惑わしの迷路道と不運男

朝倉亜空

第1話

 山中深く、男は道を彷徨っていた。

 惑わしの迷路道だと人に聞いてはいた。だが、道の所々には迷い道危険との看板標識が立ってあり、それには人里への辿り着き方も書いてあるから、多分、大丈夫だろうとも聞かされていた。だが、歩けど歩けどそんな標識は一度たりとも見かけなかった。

 今また二股の分かれ道に突き当たった。さっきは右を選んだから、今度は左にしよう。

 男は左の道を歩いて行った。その時、男は知る由もなかった、右に歩いていれば標識があったことを。

 思えば男の人生はいつもそうだった。

 野球で二校から推薦入学を勧められたのだが、自分が選んだ高校は部員の不祥事で大会出場禁止となり、もう一校はその年の全国大会で優勝した。

 結婚も、どうせ俺ならこんなものかと詰まらぬ安パイに手を出した後、高嶺の花と諦めていた美人の後輩OLに「私も先輩を狙っていたのにショックです」なんて言われた。

 その嫁と出会った会社も三度の不渡りを食らい、廃業寸前。就活時に内定を貰っていたもう一社は業績を伸ばし続け、今や有名企業の仲間入りをしていた。ことごとく負を選ぶ。 

 そして、気晴らしのつもりでやってきた山中散策で、男は完全に道に迷ってしまった。昼前から入山し、途中で手持ちの弁当を食べた後、何処をどう歩いているのか、どの分かれ道を選んで来たのか、さっぱり分からない。だんだんと辺りは薄暗くなり、疲労と不安が募ってくる。

 それにしても標識は本当にあるのだろうか。誰かの作り話ではないか。ひとつも見つけていないままだ。おっと、また分かれ道だ。今度は三本。右か、左か、真っ直ぐか。どうする。分からんが……、真っ直ぐ行こう。

 男は重い足に力を込めて、直進した、がしかし。そう、ここでも右か左を選んでいれば、そのどちらにも標識があったのだ。男の混迷と運の無さはなおも続く。

 日はかなり沈み、相当暗くなった。不安感は恐怖感へとバトンタッチしようとしていた。少し強めの風が木々の葉を揺らしただけの音が、今の男にはかなり怖く感じる。

 男の脳裏に一瞬、死、という文字が現れようとしてくるのを、男は頭を振って、かき消した。たかが山の中を散歩しているだけじゃないか。そして、少し道に迷ったに過ぎない。なあに大丈夫。すぐに抜け出られるさ。家に帰れば、死ぬんじゃないか、なんてオーバーに考えてたっけ、とか言いながら、ビールを飲んで、大笑いしてるに決まってる。男は心の中で強がりを言い、自分を鼓舞していた。また分かれ道。左に進んだ男は、当然のように標識に出会わない。

 その後、男はどれくらい歩いただろうか。

 吹く風が汗をかいた登山着に当たり、男の体温を奪っていく。掌で上腕部を触ってみると、まるで氷水を掛けられたように冷たかった。足はズッシリと丸太ん棒のよう。体力の限界が近づいていた。次の分かれ道だ。次の分かれ道で標識を見つけなければ、人里への帰り方が書いてある標識を見つけなければ、おれは、もう、駄目だろう……。 

 そして、分かれ道に到着。男の選んだ右に標識は、ない。男はその道を三十メートルほど進んだ辺りで力尽き、崩れるように倒れ込んでしまった。どこまでも運の無い自分を呪いながら。


「あーん、気が付きなさったかい」

 男はある一軒家の中で布団に寝かされていた。目が覚め、上半身を起き上がらせた時、自分への誰かの声が聞こえた。男はその声のほうへ顔を向けた。老人が一人、立っていた。

「ここは……?」男は老人に言った。

「わしの家じゃ、安心しなされ。いやな、朝、町へ出かけようと山の道を少し歩きよったら、あんさんが倒れておったんよ。そいで、あんさんを担いで家まで戻ったっちゅう訳じゃ」

「有難うございます。助かりました。何しろ、昼前から歩きっぱなしで……」

「昼前からとな。あのなああんさん、あの道は慣れとる者でも早朝に出立せんと夕暮れまでに歩き切れん迷い道じゃ。無茶しよったのう」

「し、知りませんでした。面目ありません」

「これから気ぃつけんせえ。そいで、標識を頼りにして来たんじゃろうな」

「いえ、不運にも標識には一度もお目に掛からずでして。」

「なんじゃと! ホンマけえ。いやー、なんと運のええお人じゃあ」

 老人の感嘆した大声に、男は訝しげに言った。「い、いいえ。運がいいわけがありません。一枚も標識を見つけられなかったのですよ」

「いやいや、じゃから、運がええんじゃよ。ええか。運がええ、悪いなんてな、簡単に決めてかかるのでないぞえ。ようあるじゃろが。甲子園の常連校が、部員が集まらんで廃部になったり、美人の嫁貰うたが、とんでもねえ金食い虫じゃったり、小さい会社勤めやいうても、逆に、社員同志が家族みてえにあったけえ心加減で、ゆるゆる業績伸ばしたりしよったりな。かかか」

 笑いながら老人は奥の部屋から作り置きしてある予備の看板標識を持ってきて、男に見せた。「あんさん、これ読んでみんせえや」

 標識にはこう書いてあった。「コノ先、複雑ナル迷ヒ道。危険戻レ。標識ナキ道ノミ進メバ人里ニ辿リ着クナリ」

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