第12話 自らの目と耳と足で

薄雲うすぐものしたことは、全て姉花魁おいらんのためだったのですね……」


 話を最後の最後まで聞き終えた隆正たかまさは、今度こそ深く息を吐いた。しみじみと呟いた言葉も、ただの相槌などではなくて心からの感慨だった。夏目なつめ剛信たけのぶがわざわざ長い昔話を聞かせたのも、結局のところそこを伝えようとしてのことなのだろう。


 状況を見極め、相手のわずかな言葉から真実を見抜いた機転も、殺気立った武家や役人と渡り合った胆力も本題ではない。最も重要なのは、薄雲がそれだけの立ち回りを演じたのは、ひたすら姉貴分の藤枝ふじえだ花魁の無実を証明するためだけだった、ということだ。

 森口もりぐち家の存続も、のりを外れた兄妹の想いの真実も、多分薄雲にとってはどうでも良かったのだろう。たまたま養子のことが話に出ていなかったなら、文の書き手のことも胸の裡にしまっていたのではないかという気がする。

 大っぴらに旗本家を糾弾することができないから意味がない、というのも理由だろうが、それ以上に藤枝花魁がめでたく好き合った相手と結ばれたことで全て良しとしたのではないか。夏目の言葉によって描かれた薄雲の笑みは、そんな度量の広さを窺わせたのだ。


(では……やはり……?)


 たった今聞かされた薄雲の人柄ならば、すず信二しんじの想いをわざわざ疑い、棘のある物言いをするのはそぐわない。無論、身近な姉貴分と顔も知らない町娘や奉公人では話が違うと言えばそれまでだが。この十年ほどの間のくるわ務めで、心が擦り減ることもあったのかもしれないが。だが、森口兄妹の真相――と、推察されるもの――さえ、人を害し我が身を滅ぼしても抑えられない業深い恋慕が根底にあった。それを見抜いた薄雲が、鈴の純真な思いを信じないことなどあるだろうか。


「そうだな。――あれで、結構優しいところもあるんだ、あの女は」

「そう……なのでしょうね……」


 おぼろに教えられた身揚みあげの仕組みといい夏目の昔語りといい、昨夜薄雲に対して抱いた憤りや苛立ちは、いよいよ的外れなものであったようだ。自身の狭量を何度も思い知らされるようで、隆正としては答える声も小さく歯切れが悪いものになってしまう。

 身体を縮める隆正を前に、夏目は足を組み直し居住まいを正した。昔話を語る比較的楽な姿勢から、若い者を教え諭す構えへと切り替えたのだ。低くゆっくりと、相手の胸に染み込ませるような声の調子は、隆正も既に何度も聞いた覚えがある。遥かに歳上の目上の者に、これほど真摯に語りかけられたら聞かずにはいられない――絶妙に、そう思わせるのが夏目の人徳なのだ。


「薄雲に限らず、遊女は客を試すもんだ。単純に金払いが良いか、また通ってくれるかを見極めようとするのもあるだろうが、それ以上に心を傾けて良い相手かどうかが大事らしい。御職おしょくの花魁ともなれば、気位も人一倍だろうさ」

それがしも、試されたということでしょうか」


 薄雲に対して取った態度、吐いた言葉を思い出すと、隆正のはらにしこりのようなわだかまりが感じられた。薄雲の非情にも思える言葉の数々が演技だったなら、彼を試そうとしてのものだったのなら、きっと彼は落第だろう。相手の言葉の裏を読もうともせず、ただ不機嫌を露にするだけの昨夜の態度は決して褒められたものではなかった。


していればまた違った流れもあったのか……?)


 昨夜、薄雲が座敷を去る前に依頼した――というか命じたことを反芻しながら、隆正は考える。何の目的があってのことか、今ひとつ分からないことばかりだったが、彼の態度次第ではもっと詳しい話を聞くこともできたのだろうか。そう思うと、自身の狭量が悔やまれてならなかった。


「お前なら、きっとあいつの眼鏡に適ったはずだ。そう思うから紹介したんだからな」

「いえ、某は――」


 振袖新造ふりしんの朧を怒らせた非礼ぶりは、既に夏目に知らせてしまっている。背を冷汗が伝うのを感じながら、隆正は上役の信頼を裏切ったことへの詫びを述べようとしたが――だが、夏目はゆるゆると首を振り、それ以上は言わせい。


「花魁が一番嫌うのは、わざとらしくへりくだって機嫌を取ろうとする客だ。気位が高いからこそ、見え透いた世辞はいらねえ、ってことなんだろうな」

「はあ」

「お前の顔を見れば分かる。あいつの態度に気に入らないところもあったんだろう。だが、薄雲だってそう思われることは承知で振る舞ったはずだ。その上で、お前の馬鹿正直さは伝わっただろう」

「馬鹿正直、ですか……」


 普通ならば、誉め言葉にはなり得ない形容だった。今回の鈴の件でも、夏目以外の上役や、果ては目下の岡っ引きからも散々言われたのだ。町民からの些細な訴えにいちいち耳を貸していては立ち行かない、ことの軽重を見定めろ、少しは聞き流すことも覚えろ、云々と。きっと彼らの言い分は正しいのだろう。隆正は若く経験もなく、目に入る者全てを救うには力が足りない。たまたま直に乞われたからといって舞い上がることこそ未熟者の証なのかもしれない。――だが、今の夏目の口ぶりは、それでも良いのだと言っているかのようだった。


「薄雲に何を言われたかは聞かねえ。言われた通りにするのかしないのかもお前が決めることだ。ただ、俺の経験から言えば、あの女はいつも分かりにくいことしか言わないな。全てはおつむこしらえた理屈に過ぎいせん、真か否かはぬしさんが確かめなんせ、ってな。何度聞いたことか……」

「そうでしたか」


 強面の夏目が、くるわ言葉をなぞって高い声を作るのは正直言って肌がむず痒くなる、少々気色悪いきらいもあった。だが、そのような失礼な感想とは全く別に、夏目の言葉は隆正を安堵させた。薄雲の判じ物めいた言葉は、別に彼への嫌がらせということではなかったらしい。


 隆正は少し笑い――そして、表情を改めた。不安も不審も、今は拭われた。この心持ちならば、改めて迷いなく事件の調べにあたることもできるだろう。


「薄雲花魁からは、幾つか気に懸かることがあると言われております。どのような結果になるのか――某も、自らの目と耳で確かめたいと思います」

「そうか」


 夏目の厳つい顔にも、柔らかな笑みが浮かんでいた。不甲斐ない若輩のこと、気を揉ませてしまっていたのかもしれない。藤浪屋に行かせたことといい、昔語りを聞かせたこととい、思えば夏目は隆正の身をよくよく案じてくれていたのだろう。全く、手厚い気遣いをしてくれたものだと思う。

 感謝の念を込めて見つめているのに気付いたのか、夏目は照れたように視線を隆正から外した。そのまま、石を片付けた碁盤を見つめながら、独り言のように呟く。


「お前のことは、御父上との縁もあるから鍛えてやらなければ、と思っている。一方で、俺は薄雲のことも心配でなあ。身請けの話も雨のように降ってきているだろうに、どれにも頷かないで。……役人が出入りしていると知られれば、心強くもあるだろう。だから、今回のことの顛末にもよるんだろうが――」


 あいつのことを、頼む。そう続けられて、隆正は内心少なからず慌てた。上役からの頼み事にも、あのように美しく底知れない女が心配だ、などという言葉にも。


(そうか、全ては教えてくださらなかったな……)


 薄雲が身揚げをしてまで事件の話を聞きたがる理由。さらにまた、身請け話を受けないなどという不思議が加わってしまった。多分そこも、自分で確かめろということなのだろうが。そして、薄雲と再び会うためには、何かしらの成果を上げてからでなければならないだろう。


「――薄雲花魁は、間に合えば良いが、などと不穏なことを申しておりました。聞かせていただいたこと、大変身になる話ではありましたが、そろそろ行かなければ。……失礼を、させていただきます」

「おう。行って来い」


 夏目に対して深く頭を下げると、隆正は勢いよく立ち上がった。まず向かうのは――青海あおみ屋だ。信二を探し、鈴を安堵させるために、駆け回らなければならないだろう。

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