第2話 陸上部の日常

 「こらぁ! 金剛寺、ペース落ちてきてるぞ!」


 照りつける日差しの中、陸上部の顧問である小森から怒号が飛ぶ。日が落ちてきて多少ましになったとはいえ、まだまだ気温は高い。だだっ広いグラウンドには日差しを遮るものなど何もなく、太陽の熱を吸収した地面が空気を熱することでさらに気温が上がり、さながら灼熱地獄のようだ。時折砂塵を巻き上げながら吹く風が唯一の清涼剤である。

 そんな炎天下の中で走り続けてもう30分近くになる。夏の大会に向けて、自分達長距離組は毎日こうしてランニングを行っているのだ。距離にしてもう6キロほどは走っているだろうか。全身から滝のように汗が流れ、湿った体操着が肌に張り付いて気色が悪い。しかし、そんなことなど気にならないほど肺が苦しく、口の中には血の味が広がっている。心臓は大きく音を立てて拍動し、全身の細胞が酸素を求めて悲鳴を上てげいるようだ。


 「はあっ、はあっ、はあっ」


 鉛のように重くなった足を何とか前へと押し出す。一足ごとに全力で大地を蹴るが、それでも先頭を行く部員達との差は縮まらない。差と言っても距離にすればほんの十数メートルといったところだ。決して遠いわけではない。しかし、すでに体力の限界が近い自分にとっては、その僅かな距離が途方もなく長く、越えがたいものに感じられた。自分より前にいるのは3年生が殆どだが、2年生の中でタイムが良い部員も数人混じっている。残りの1,2年生は自分の後ろにいるため、現在の自分の位置は先頭集団のやや後ろと言ったところだろう。


 「三年生は泣いても笑っても次の大会が最後なんだ。長距離選手として、ラスト10パーセントが根性の見せどころだぞ! 一、二年生ももっと頑張れ!」


 酸素不足による耳鳴りの中、再び小森の怒号が聞こえた。陸上部に入部して2年と4か月ほど。顧問の怒号など聞き慣れているためもはやそこまでの恐怖は感じないが、自分より前を走る2年生のペースは心なしか早くなったように見える。恐らく、後ろを走っている後輩たちも速度を上げてきているだろう。


 (分かってる! 分かってるけどもう……)


 無理だ。これ以上ペースは上げられない。先頭に追い付けない。そんな考えが頭をよぎった瞬間、急速に足の力が抜けていくのが感じられた。一度力を抜くと連鎖的に次の一歩、そのまた次の一歩も脱力してしまい、速度が大きく落ちる。楽な方へ、より楽な方へと心が吸い寄せられる。

 そんな中、すぐに後ろから足音と息遣いが迫ってくるのを感じた。後輩がラストスパートをかけて最後の追い込みに入ったのだろう。目標の7キロまで残り600メートルほど。ゴールは目前だが、一度力を抜いてしまうと再び気持ちに火をつけるのは難しい。1人、2人と後輩が自分を追い抜き、彼らの背中が徐々に遠くなっていった。



 結局のところ、男子の長距離走者12人のうち自分の順位は5位だった。3年生だけでなく1、2年生もいることを考えると、そこまで良い順位とは言えないだろう。


 「金剛寺。お前中盤までの走りは悪くないんだけど、ラストスパートで失速しちまうんだよ。だから途中まで順位が良くても、最後の最後で抜かれちまうんだ。」


 走り終えた後、小森は自分にそう言った。


 「ラストでどれだけ力を出せるかってのは、それまでのペース配分とか技術的なことにも左右されるけど、最終的には選手の気持ちの問題だからな。勝ちたい、負けたくないって気持ちが最後の最後で力になるんだ。お前、そういうところが弱いんじゃないか?」


 非常に的を得ている、と思う。まだ若いくせに、どうしてそういうところを見抜くのは上手いのだろう。

 先程の練習では最後の最後で後輩に競り負けた。走っている途中で弱気な気持ちが生まれてしまい、これ以上は無理だと自分で自分にブレーキをかけてしまったからだ。勝負することを諦め、楽な方に逃げてしまった心の弱さのせいだ。

 そして、そうなった原因の根底には、恐らく昔から抱えている劣等感があるのだと思う。小さい頃から何をしてもダメな自分。そのイメージが心に深く染み付き、気付かないうちに諦め癖のようなものが付いてしまったのかもしれない。


 (はぁ……。でも、原因がわかっても解決のしようがないよな、これは)


 この劣等感はそう簡単に払拭できるものではない。諦め癖を治すのは容易ではないのだ。

 深くため息をついて顔を上げると、遠くで短距離組が練習をしているのが目に入った。基礎的な体力トレーニングは既に終えたようで、現在はスターティングブロックを使ってスタートの練習をしているようだ。

 短距離走、特に100mなどの短い距離のレースは一瞬の勝負の世界だ。選手にもよるが、ある程度慣れた者ならば100mを走破するのに60歩とかからないため、一歩一歩が持つ意味は長距離走とは比べ物にならないほど重くなる。だからこそ、タイムを縮めるには身体能力の向上以外にも、如何にスタートダッシュから加速までの流れをスムーズにするか、如何に一歩一歩の動きを最適化するかといった細かな調整が必要となるのだ。短距離走はセンスが大切という人がいるが、それは走法の細かな調整を感覚として捉えることが重要だと言いたいのだろう。

 スターティングブロックはクラウチングスタートの際に使う器具で、選手の足の長さや姿勢によって最適化できるよう、足を置く部分の位置や角度が調節できるようになっている。様々な角度や間隔を試して自分に合う設定を見つける。今短距離組がやっているのはそういう練習のはずだ。


 (おっ。今日も速いな)


 何人もの部員がスタートダッシュの練習をしていたが、その中でも際立って速く、凄まじい加速をする者がいた。スラリと長く伸びた手足に端正な顔。遠目からでも一瞬で判別がつく。そう、伊藤ユイだ。

 伊藤はスターティングブロックを蹴って前方へ飛び出すと、前傾姿勢を保ったまま徐々に歩幅を広げていく。速度が乗ってきたところで上体を起こし、力強く地面を蹴ってさらに加速する。短距離走の経験が乏しい自分から見ても、他の部員との差は歴然だった。スタートから加速までの一連の流れが滞ることなく連続していて、美しいと言えるほどに洗練されている。しかし……


 (ん? なんだか少し……)

 

 練習の最中でも休憩の間でも、気が付けばいつも伊藤のことを目で追っていた。そもそも、自分が陸上部に入ったのも伊藤が入部するという話を聞いたからだ。好きな人の近くにいたい、好きな人を見つめていたい、その一心だった。

 そうして伊藤を見つめ続けてきたからこそ、些細な違いにも気が付くことができる。確かに伊藤の走りは美しい。だが、普段のものと比べると、今日の走りは幾分ぎこちないというか、拙い感じがするのだ。


 

 練習後のクールダウンとストレッチを終えた頃には、すっかり日が落ちて辺りが夕日に染まっていた。地獄のような暑さも随分と鳴りを潜め、涼しげな風がグラウンドを吹き抜けていく。練習後の火照った体にはたまらない心地よさだ。

 全員で練習器具を手早く片付け、速足で部室を目指す。大会に向けたハードな練習を終えた後なので体が重い。こんな練習が明日も明後日も続くのだから、自分を含め誰もが一刻も早く帰りたいと思っているに違いない。


 「いやぁー、あと二週間で最後の大会なんだよな。全然実感わかないわ」

 「確かに。三年もやってきた部活があとちょっとで終わるって言われてもな」


 三年生の男子部員同士が話す声が聞こえる。二週間後に開かれる予選会。そこで各種目上位16位以内に入って県大会へ進めなければ、自分達三年生はそこで引退になる。


 「金剛寺よぉ、お前はどうだ? 県大会。行けそうか?」

 

 そう問いかけてきたのは、自分と同じ三年で長距離走者の磯貝だった。三年間同じ種目で一緒に練習してきたため、部員の中では一番気心が知れている。坊主頭で、堀が深く厳つい顔をしているが、体格は小柄なため顔面と肉体が釣り合っていないようなちぐはぐな印象を受ける。もっとも、見慣れてくるとそれも愛嬌があって面白いのだが。


 「おいおい、無理言わないでよ……。磯貝が一番分かってるでしょ。俺には無理」


 ため息を吐きながらそう言うと、磯貝も同じく沈んだ声を出す。


 「まあ、やっぱり16位以内となると厳しいよな。俺も何とか目指したいとは思ってるんだが、あと20秒はタイムを縮めないと厳しいぜ」


 自分と磯貝が出場する予定の種目は3000m走だ。予選で16位以内を目指すためには、最低でも9分50秒以内に走りきらなければ厳しいだろう。現在の自己ベストは10分28秒なので、県大会に進むには40秒近くタイムを縮めなくてはならない計算になる。

 しかし、残された時間はたったの14日。身体を壊さないためにも行える練習量には限りがある。そんな中で目標タイムに到達するのは困難だろう。いや、いっそ不可能と言ってもいいかもしれない。越えがたい壁を想像して、ため息交じりに口を開く。


 「今から大幅にタイムを縮めるのは無理だよ。まあ、潔くあきらめるしかないかな」


 すると、前を歩いていた磯貝が突然振り返りこちらを見つめてきた。いつもの能天気な表情とは打って変わって、瞳には真剣な光が宿っている。


 「お前の言う通りだ。確かに無理かもしれないよな。でも……」


 そこまで言うと息を吸いなおし、再び口を開く。


「最後の最後で諦めちまうのってさ、物凄く悔しくないか?」


 磯貝の顔と色からは、隠し切れない悔しさが滲み出ていた。


 (諦めるのが悔しい……か)


 そんな感情、もう長い間感じていないような気がする。要領が悪いから、才能がないから仕方ないと諦め続けてきて、きっとそれに慣れてしまったのだ。だからこそ、考える間もなく無意識に言葉を発してしまう。


 「仕方ないよ。無理なものは無理なんだから」

 「……やっぱりそういうもんなのかな」


 磯貝が悲しげに呟く。


 「でもさ、やっぱり諦めるのもなんかなぁ。できるだけ頑張って、少しでもタイムを縮めてやるぜ!」


 悲しみを押し隠すために、努めて明るさを装っているような声だった。


(そっか。磯貝はまだ諦めることに慣れていないんだろうな)


 無理もない、彼は自分と違って根性のある男だ。小柄だがタフネスがあり、レースでも最後の最後で追い上げを見せるタイプなのだ。

 しかし、今回残された時間はあまりにも少ない。彼の努力が報われる可能性は低いだろう。努力しても報われない、厳しい現実に直面する可能性の方がずっと高い。自分が幾度となく味わってきた感情を磯貝も味わう。そう思うと胸が苦しくなってくる。


 「あー、そういえばさ、伊藤いなくない? どこいったのかな」


 話題を切り替えたかったのだろう、磯貝が周囲を見渡しながら唐突につぶやいた。男子も女子も同時にグラウンドから出てきたので、部員全員が固まって部室に向かっているような状況なのだが、確かに伊藤の姿だけが見当たらない。


 「伊藤先輩、なんか小森先生と話があるとか言ってグラウンドに残ってましたよ」


 そう答えたのは近くを歩く女子部員だ。


 「ふーん、小森先生と話ねぇ。一体何なんだろうな」

 「さぁ、俺にも分からない」


  そうは答えたが、心当たりがないことはない。今日の伊藤の走りはどこかぎこちなかった。それが何か関係しているのだろうか。あるいは、もっと別の相談事が……


 「あ! やっべぇ、忘れてた!」


 思案にふけっていると、突然後ろから声が上がる。驚いて振り向くと、後輩の一人が暗い顔をして肩を落としていた。


 「どうかしたの?」

 

 後輩の様子が気になり思わず問いかける。


 「いや、高跳び用のマットにブルーシート掛けるの忘れてきちゃいまして……」


 なるほど、そういうことか。陸上部の練習スペースには高跳び用のバーとマットが置かれているのだが、屋内に収納するスペースがないため、毎回練習後にブルーシートをかけておくことになっているのだ。いわば野ざらしに近い状態ではあるが、ブルーシートのお陰でマットもバーもあまり傷むことはない。しかし、そのブルーシートをかけ忘れたとあっては一大事だ。万が一雨でも降れば目も当てられない。


 「面倒くさいなぁ……、またグラウンドに戻らないと」


 ここからグラウンドの練習スペースまで行くには、来た道を戻ってだだっ広いグラウンドを横断しなければならない。遠い、と言うほどの距離ではないが、練習後でクタクタになっている身としてはかなり億劫だ。後輩の気怠そうな表情にも納得できる。しかし……


 「あー、ブルーシートなら俺が掛けてくるよ」


 無意識にそんな言葉が口をついて出た。それを聞いた後輩は驚いたようで、慌てて口を開く。


 「え? いや、いいですって! そもそも俺のミスですし、先輩には普段色々してもらってますし!」

 「またかよ金剛寺。後輩の仕事は後輩に任せねぇと」


 後輩に続いて磯貝も口を開く。全くの正論だ。しかし、自分にも引けない理由がある。


 (才能もなくて要領も悪い。こんな俺が唯一できるのは、他の人のために働くことくらいなんだよ)


 今回のようなことは初めてではない。自分には、後輩に限らず同級生や知り合いが困っていると率先して首を突っ込んで手伝ってしまう癖がある。要領も悪く才能もない、そんな自分に何ができるか考えたとき、人助けくらいしか発想が浮かばなかったのだ。傍から見れば、不自然すぎるほど親切な人間に見えているかもしれない。しかし、実際には全て自分のため。他人を助けることで、自分にも何かできるのだと、無価値な人間ではないのだと信じたいのだ。

 人助けの動機としてはとても健全とはいえないだろう。それは十分に承知している。しかし、それをやめてしまうと自分が本当に何もない人間になってしまいそうで怖いのだ。だから、多少おせっかいだと思われようと今回の件も譲れない。


 「いいのいいの。あと少しで引退なんだし、最後くらい先輩にいい恰好させるもんだって! 磯貝は先に帰ってて!」


 そう言って強引に会話を切り上げると、磯貝たちに背を向けて逃げるように走り始める。

 自分から引き受けた仕事ではあるが、それでも早く終わらせるに越したことはない。日が落ちて辺りが薄暗くなりつつある中、夏の夕方特有の心地よい冷涼感を味わいながら、駆け足で練習スペースへと向かった。

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