第22話 謎解き座敷① 吉原、昼九つ

 隆正たかまさは、昼見世ひるみせが始まったばかりの吉原を訪ねていた。時刻は昼九つを過ぎた頃、太陽は既に中天にかかっている。町人は朝早くから仕事を始めているし、武士ならば、役目によってはそろそろ帰宅しようかという時刻でさえある。なのにこの色町では、つい今しがた起き出したばかりのような気怠けだるい空気が漂っているのが不思議だった。とはいえ別に怠惰が理由という訳ではあるまい。吉原は夜こそ開く花のようなもの。明け方まで遊女たちが客を送り出して眠り、そして目覚めたらこの時刻になるということだろう。


 隆正を先導するのは、最初に吉原を訪れた時と同じ者だ。引手ひきて茶屋ぢゃや鶴美つるみ屋の松吉まつきちという男――口の軽さも気安さも前回同様で、荷物を持たされても嫌な顔ひとつせず、むしろ張り切っているようだった。


「それにしても旦那は物好きでいらっしゃいますねえ」

「何が、だ? 昼に吉原に通う者は珍しくあるまい。それにそれがしは遊びに来た訳ではないのだぞ」


 吉原を訪ねるのも二度目とあって、今日は隆正も軽口に応じる余裕がある。大名屋敷に仕える武士は、門限があるから昼見世に通うのが常だというし、隆正自身も吉原通いを揶揄われるのは心外なことだ。彼は薄雲うすぐも花魁おいらんさかえ屋の事件の顛末を伝えに来ただけだというのに。


「ええ、薄雲さんでしょう? だから変わってるんですよ。あの人は八丁堀の旦那方と会う時は身揚みあげするんでしょ? それも変わった花魁ですけどね、捕物だの物騒な話を聞きたがるなんて――でも、旦那にしてみりゃあ、呼び出し昼三ちゅうさんの花魁と無料ただで会えるなんて美味い話じゃないですか。一体また、どうして……?」


 松吉の顔にもったいない、と書いてあるのが見えるようだった。


 そう、隆正は今日、揚げ代を払って薄雲に会うのだ。といっても芸者の類は一切呼ばず、あの女の格ならば当然あるべき花魁道中も免除してもらえるよう、鶴美屋と藤浪ふじなみ屋に掛け合った。花魁自身が身揚げをすると言っているのに、と困惑する彼らを押し切って。

 呼び出し昼三といえば、本来最低限の揚げ代だけでも金一両一分、昼夜を問わずに同じ揚げ代のところ、道中なし宴席なしということでかなり負けてもらった。彼のろくからすればそれでも決して身の丈に合った出費とはいえないし、見世からすれば薄雲が全額を被った方が儲けになるのかもしれなかったが。

 


 それでも彼は、薄雲に甘えることはしたくなかった。最初の夜は知らなかったとはいえあの女に無礼な態度を取ってしまった。最高の格の花魁に、この程度には埋め合わせにもならないだろうが。


「単に筋を通したいというだけだ。お前が気にすることではない」


 とはいえそれは松吉に言うことではない。おぼろに――せいぜいが十三、四の年頃の少女に叱られたのが堪えた、などというのも余計なことだ。それに、女に奢らせるのが耐え難いという矜持は、たとえ武家でなくても自然な感情というものだろう。

 しかし松吉は少々しつこく食い下がった。


「薄雲さんは難しい人ですよ。そりゃ、愛想は良いし美形ですけどね。ただ、何ていうか壁がある感じで――どんな金持ちでも優男でも、惚れたって話を聞いたことがねえ」

「そうなのか」

「ええ……なので、何度か通ったくらいじゃ気を惹くなんて無理ですよう?」


 どうやらこの男は、隆正が薄雲花魁に惚れたと思い込んでいるようだ。身代を傾けても通うつもりではないのかと、案じてでもいるかのよう。


「だろうな」


(無用の心配だというのにな)


 的外れの懸念がおかしくて隆正は少し笑い、そしてそれ以上は語らず、松吉に先を急がせた。



      * * *



 隆正が事件の後始末に励むうちに暦は進み、季節は初夏になっていた。薄雲花魁の座敷も、夏を意識して装いを変えたのだろう、床の間には勢いある鯉の滝登りの掛け軸が掛かっている。遊郭にしては勇ましい気もするが、縁起物ということだろうか。


 そして座敷の主はというと、藤浪屋の屋号に合わせた装いをしていた。


ぬしさんも奇特なお人でありんすなあ」


 開口一番にそう笑った薄雲が纏うのは、枝垂しだれ藤を全面に描いた仕掛しかけだった。白や薄紫に咲き乱れる花の模様を、ところどころ飛び交うつばめの黒が引き締める。何より見事なのが遊女ならではの前帯まえおびの意匠だ。後ろで結うのではなく、前で結んで垂らした帯は、金の緞子の重たげなもの、そこにも藤があしらわれている。それも絵柄や刺繍だけではなくて、絹で作った小さな藤の花が数え切れぬほど。身動きする度に仕掛と帯の藤がしなやかに揺れ、着こなす薄雲はそれこそ藤浪の只中に佇むかのよう。


(道中でこそ、映えるものなのだろうな……)


 陽の光や夜でも眩い吉原の灯りのもと、優美に外八文字を踏む道中では、薄雲は亀戸かめいど天神てんじんの藤まつりを切り取ったかのようにも見えるだろうに。狭い座敷の中で腰を下ろしてしまえば、藤浪は畳の上にだらりと流れるだけ。いや、それはそれで雅で美しい眺めではあるのだろうが。


「捕物話を聞かせてもらうはわちきの方でありんす。銭などいらぬと、最初に申したでありんしょう」

「そうは行かぬ。馬鹿正直な質とは夏目なつめ殿にも言われたこと、たちと思って諦めよ」

「まあ、ほんに……」


 くすくすと笑う薄雲の後ろ、つんと澄まして控えるおぼろの顔を、隆正はこっそりと伺った。今回は一応揚げ代を持ったとはいえ、呼び出しの花魁に道中をさせなかったのは屈辱だったりするのだろうか。ならば、この少女はやはり彼に物申したいことがあるかもしれない。


「それでは、栄屋おすずの人探し、顛末はいかがでありんした?」

「うむ、そのために来たのだ――」


 とはいえ、朧だとて姉花魁と客の話に口を挟む非礼は犯すまい。だから、女たちの心中を推し測り訝りつつも、隆正は事件の決着を薄雲に語り始めた。


「――という次第であった」

信二しんじなる者は無事で、青海あおみ屋の悪事は潰え――まっこと、大団円といったところでありいすなあ」

「まあ、そうだな」


 美しく晴れやかに笑う薄雲に、隆正がもろ手を挙げて頷くことができなかったのには、理由がある。彼にとっては事件はまだ終わっていないのだ。たとえ調べが進み、青海あおみ屋の主人以下、悪事に手を染めた者たちの刑が決まったとしても。贋物を買った者たちやその金額、贋物作りに加担したかまあらためられ、青海屋の無実の奉公人たちが次第に落ち着き場所を見つけたとしても。


 隆正の胸の裡は、いつまでも霧がかかったようにもやもやとしたままだった。しかも、その霧は目の前の美女が生み出したものだ。どうしてこのように全てが上手く行ったのか、最初から全てを見透かしていたのか。何ひとつ分からないままでは、素直に喜ぶことなどできそうになかった。


「主さんもお手柄でありんしたなあ。ほんに頼もしいこと。」

「……某の手柄ではないだろう。そなたの助言がなければ、信二を見つけることは叶わなかった。見つからぬまま、口封じをされてしまっていたかもしれぬ」


 とぼけたように――としか思えない――微笑む薄雲を、隆正は軽く睨んだ。彼だけでは決して真相に辿り着けなかっただろうと良く知っているだろうに、白々しく称えてくる薄雲が、いっそ憎たらしいほどだ。


(この女には、一体何が見えている?)


 森口もりぐち何某なにぼうという旗本は、薄雲の姉花魁の藤枝のことを妲己だっきと罵ったとか。ならば、彼に狐に摘ままれたような気分を味わわせるこの女は、玉藻たまもの前だろうか。見つめるうちに、狐の耳や尻尾がひょっこりと覗くのではないかと、そのように埒もないことまで考えてしまう。


 隆正がおだてられたりなどしていないと分かっているだろうに、薄雲はにこやかな笑みと態度を崩さずゆるゆると首を振った。


「いいえ、わちきは座敷ここにいただけ。その男を助けたは、主さんのほかにはおりいせん。もっと堂々と、胸を張っていなんせ。さ、朧、酒を――」

「そうは行かぬし酒もいらぬ!」


 隆正が声を荒げると、腰を浮かしかけた朧が凍りつき、そして顔を顰めて彼を睨んだ。花魁に対して無作法な、とでも思われたのだろう。しかしこの際構ってはいられない。薄雲に全て明かしてもらわなければ、彼はこの事件を終わったものとは思えないだろう。だから、隆正は身を乗り出して薄雲に詰め寄る。多少、大人げなくみっともないのを承知の上で。


「某も全て話したのだ。だからそなたも全て教えろ。信二の居場所、青海屋の企み――一体いつ、どのようにして知ったのだ? それにあの伊勢いせ惣衛門そうえもんとかいう老人だ。どうして全てが都合よくあの場に集まったのだ!?」

「それは――」


 薄雲の方もわずかに身を屈め、朱をいた唇を隆正の耳元に寄せる。ようやく教えてくれるのか、と。首を傾ければ、耳をくすぐるのは悪戯っぽい笑いを含んだ吐息だった。


「たまたま、でござんすよ。今聞いたように上手く運ぶなど、わちきもちっとも考えちゃおりいせんでした」

「――ならば、なぜ!」


 揶揄からかわれたと気付いて、隆正の頬が熱くなる。季節に合わない暑さを感じて、首まで赤くなっているのではないかと思うほどだ。薄雲は徹頭徹尾、彼を弄んでいるとしか思えなかった。これ以上の辱めを受けるくらいなら、いっそ帰ってしまおうかとも思うのだが――


「朧、湯を用意なんせ。酒の代わりに茶をてんしょう」

「……あい、花魁」


 ひとしきり笑った薄雲は、表情を生真面目なものへと改めた。やっとまともに話ができる気配を感じて、隆正も口をつぐんで様子を見守ることにした。


「どうして、どうやって、というなら――まずは、何を信じて何を疑うか、でありんしょうなあ」

「信じる……?」

「主さんは鈴なる娘を信じたいと思いなんしておりいした。ゆえに、わちきもまずは倣ってみようと考えんした」


 薄雲が語るのと同時に、朧は甲斐甲斐しく働いている。階下から運ばれてきた風炉ふうろを薄雲の横に据えさせて、自身は奥の間から茶道具のひと揃いを調える。なつめに茶碗、茶杓ちゃしゃく帛紗ふくさ。振袖新造の見立ては姉分の意に適ったものらしく、薄雲は小さく頷いてみせた。


 薄雲が言葉を切ると、座敷に聞こえるのは風炉に掛かった釜で湯が沸き立つ微かな音だけ。隆正としては話を促すのも茶の手順の邪魔をするのもやり辛い。息詰まる思いで見守る中――薄雲はゆるやかな所作で茶器を清め、棗から茶杓で抹茶を掬い、湯を汲んで。そして、茶を点て始めた。


「鈴の目に狂いがなく、信二なる者が本当に道を誤る者でないのなら、確かに姿を消すのはおかしいのでありんしょう。したが、一方で青海屋の内で何事かが起きたのも間違いない様子。そうすると、真面目なはずの者が何をしでかしたか、そして店はなぜそれを公儀に訴えぬかがまっこと不可解――」


 すらすらと淀みない薄雲の声に、茶筅が椀の底を擦る音が合わさると音曲おんぎょくのようだった。美しく耳に心地よく、酔いしれてしまいそうで――しかし、そんな場合ではない。薄雲が述べたのは、まだ分かり切ったこと。そしてだからこそ隆正は行き詰っていたのだ。次に何を言われるのか聞き漏らすまいと、隆正は目を見開き背筋を正して全神経を薄雲に向ける。と、薄雲は手を止めると顔を上げ、大層艶やかに微笑んだ。


「ならば、信二は確かに何かをしでかした――しかし、それは悪事では、と考えるしかありんすまい。だからわちきは、青海屋は何か良からぬことを働いている、そして信二はそれを暴こうとして捕らえられたのでは、と考えたのでありんすよ」


 薄雲が言い切ると同時に、香り高い茶を湛えた椀が、隆正の前にす、と差し出されている。言われたことを呑み込み切れずに困惑している彼に鎮まれ、とでも言うかのような絶妙な間合いは、まったく見事な点前てまえだった。

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