第11話 事件は終わり、薄雲晴れる

 夏目なつめが事件の顛末を伝えに藤浪ふじなみ屋を訪れた時、迎えたのは楼主と薄雲うすぐもだった。当初の被疑者であり、最大の被害者と判明した藤枝ふじえだ花魁おいらんは、既に身請けされて見世を去っていた。あの一幕にあたって夏目が何をした訳でもなかったから、楼主に深々と頭を下げられ、初々しく愛らしい――少なくとも見た目は――振袖新造ふりしんにもてなされるのは、少々居心地の悪いことではあった。


森口もりぐち家は養子を取ることにしたそうだ。他に男子がいなくて仕方なく、ということだが、お家断絶にならずに済んで僥倖と思っていただかなくてはな』


 藤浪屋へひと通りの労いと慰めの言葉をかけた後、夏目が森口家の去就に触れたのは、話のついで程度のことだった。吉原よしわらくるわ者が旗本に対して強気に出ることもできない以上、多少なりとも苦労しているところを聞かせれば藤浪屋も溜飲が下がるだろう、と。


『おや、お婿を取ることにはなりいせんでありんしたか』


 薄雲が首を傾げたのも、相槌としてはあり得る範囲のことだった。遠い親戚に家督を譲るよりは、娘がいるなら婿を取った方が血は濃く繋がれるだろうとは、自然と誰もが考えることだろうから。


『亡くなった若君の下に、妹君がおられるということだが――兄君の菩提を弔いたいと、仏門に入られたとか』

『それは、お若いでしょうにお気の毒なことで』

『それは、よろしゅうございんしたなあ』


 しかし、藤浪屋と薄雲が声を揃えて真逆のことを述べるに及んで夏目は何かおかしい、と勘付いた。薄雲の口ぶりは、森口家の妹姫を知っているかのようなのだ。しかし、もちろんそれはあり得ない。吉原遊びに姫を伴うなどあり得ないし、若君が座敷で話題に出したにしても、出家を喜ぶ言葉は不可解だった。


『薄雲、お前は森口家に姫がいると知っていたのか』

『妹様とは知りいせん。したが、ご姉妹がおられるのではないかと、薄々察しておりいした』


 森口家を黙らせた気迫と舌鋒を思い出しつつ、それでもまさか、と思って夏目が問うと、薄雲はあっさりと頷いた。


『想わぬ相手と添うのが嫌だ、せめて仏門に入りたい、と――あの文を記したは、多分その姫様でありんしょう』


 そして、例によって天気の話でもするかのように何気ない口調で続けたのだ。夏目と藤浪屋の方は、無論、世間話と同じ調子で聞き流すことはできなかったが。しかし、薄雲は驚きに言葉も出ない男どもを気に懸けた様子もなく、何かを思い出しているかのような物憂げな眼差しで呟いた。


『あの手跡は大層優雅で流麗でありんした……ただの女中のものではありいせん。第一、森口様が命じて書かせたならば、ご当主にご注進が及んでいたことでありんしょう。武家の姫様ならば、やはり定められた相手に嫁すが常でありんしょうし、何より、兄と妹が結ばれるのりなどございんせん』

『そのような……馬鹿な……』


 薄雲がさらりと述べたのは、若君が花魁と無理心中しようとした、という筋書き以上に口に出すのが憚られる類のものだった。そして一見もっともらしい。だから夏目は絶句し――だが、論理の綻びに気付く。それは藤浪屋も同様のようで、孫のような年頃の少女に対して、おずおずと異論の声を上げる。


『で、でも薄雲、父上様が娘御の手跡を知らないことなどないんじゃないかい?』


 それに対してさえも、薄雲は予期していたかのように動じないのだが。


『あい。姫様の手跡と気付いたからこそ、ご当主はそれが藤枝姉さんからのものということにしようと思いなんしたんでありんしょう。妹様が兄上様に宛てたものとは、誰にも気づかれてはなりいせんもの。森口様も、お父上の考えを見通した上で、わざと見つかるところに文をしまっておいたのでありんしょうなあ』

『うむ……そうか、それなら……』


 夏目の脳裏には、あの日の騒動の場面が蘇っていた。森口家の当主は、例の文を藤浪屋や藤枝に突きつけることは確かにしていなかった。薄雲に言われて、差し出してしまった者がいただけで。普通ならば、これはお前が書いたものだろうと、動かぬ証拠を見せつけようとするだろうに。それはつまり、文を書いたのは別の女だと、当主は既に知っていたということになるのだろうか。そういえば、同じ手跡の者を見つけて来いと薄雲に言われて、森口家は引き下がったのだ。そこを突かれてはいらぬ醜聞が露見するから、矛を収めざるを得なかった――の、かもしれない。しかし、そうすると――


『じゃあ何だい、森口様は親子揃って藤枝に罪をなすり付けようとしていたのかい!』


 今さらながらに藤浪屋が怒声を発するのも無理のないことだった。身請けの幸せを妬んで道連れにしようと謀った若君に、それを察していながらお家大事のためにその筋書きに乗った当主。いずれも、藤浪屋や藤枝花魁にとっては勝手極まりない話。もしも薄雲がいなければ、藤枝は死罪になっていたかもしれないのだから。


『もしもそうなら、森口の姫も大した玉だが。兄君を死なせておいて、自分は読経三昧なぞ――』


 全ては仮の話と承知しつつも、夏目は森口の家に対して嫌悪を抱かずにはいられなかった。ことに、ひとり生き残った妹姫に対して。それは良かった、という薄雲の呟きは、とんだ皮肉だったことになる。自身に殉じた兄を弔うなど、白々しいとさえ思えてしまう。

 それぞれに憤る大の男ふたりに比して、薄雲は恬淡としたものだった。言っても詮のないことと達観し切ったかのように、膝の上で揃えた指先には一筋の乱れも見えなかった。


『お家は大事と、そこはさすがに承知していたのでありんしょう。兄と妹で心中など、それこそお家はお取り潰し、世間の語り草になりんしょうから。好いた方に生涯操立てできるなら、それもお幸せなことでございんす』


 曲がりなりにも武家に生まれた者に、家に仇なすことはできなかった、ということだろうか。森口兄妹の間では、あらかじめ言い交して納得していたことだったのだろうか。兄はあの世へ、妹は仏門へ、それぞれ望まぬ相手に添う定めを逃れたのだから。

 姉花魁を陥れようとした者たちの身の上さえ、薄雲は思い遣っているか、と。夏目は一瞬信じかけた。だが――それにしてはやや早口で、口調は投げやりなようにも思われた。それに、細い顎がわずかに持ち上がってるのを見て取って、夏目は思わず笑みを零した。超然とした振る舞いで、ともすれば人間離れして見える薄雲に、初めて年相応の表情が見えたと思ったからだ。


『お前も、怒っているんだな。藤枝花魁を巻き込んだ、森口家のやり方に……』

わちきはわちきゃ何にも。全てはおつむこしらえた理屈に過ぎいせん。証拠がある訳でもありんせんし。ただ――姉さんの身請けが早まったのは、ほんにようございんした』


 感情を読まれたのを恥とでも思ったのか、薄雲は頬を赤らめるとより早口に捲し立てた。その態度こそが本心を語るようで微笑ましく――何より、姉花魁に言及した時の面持ちの温かく柔らかいこと、まさに薄雲が月や陽の光を朧に和らげるのを思わせる美しさだった。


 薄雲につられてか、藤浪屋も笑みを浮かべた。不快なこといきどおろしいことばかりでなく、喜ぶこともあるのだと、思い出したかのようだった。


『藤枝を根曳ねびいたのは、武蔵野むさしの大名主おおなぬし様でいらっしゃいます。いや、今回の件で手を引かれてしまうかとも恐れていたのですが、逆に諸々の支度を急がせてくださいまして。吉原は恐ろしいところだ、惚れた女をいつまでもこんな場所においておけるか、との仰せで』

『姉さんも惚れていなんすもの。きっと、良い夫婦めおとにおなりでありんしょう』


 晴れやかに笑う薄雲の顔に、怒りの色はもう見えなかった。多分、森口家のことは終わったこととして済ませたのだろう。それか、人を陥れて勝手を貫く者たちのことなど忘れてしまおうというのかもしれない。ただ、この娘にとって重要なのは、姉花魁が罪を問われずに済んだということ。見事に籠を抜け出して、想った相手と共に空へと羽ばたくことができたということ、それだけなのだろう。


 美貌と機転に加えて、度胸もあれば情にも篤い。幼いながらにこれだけ揃えたこの娘は、必ず吉原の話題を攫う花魁になるのだろう。近く訪れるであろう将来を夏目は眩しく思い描いた。

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