、美人とは得なものだ。


 「あはは。もう結構暗いからね。まだ人がいるなんて思ってもいなかったし」


 事実、一度いないと思い込むと、実際にそこに人がいても意外と気付かないものだ。そんなことを考えていると、自分の背後のブルーシートを見て伊藤が呆れたような顔で口を開く。


 「あ。また1、2年生の代わりに片づけをしてたんでしょ。そのくらい任せておけばいいのに……」


 運動系の部活は、程度の差こそあれ基本的には上級生優位の縦社会だ。先輩が積極的に働くことを快く思わないのも理解できる。しかし、自分が後輩の仕事を代わるのは他でもなく自分自身のためなのだ。


 「伊藤の言いたいことはわかるよ。でも、ついつい体が動いちゃってさ」

 

 無論嘘である。こう言っておけば、少しくらいは伊藤の好感度が上がるのではないかと思っただけだ。そんな本心を知ってか知らずか、伊藤も諦めたように溜息を吐く。


 「金剛寺のことだから、後輩に恩を売ろうとか変な考えはないと思うけど……。それでも、逆に後輩たちに気を遣わせちゃってるんじゃないの?」

 「うっ」


 痛いところを突かれてしまった。正にその通りだ。自分が後輩の仕事を色々と代わるせいで、彼らから何となく距離を置かれてしまっている自覚はある。良く言えばおせっかい、悪く言えばうっとうしく思われているのかもしれない。普段は努めて気にしないようにしている部分だが、唐突に指摘されて返答に詰まってしまう。

 僅かな沈黙の後、口を開いたのは伊藤の方だった。


 「はぁ。でも、金剛寺って昔からそういう人だもんね。自分そっちのけで他の人を助けるんだけど、それで結局自分が大変になっちゃったりしてさ。なんかいつもそんな感じだった」

 「え……?」


 予想外の言葉を聞き、思わずはっとする。


 (伊藤、そんなに俺のこと見ててくれてたんだな)


 確かに、自分と伊藤は小さい頃は仲が良かった。しかしそれは過去の話であり、自分が彼女に対して壁を作って以来、互いにどこか他人行儀な関係になってしまっていた。そんな彼女が自分のことを気にかけてくれていたとは。胸の中にほんのりと温かな感情が広がっていく。


 しかし……


 「いや、俺はそんな立派な人じゃないんだよ。うん、ホントに」


 思わずそう口に出してしまう。自分でも驚くほど暗くて澱んだ声だった。

 そうだ。自分が人助けをするのは全て自分のため。自分本位な動機によるただの偽善に過ぎない。この本心を伊藤が知れば自分のことを軽蔑するだろうか。自分は彼女の考えているのとは真逆の人間なのだ。先程まであった温かな気持ちが自己嫌悪へと変わっていくのが感じられた。

 

 「あ、えっと、ごめん。私何か変なこと言っちゃったかな?」


 暗い感情が表情にまで出てしまっていたのだろう。伊藤が申し訳なさそうにこちらを見ている。


 「ごめんごめん、何でもないよ。気にしないで」

 「そ、そう? ならいいんだけど……」


 そうは言ったものの、伊藤はまだこちらの顔色を窺っているようだ。なんとか表情を元に戻そうとするが、変に意識してしまって上手く笑顔が作れない。お互いに何となく気まずい雰囲気が流れ、沈黙が生まれる。この状況はよろしくない。何か別の話題を持ってきて空気を変えなければ。


 「あ! そういえばさ、伊藤はこんなところに残って何してたの? 小森先生と何か話してた?」

 「う、うん。そうなんだよ! ちょっと色々相談があって」


 唐突な話題の転換だったが、伊藤もこちらの意図を察したのか話に乗ってくれた。やはり彼女は気が回る。


 「相談? 何か悩み事でもあるの? 俺でよければいくらでも聞くけど」

 「え、あ、うーん……」


 何気なくそう言っただけなのだが、その言葉を聞いた瞬間、伊藤が何やら気まずそうな表情を見せた。と思うと今度は瞳を伏せ、何かを思案するようにじっと動かなくなってしまう。


 (あまり詮索しない方がいいのかな)


 様子から察するに何か悩み事があるのだろう。顧問の小森に相談していたことを考えれば、陸上に関することの可能性が高い。もしかすると今日の走りがぎこちなかったことにも関係しているのかもしれない。

 しかし、本当にそうなのだろうか。小森は部活では厳しいがその他では面倒見がよく、生徒からは意外に好かれているのだ。そんな彼になら部活以外のこと、例えば勉強や学校生活について相談する可能性もないとは言えない。


 (最後の大会まで2週間、3年間一緒に過ごした顧問の教師、今日のどこかぎこちない伊藤の走り……)

 

 瞬間、脳内に電撃が走ったようにある考えが閃いた。


 (まさか、いや、ありえない。だけど……)


 思い返せば、小林は女子短距離のエースである伊藤を特に熱心に指導していた。彼女もそれによく応え、二人の間には厚い信頼関係が形成されていたように思える。加えて、小林は既婚者ではあるがその容姿と若さから女子生徒からの受けがいいのだ。

 荒唐無稽な考えではあるが、全く可能性がないとは言い切れない。あまり詮索するのは良くないだろうが、どうしても確かめずにはいられなかった。意を決して口を開く。


 「伊藤ってさ、まさか小森先生に気があったりするの?」

 「……へ?」


思案するような顔から一転、伊藤がきょとんとたし間抜けな表情を見せる。図星……なのだろうか。

 伊藤は自分にとって高根の花だ。自分のような男が彼女の色恋沙汰に首を突っ込む権利などないだろう。しかし、相手が小森となれば話は別だ。既婚の男性教師と女子中学生の恋愛など社会通念上許されない。必ず誰かが不幸になるだろう。何とかして止めなければ。


 「いや、その、異性のタイプって人それぞれだと思うよ。年上が好きとか年下が好きとか、千差万別で、色々な人がいていいと思う。でもさ、小森先生には奥さんもいるし、その……」


 伊藤は変相わずら間が抜けたような顔でこちらを見つめており、その顔の裏にどのような感情があるのかは検討が付かない。もしかして、自身の恋愛感情を否定されて気分を害してしまったのだろうか。


 「ぶっ、あははは!」


 突然伊藤が吹き出し、愉快そうに笑い始める。


 「嘘? 金剛寺そんな想像してたの? よりにもよって私と小森先生がなんて……。あーもう、ぶふっ」


 いつもの伊藤が浮かべるような上品な笑みではない。底抜けに明るい、キラキラと輝くような笑顔だ。夕暮れの薄闇の中にあって、彼女だけが光を放っているようだった。その光景を見てふと懐かしい感情が心の中を駆け巡る。


 (ん?)


 感じたのは胸の中が暖かくなるような懐かしさだった。昔、よくこれと似たような気分を味わっていた気がするのだが……


 「金剛寺?」


 伊藤に呼ばれてハッと我に返る。前を向けば、彼女がこちらを見つめていた。


 「あ、ごめん、大丈夫。でもまあ、とにかく良かった……。てっきり小森先生みたいなのがタイプなのかと」

 「ないない。まぁ、小森先生は確かに女子から人気だけど、年上すぎだし、そもそも奥さんいるし!」


 何はともあれ、ひとまず安心した。どうやら懸念していたような状況でないようだ。安堵感が広がり、緊張していた心がほぐれていく。的外れな質問をしてしまったのは恥ずかしいが、聞かずに悶々とした気分で残りの中学生活を送るよりは良かっただろう。


 「ふふっ。それにしても、いくらなんでも私と小森先生がだなんて。ほんっとにもう!」


 よほどツボに入ったのか、伊藤の笑いはまだ止まない。いつもの彼女らしからぬ、腹の底から込み上げてくるような笑いだ。それもそれで魅力的だが、いくらなんでも笑いすぎではないだろうか。きっかけを作ったのは自分の責任だとしても、このまま笑いものにされ続けるのは少々不本意である。少しくらい反撃してやろうかという気持ちが心の奥から浮かんできた。

 

 「じゃあさ、伊藤の好みのタイプってどんな感じなのさ?」


 からかうような口調で問いかけると、伊藤は一瞬不意を突かれたようにこちらを見つめた。だが、少しは効いたか、と思ったのも束の間、すぐに先程までと同じニヤニヤとした表情に戻ってしまう。


 「金剛寺、そんなに私の好みのタイプが知りたいの?」


 おどけるように伊藤が言う。だめだ、まるで効いていない。むしろ自分の傷口を広げてしまった気がする。


 「いや、前言撤回! 全く気にならないから! マジで果てしなくどうでもいいって感じ!」

 

 自分から聞いておいてなんとも苦しい言い訳だ。


「本当に? 実は結構興味あるんじゃない?」


 伊藤はそう言ってにやにやとした笑みを浮かべる。普段の彼女なら絶対に見せないのではないかと言う表情だ。反撃を試みたはずが、いつの間にかこちらが窮地に立たされてしまっているではないか。この状況を打開する手段が見つからず、思わず押し黙ってしまう。


 「まあ、笑わせてもらったし、それくらい教えてあげてもいいけどね。金剛寺になら」


  こちらの様子を見かねてか、伊藤がいたずらっぽい声で言う。そして、どこか遠くを見つめるような目をしながら、茜色の空を見上げた。


 「顔とか成績とか、そういうのはどうでもいいんだよね。話の上手い下手も別に気にならないかな。でも……」


 そこまで言うと、伊藤は視線を落としてこちらを見つめる。透き通るような茶色の瞳が自分の目を覗き込んだ。


 「なにか1つ頑張れることや必死になれることがある人って、物凄く素敵だと思うな」


 そう言った伊藤の瞳には真剣な光が宿っている。種別は定かではないものの、何か強い感情が込められているように感じられた。


 「え、そんなことでいいの?」


 正直に言って意外だ。美人で気の周る彼女のことだから、男性に求める理想はもっと高いと思っていたのだ。そのくらいのことならもしかして自分でもできるのではないのか、という淡い希望さえ湧いてくる。


 「うん。なんかそういう人って凄く羨ましいっていうか、憧れるっていうか……。とにかく、私のタイプはそんな人」


 そう言ながら、伊藤は再び笑顔を見せた。一目見ただけで心奪われるような可憐な笑顔。それを見て、心の奥で熱い感情が燃え上がる。身の丈に合わないといってしまい込んでいた気持ちが、抑えきれないほどに大きく膨らむ。


 (やっぱり、俺は伊藤が好きだ)


 今までの人生の中で、何十回、何百回と色々なことを諦めてきた。自分には無理だと決めつけてきたせいで、沢山のものが自分の手からすり抜けていった。そして、いつしかそんな自分に慣れてしまったのだ。

 

 (でも、この気持ちだけは。伊藤が好きだっていう気持ちだけは……諦めたくないな) 


 伊藤の笑顔を前にして、その気持ちが強くなる。もしここでそれを諦めれば、今後の人生の中で二度と何かをつかむことはできないという予感がするのだ。自分のような男がいくら頑張ったところで、所詮手など届かないのかもしれない。だが、それでも挑戦したい。何でも諦めてしまう自分が心の底から嫌いだった。だからこそ、その自分とここで決別したい。


 「何か頑張れることや譲れないことか……。じゃあさ、例えば才能がなくても死ぬ気で練習に打ち込むような人がいたら、その人のことをかっこいいって思うの?」


 様々な感情が入り混じる中、絞り出すような声で問いかける。だが、こちらの思いなど知らないであろう伊藤の口調は暢気なものだ。


 「え? うーん、そうだね。もしそんな人がいたら、確かにかっこいいかな」


 伊藤からしてみれば何気なく言っただけなのだろう。しかし、その言葉は自分の心の中の靄を吹き飛ばし、進むべき道を示してくれたような気がした。己の内から湧き上がってくる感情に居ても立ってもいられなくなり、伊藤に背を向けて駆け出す。


 「ありがとう! 伊藤のおかげで心が晴れた!」

 「え? ちょっと、金剛寺? 突然どうしたの!?」


 伊藤が困惑したような声を上げる。しかし、そんなことは気にならない。進むべき道が見えたのだ。


 (今の俺じゃ伊藤とは釣り合わない。何より、俺が伊藤に対して劣等感を捨てきれないんだ。こんな状態で想いを伝えても絶対に成就しないだろう。でも……)


 何か一つ結果を残すことができれば、きっと自分に自信が持てるようになる。そうなれば、伊藤に胸を張って想いを伝えられる気がする。楽な道ではないだろう。進んでいったところで伊藤が振り向いてくれるとも限らない。だが、進み始める前に諦めてしまいたくない。たとえ報われなくても、諦めず行けるところまで行ってみたい。これまでの自分から変わりたい。これ以上自分のことを嫌いになりたくない。


 (最後の大会まで残り二週間。死ぬ気で練習して、そこで何としても16位以内に入ってやる。伊藤に良いところを見せるんだ)


 残された時間はあまりにも少ない。自分の実力を知る人ならば、十人中十人が不可能だと言うだろう。だが、それでもやるのだ。諦めず挑戦することにはきっと意味があるはずだから。

 

 (やるんだ。絶対にやるんだ、最後の最後まで)


 目を上に向けると、沈みかけの夕日が流れる雲を赤く、赤く染めていた。茜色の夏空の下、涼しげな風を浴びながら無人のグラウンドを駆け抜ける。

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