第9話 薄雲の仕切り

 夏目なつめはそこまで語って言葉を切ると、隆正たかまさににやりと笑ってみせた。


「――さて、お前ならどうする、隆正? 動かぬ証拠が揃ったと、藤枝ふじえだ花魁おいらんを引っ立てるか?」

「いいえ……いえ、違います。はい、その場にいたならば、そのようにしていたと、思います」


 一度首を振りかけて、隆正は考え直してやはり頷いた。誤ることを強いられているような気がして、何か面白くない気もしたが。藤浪ふじなみ屋が健在である以上、藤枝花魁が無実であったのは多分間違いない。だが、もしも自分だったら、きっとその女が下手人だと断じていただろう、とも思ってしまう。森口もりぐちという旗本家の若君に寄せられた恋文、毒入りの菓子、座敷から見つかった石見銀山。そこまで揃えば、証拠は十分と判断してしまっていてもおかしくない。


「……下手人は、一体何者だったのですか? 藤枝花魁に咎がないとするのなら。森口家の嫡子が死んだのは、確かに石見銀山が理由だったのですか? 毒を盛られたのは菓子ではなく、他の食事だったとか――ならば、家内に下手人がいた……?」

「ふふ、少しズルになるが答えてやろう。毒が入っていたのは確かに干菓子だった。吉原の女からもらったという、な」


 夏目なつめは、生徒を見守る師のような眼差しを向けてきた。試行錯誤で正解に至ろうとするのを喜ぶかのような。ともすれば子供扱いとも思えるその眼差しへの反発と、自身が罪のないものを断罪してしまうかもしれない、という恐れが、隆正を饒舌にさせた。数秒の間に必死に考えを巡らせて、語られる前に十年前の真実に辿り着きたいと、幾つかの説を述べてみる。


「……では、他の遊女が渡したのでしょうか。藤枝が目障りだったとか、そんなことで。いや、それでは藤浪ふじなみ屋にも累が及ぶから……他の見世の嫌がらせということも、あるでしょうか」

「生憎だがどれも違う。やっぱりな、そうそう分かるもんじゃねえよ」


 隆正の推論をあっさりとへし折って笑った後、夏目はすぐにその笑みを引っこめた。代わりに浮かべる苦い表情は、悔恨、なのだろうか。今の隆正が想像として抱いた冤罪の恐れを、夏目はかつてよりはっきりと、我がものとして感じたのだろうから。


「……だから、その場にいた俺たちも同じだったさ。女を責め立てるのは気が進まないが、どうやら大それたことをしでかしたようだ、森口殿の気が収まるような打擲ちょうちゃくはすまいが、じっくり事の次第を改めないと、ってな」


 そう呟くと、夏目は再びかつての事件の続きを語り始めた。



      * * *



 花魁としての矜持がそうさせたのかどうか、藤枝は藤浪屋の楼主よりは幾らか気丈だった。強面の男に囲まれ、縄を見せられても毅然として言い返すことができる程度には。


『森口様はただの馴染みのひとりというだけ、お気の毒には思いいしても、共に死ぬなど考えたこともありいせん!』

『だが、お前の座敷からは確かに石見銀山が出た。菓子に盛って森口殿に渡したのだろう!?』


 毒薬の包みを突きつけられると、藤枝の麗貌もさすがに引き攣ったが。罪の証拠を暴かれての怯えなのか、単純に毒を恐れたのかは、傍目には区別がつかなかった。いずれにしても、包みから顔を背けての反論からは最初の勢いが失われ、通るはずの声も震えていた。


わちきはわちきゃ何も知りんせん。菓子など渡しておりいせんし、石見銀山も――毒の上で客人を迎えていたなど気色悪い。誰ぞ、わちきを嵌めようとしたのでありんしょう……!』

『あの文は? 森口殿に心中を持ちかけて断られたのを怨んだのではないのか?』

『馴染みの方に文は書きいす。したが、わちきは藤浪屋の御職おしょく花魁、死ぬの殺すのと興醒めを書いて、脅すようなことはいたしいせん!』

『ええい、話は番所ばんしょにてすればよかろう! この妲己だっきめの詭弁に耳を傾ける必要などない!』


 藤枝と役人のやり取りは、森口家の者にはいかにも手ぬるく見えたらしい。血の気の多そうな若い衆が藤枝に掴みかかり、女と楼主の悲鳴が響く。若い衆を取り押さえようとする者、加勢しようとする者。それぞれの怒号、廓の者の悲鳴と叫びが混然として嵐を成した、その時――涼やかな高い声が、響き渡った。


『その文とやら、わちきに見せておくんなんし』


 声の主は、紅色の振袖も愛らしい娘だった。薄雲うすぐも、と震える声で藤浪屋が呼んだことで夏目たちもその名を知った。止めろ、退け、との命令と懇願を込めた呼び掛けだっただろうに、その娘は当然のように森口家の家人に細い手を差し出し――驚くべきことに、不意を突かれた相手の方も、すんなりと文を渡してしまったのだ。


 文を手にした薄雲は、姉花魁の涙も殺気立った武家や役人の表情も目に入らぬように、にこりと美しい笑みを浮かべた。


『藤枝姉さんの手跡ではございんせんな。ほら、楼主おやかた様もご覧なんせ』

『おお……確かに! これは、藤枝の字じゃございません、私が教えたんだから確かです!』


 薄雲から文を渡された藤浪屋は、泣き顔から一転、雲間に光明を見出したかのような笑顔になった。嘘を吐く余裕があるとも思えない者が迷いなく断言したことに、夏目たち役人はそっと目を見交わした。当初思われたより、話がややこしくなりそうだ、と気づいたのだ。

 だが、まだ藤枝を無罪放免とする証拠には弱い。そして無論、森口家の者がおいそれと引き下がるはずもなかった。


『だから、何だというのだ!? 文など、誰にでも書ける――小娘、貴様が命じられて書いたのではないだろうな!?』


 大小はむなく預けたとはいえ、奉行所から吉原へと怒りに駆られてなだれ込んだような者たちだ。小娘の細首など片手で折れる、そのような相手数人に詰め寄られて、しかし薄雲はほんの少し眉を顰めただけだった。それも、怯えによってではなく、非礼に感心しないとでもいうような、実に優美かつ高慢な表情だった。そうして小さな唇から零れた次の言葉も、相手の余裕のなさを哀れむような響きさえあった。


『それなら、わちきの手跡もお見せしんす。その他、藤浪屋の女郎に禿、男衆。更には吉原中の代筆屋なりと、気の済むまでお調べなんせ。多分その手跡の者は、大門おおもんの内側には見つからぬでありんしょうが。その時は、森口様のご家中からもお探しなんせ。で見つかるやもしれえせんゆえ』


 そこまで聞いてやっと、夏目は小娘に気を呑まれる事態の異様さに気付いた。どういう訳か、誰もが薄雲という娘の言葉に聞き入ってしまっていたのだ。水揚げが済んでいるかどうかもあやしい年頃の振袖新造ふりしんの癖に、見世を負って立つかのような堂々とした話しぶり――それを、当の藤浪屋の楼主でさえも、咎めることを忘れてしまっていたかのようだった。


『なぜだ。なぜ、その文を書いた者が森口殿のお身内だと考えたのだ?』


 我に返った夏目に問われても、薄雲の超然とした落ち着きは変わらなかった。まるで今日の天気を聞かれたのに応えるように、振袖姿の娘はさらりと答えた。


『森口の若様が命じたのでござんしょう。藤枝姉さんに言い寄られていると見せるために』


 森口家の郎党が何か怒鳴りかけたのに先んじて、薄雲は深々と溜息を吐いた。子供の物分かりが悪いのに呆れかえった、という調子を、まさに子供が演じてみせたのだ。


『姉さんは人殺しなどいたしいせん。身請けを心より待ちわびているのを、わちきは誰よりよう知っておりんす』

『だが……だが、本心は違ったということだろう! 客の手前、喜んでみせただけで! 若に横恋慕していたのでなければ、なぜ――』


 主の死を悲しむのか憤るのか、目を潤ませ頬を紅潮させての詰問も、もはや負け犬の遠吠えのようにも聞こえていた。薄雲の声は高く細く幼いのに、なのに整然としてつけ入る隙がないようの思えたからだ。禿たちの泣き声ももう止んでいた。薄雲に全てを任せておけば安心と、廓の側にはそのような気配さえ漂っていた。


『仮に、仮に姉さんが無理心中を図ったといたしんしょう。ならば、森口様を送ったその朝に毒を呷ればようござんす。ひとり怖気づいたというなら、それか祝言が妬ましくて殺すというなら、毒はすぐに始末せにゃあなりいせん。今日の今日まで毒がそこにあったのは、姉さんが真実何も知りいせなんだからでございんす』

『では、毒を仕込んだのは誰だ? お前はどう思うんだい?』


 夏目は、どういう訳かごく自然に薄雲に問いかけていた。ただの小娘、ただの口先の屁理屈だと、頭の片隅では思いつつも。この娘に問うのが、一番話が早いのではないかと、不思議な勘が働いたのだ。

 そして問われた薄雲の方も、当たり前のように頷いて答えた。愛らしく首を傾げ、姉花魁の座敷とそこに集った面々をぐるりと見渡しながら。


『あい。花魁の座敷に毒を隠すのは余人には難しゅうございんす。わちきらも常に控えておりんすからなあ。人目がない時と言えば、引け四つになって芸者も幇間たいこもちも皆下がり、花魁と客人がふたりきりになった――さらにその後。花魁が寝入った隙を突くしかござんせん。それができるのは、ただひとり――』


 滔々と紡がれる薄雲の声を聞きながら、誰もがひとりの名か姿を思い浮かべた。まさか、との思いに、口に出すことができる者はいなかったが。だから、たっぷりと間を取った後で薄雲告げたことは、しんとした静寂によく響いた。


『毒を隠したのは、森口様でありんす』

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