第21話 事件の真相② 謎の老人
「
「ほう」
無論、裕福な老人が
「その……伊勢屋は、
「遊女? 青海屋か客の誰かは知らぬが、遊郭で口を滑らせるとは迂闊なことだな」
曖昧な語尾を咎められるかと思いきや、話を聞いていた
遊郭での寝物語で、
「無論、青海屋の方では心当たりはございません。なので、目下の取引相手が漏らしたのだろうと見当をつけて、抗議に向かわせたという話でした。ですから、使いの者が訪ねた旗本家も、被害者のひとり、ということになるかと」
そして同時に、竹内が言うところの上手い話にすぐ乗るような信用ならない
貴重な証人を確保することができたことに竹内も気付いたのだろう、厳めしい顔がわずかに綻び、満足そうに頷いている。
「誰が漏らしたかはこの際良かろう。思わぬことで悪事は知れるもの、と――教訓のような話ではないか」
「は、まことに……」
意外に、というか、竹内は勧善懲悪の筋書きが好みなのかもしれなかった。ふとしたことが巡り巡って悪人に不利に働く、そのようなことがあるとしたら確かに気分が良いだろう。しかし、隆正は上役と同じく喜ぶことはできなかった。
何しろ彼は、伊勢屋惣衛門が帰りの駕籠に乗り込む前に、彼に丁重に頭を下げて来た時のことをよく覚えている。血の気の多い男たちが険しい顔で行き交う、その場の緊迫した空気を感じないはずもなかったろうに、あの老人は満面の笑みでひどく嬉しそうに楽しそうに語ったものだ。
『いやあ、大変良いものを見せていただきました。目の前で悪事が暴かれ、悪党が
『大旦那様、お役人の邪魔になりますから……!
迎えの者が懇願するように促すのも、隆正の奇異と呆れの目も完全に無視して、伊勢屋は声を潜め、口を隆正の耳に近づけた。大分背丈が違うふたりのこと、老人は少々無理をして背伸びをしているようにも見えた。
『
伊勢屋の言葉を理解した隆正が目を剥いて言葉を失った隙に、老人は押し込まれるようにして駕籠の中へ消えて行った。
「事情は概ね承知した」
だから彼はもやもやとした気分のまま割り切れない思いを抱えている。竹内が晴れやかな顔で――慣れない者なら変わらぬ険しい顔と見るかもしれないが――頷く一方で。薄雲花魁が伊勢屋惣衛門を操ったのは間違いないのに、一体いつ手を回したのかが分からないのだ。いや、そもそも、あの女はどうやって青海屋の企みを把握したのだろう。隆正が方々走り回り、青海屋に踏み込んで初めて、偽物作りのことを突き止めたというのに。
「さて、この度のお前の働きぶりのことだが」
「は……っ!」
だが、この場では思い悩む暇などない。竹内の厳しい目が、今度は隆正に向けられたのだ。やはり叱りを受けるのか、と思うと自然、背筋が正される。隆正の緊張を見て取った上で、竹内は重々しく口を開く。
「盗賊もかくや、という荒々しい押し込み方だったと聞いた」
「はい……」
押し込み強盗のようだ、とは、昨晩、彼自身も感じたことだ。しかし、その場の高揚した精神ではどこか楽しかったことが、醒めた後で上役に指摘されると恥ずべきことに思えてくる。昨日の今朝でもう竹内の耳に入っているということは、現場にいた者も眉を顰めて注進に及んだのかもしれない。
忸怩たる思いで隆正が俯いても、竹内が手心を加えることはなかった。ひとつひとつ、見落とすことなく隆正の不心得が指摘されていく。
「捕物としても手抜かりが多いな。奉行所への届けが必要なのはもちろんのこと、無用の怪我人を出さぬよう、周囲の家や商家には話を通しておかねばならなかった。咎人を逃さぬためにも、表だけでなく勝手口、その他の出入り口がないかを確認の上、人を配すべきであったな」
「若輩ゆえに、功を焦ったと弁えております。無様な仕儀であったことに、申し訳のしようもございません」
「うむ、まことに」
言い訳はすまい、と。畳に手をついて頭を垂れたところに、はっきりときっぱりと頷かれては、身動きのしようもなかった。昨晩の青海屋よりは、まだ毅然とした態度を保っていると信じたかったが。そうだ、どのような罰を申し渡されるとしても、粛々として受け入れなければならない。
――と、覚悟して身構えていたのに。いつまでたっても、叱責の声が浴びせられることはなかった。それどころか隆正の耳に届いたのは、竹内の微かな溜息だった。それも、非常に珍しいことに、戸惑いというか迷うような響きを帯びているように聞こえる。
(どうしたのだろう……)
竹内をして言いづらいと思わせるほどの厳しい沙汰がくだされるのか、と。覚悟したばかりだというのに怖気づきそうになる。それを堪えて平伏したままでいると、もう一度、先ほどよりも深々とした溜息が室内に響いた。次いで、渋々ながら、といった調子の竹内の声が。
「……だが、今回は時間もなかった。昨夜を逃せば、証拠と証人を抑えるのは難しかったかもしれぬ。結果として、人ひとりの命が救われていることでもあるし」
「は……?」
何かを聞き間違えたのか、と思って隆正は間抜けな声を漏らしてしまった。しかしそれに対して咎めも答えもなく、竹内は淡々と続ける。
「お前に限って、慢心して増長するということもあるまいし、な」
「あの、それはどのような――」
絶対に、話の流れがおかしい。思っていたのとは違う展開になっている。その居心地に耐えられずに隆正は思わず顔と声を上げ――竹内と、目を合わせることになった。上役の話を遮る非礼を慌てて詫びようとするが、間に合わない。竹内が再び口を開く方が、早い。
「お手柄であったと、そう申している。――よくやったな」
半端な体勢で固まった隆正の姿は、さぞ滑稽だっただろう。身体を起こすことなど思いもよらず、けれど、驚きのあまりに平伏の形に戻ることもできず。身体も思考も完全に停止してしまう程度には、竹内からかけられた言葉は予想もよらぬものだったのだ。暴走を咎められて当然と思いこそすれ、褒められることがあるなど――隆正は、考えてもいなかった。
(よくやった、のか……!?)
それでも、実感がじわじわと彼を解きほぐす。喜びが肚の底から湧き上がる。決して賞賛を期待してしたことではないが、彼ひとりの手柄などでは決してないが。それでも余人に認められたということ、それ自体が奇妙な感動を呼び起こす。
「……ははっ……ありがたき、お言葉……!」
隆正が応じたあまりに声が大きかったのだろう。竹内は軽く身体を引いて顔を顰めていた。
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