第10話 籠の鳥ふたり

 過去の話ではあっても、また聞きであっても。信じ難い告発を聞いた隆正たかまさは、思わず大声を上げていた。


「どういうことです!? 旗本の嫡子が自死したというのですか? それも、毒で、祝言を控えていたというのに? 第一、その若者は花魁おいらんを怨む言葉を遺したのでございましょう……!?」


 居座る隆正と夏目なつめを気遣ったのか、碁会所の者が茶菓を運んできていた。しかし、彼の側に置かれた羊羹の切り口は乾く一方、湯呑から立ち上る湯気もとうに消えている。隆正が、飲み食いを忘れて夏目の話に聞き入っていたからだ。

 一方の夏目は、話し疲れたのか湯呑を取って冷めた茶を啜った。遥かな過去を見る、あの目をしながら。


「懐かしいな……あの時も、森口家のご郎党は口々にそんなことを言っていた」

「道理でございます。毒を隠せたのはただひとり、とはもっともらしくはありますが、そのような暴挙に出る理由がございません」


 年嵩の上役に対して、隆正は思わず問い質すような口調になってしまっていた。それだけ、藤浪ふじなみ屋での過去の事件が謎めいていて、全ての答えを知っているはずの夏目が早く先を語ってくれないのが勿体ぶっているようにも感じられてしまうのだ。

 実際、夏目は逸る隆正を見て面白がっていたのかもしれない。竹楊枝で羊羹を口に放り込み、茶で流し込むまでに、やけに時間をかけたようにも思われた。目下の若輩を焦らす手口は吉原の花魁もかくや、というものだった。


「お前の言う通り、森口家がはいそうですかと引き下がるはずもなかった。後継ぎが死んだ上に、奉行所まで引っ張り出したんだからな。だから――あの頃から、薄雲はただの小娘じゃなかったよ」



      * * *



 針が落ちる音も聞こえそうな静寂は、しかしほんの数秒で破られた。薄雲の告発にあっけにとられた森口家の者たちが我に返り、怒りを一層滾らせて薄雲に詰め寄ろうとしたのだ。

 華奢な娘に丸太のような腕が伸びるのを同輩と共に押しとどめながら、夏目は必死に呼び掛けた。後の時代に隆正が問うたのと、そっくり同じことを。


『なぜだ? どうしてそんなことをした!? 旗本の若君が!』

藤枝ふじえだ姉さんを道連れにするためでござんしょう。毒を盛られたと装って、見つかるように文と、座敷には毒も仕込んで。仕上げに、今際に姉さんの名を言いなんせば、余人は姉さんを疑うに違いありいせんもの。実際、ご家中の皆様、揃ってここにお見えでございんす』

『だから、その理由わけだ! たかが女郎と、どうして差し違えようなどと考える!?』


 刀を持ち込ませない吉原よしわらの倣いは、藤枝花魁だけではなく、夏目ら役人にとっても幸いだっただろう。薄雲が淡々と、ほんのりと笑みさえ浮かべて述べたのは、死んだばかりの若君への侮辱も同然、そもそも敵討ちのつもりで乗り込んできた森口家の郎党にとっては火に油を注ぐようなものだったのだ。捕物に慣れた与力や同心といっても、怪我人を出さずに荒ぶる者たちを収めるのは、次第に難しくなっていた。


『藤枝姉さんのことを、それだけ羨ましく思いなさんしたんでありんしょう』

『馬鹿げたことを。ひと晩幾らで身体を売る身の上を、どうして羨ましいなど思うことがあるものか』


 薄雲の澄んだ目が見つめるのがただひとりであることに、夏目は気付いた。その相手は、森口家の当主。息子を失い、家中を率いて藤枝花魁を断罪せんと参じた、まさにその人だった。息子の死に加えて、薄雲が述べたばかりの自死と無理心中の疑い、更には遊女への羨望など、どれをとっても武家への侮辱に他ならない。怒鳴り声でこそなかったものの、非礼な小娘を睨みつける目の鋭さ、質す声に宿る凄み、いずれも相対する薄雲には抜き身の刃を突きつけられたも同然だろう。

 しかし薄雲は、森口家の当主の視線と殺意を正面から受け止めた。


『姉さんは、想った御方と添い遂げなさいんす。翻って、森口様はいかがでありんした? 祝言とやら、本心から喜んでいなんしたのでありんすか?』

『……惚れた腫れたで添うなどとは下賤のすることだ』


 森口の答えは当然のものだった。家名と血脈を後に繋ぐのは武家に生まれた者の務め、そこに好き嫌いの入る余地はない。だが、答えるまでに空いた間と、聞かれたことに是か否かでは答えない歯切れの悪さが、却って真実を告げていた。


『あい。何もなければ、森口様もお家のために決められた方と添うたことでありんしょう。したが、ご自身が望まぬ祝言を挙げる一方で、女郎風情が幸せを掴むと、ひとり籠を抜け出すと知りなんしたら……? 引き摺り落としてやると思いなんしても、不思議はないでございんしょう』


 夏目の、そして恐らくその場の全員が、森口の若君の今際の言葉を思い出していた。


『おのれ藤枝……決して、許さぬ……』


 誰もが、毒を盛った下手人への怨嗟の言葉だと信じていた。事実、怨みが籠ってはいたのだろう。だが、薄雲の言葉を信じるならば、そこには一抹の悦びも紛れていたのかもしれない。決して許さぬとは、自身を殺した罪ではなく、ひとり幸せになることだったのだ。これで藤枝花魁に疑いが向く、自身が家という籠に閉じ込められる一方で、羽ばたこうとしていた女を地獄に叩き落すことができる、と。


 辺りには再び静寂が降りていた。森口家からの反駁がないことが、若君と彼らの間にどのようなやり取りがあったかをほとんど物語っていた。中には虚しく口を動かそうとする者もいたが――恐らくは嘘になる証言を、大声で言い立てることはできないようだった。


『さて、再びお尋ねいたしんす。森口様のご家中に、この文の手跡の女は本当におりいせんか?』


 対して、楼主から取りもどした文を突きつける薄雲の目にも声にも迷いはなかった。そして森口家の当主が目を逸らした時点で、その場のが決したと知れた。



      * * *



 話を聞き終えた隆正はほう、と溜息を吐いた。気付けば肩にも随分力が入っていたらしく、重い強張りが感じられた。捕物に立ち合ったことも、下手人の説き伏せにあたったこともある彼だが、藤浪屋での一幕は経験したことのない類のことだった。十三、十四の小娘が、言葉のみによって事の次第を解き明かし、猛った武家を納得させるなど、にわかには信じ難い。だが、夏目が語った以上は真実に他ならぬのだろう。


「……それで、森口家は引き下がったのですか?」

「ああ。若君は病死ということになった。奉行所と藤浪屋には、後日丁重な詫びがあったよ。突然のことに動転して醜態を見せた、まことに相すまぬ、とか何とかな」


 それが落としどころだったのだろう。薄雲の訴えを丸々認めては、森口家にとっては醜聞どころかお取り潰しの理由にもなりかねない。無実の者に殺人の咎を着せようとしたのだから。藤浪屋にとっては災難だっただろうが、とはいえ武家に対して廓が反訴することもできないだろうし、証拠が文の手跡だけ――それも、森口家が調べに応じたかどうかは非常に怪しい――となれば、詫びを受け入れて終わりにするしかないだろう。


 いささか腑に落ちない顛末ではあるが、とにかくも藤枝花魁が罪に問われることがなかったのは良かったのだろう。それに、夏目がこの話を彼に聞かせた理由も何となく察せられる。


「……薄雲という女の頭の冴えも度胸のほども、分かったように思います。夏目殿が信を置かれているご様子なのも」

「だろう。まあ、さすがに火事場の馬鹿力というか、かなり無理をして気を張っていたそうで、その後しばらく寝込んだそうだが」


 そう言って笑う夏目の表情には、幾らかの安堵も見えるようだった。老練なこの男には、多分隆正の不安や不審や戸惑いが透けて見えていたのだろう。だから、昔話を聞かせることで薄雲の器を教えてくれたのだ。信じるに足る女なのだ、と。


「……ことの顛末は、藤浪屋にも一応報せに行ってな。その後もついでがあれば顔を出して――俺は気の利いた話なぞできないからな、血腥ちなまぐさい話題になることもあった。すると、あの娘はまたよく目端が利いてなあ」

「そういうことでしたか。いえ、夏目殿が吉原通いなどと、まさかと思ってはおりましたが」


 上役への信頼も見せておくべきだろうと、隆正は余計なことも付け加えた。人の死に関わる長い話を聞いた後で、少し冗談めかしたことを言いたかった気分でもあった。

 やや取って付けたように笑った隆正に、しかし、夏目は軽く眉を上げた。部下が何かしくじりをやらかした時の表情に、自然と隆正の背は正される。


「おっと、お前は少し鈍いな。あれで話が終わりだと思うか?」

「は……?」

「森口家は旗本だぞ。廓相手に拳を振り上げておいて、あっさり退いたのはなぜか、文は誰が書いたのか――気にならないのか?」


 突然尋ねられて間抜けに瞬きする隆正に、夏目は噛んで含めるように問うた。言われてみれば不可解な部分は残っているし、気になるかどうかと言えば、なるに決まっている。しかし、森口家が自らの醜聞になることを明かすとも思えないのに――


「まさか、薄雲はそれも言い当てたのですか?」

「全て頭で考えた絵空事だと、あの女はよく言うがな。まあ遠からず、といったところだろうな。あいつの気性ももう少し分かる話でもあるだろう。だから、ちょっと聞いていけ」


 碁会所の者が茶のお代わりを聞きに顔を見せかけたのを、夏目は片手を振って追い払った。つまり、これまでにも増して、森口家の内々に関わる話になるということなのだろう。期待半分、緊張半分。話の続きに備えて、隆正は背筋を正して座り直した。

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