第8話 森口家嫡男毒殺事件

 それは十年ほど前のこと、夏目なつめ剛信たけのぶがまだ定廻り同心を務めていた頃の話だった。奉行所に出仕していた夏目の耳に、常ならぬ人の騒ぎ声や物々しい足音が届いたのだという。

 夏目をはじめとする物見高い連中が集まると、騒ぎはいよいよ大きくなった。何しろ、町奉行に血相を変えて詰め寄っていたのは、とある旗本家の当主だった。それも、家人を引き連れて。合戦でも起きるのかというような殺気立った空気の中、彼らが携えてきた訴えとは――



      * * *



「後継ぎが吉原よしわら花魁おいらんに殺された、その女狐を引っ立てろと、そういうことだったんだが――」

「は? 仮にも武家が女の手に掛ったと……? 一体どのようにして――いえ、そもそも、よくも素面しらふで訴えられたものですな」


 あまりの椿事ちんじに、隆正たかまさは思わず上役の話を遮る非礼を犯していた。それは、人が殺められるのは訴えられ裁かれるべき罪には違いないのだろうが。剣や弓を持つのが務めの武家の者が女に後れを取ったとあっては家の面目は丸つぶれだ。相手が吉原の花魁では、背景には痴情のもつれがあったのだろうし、下手に醜聞になることで、その旗本家こそ咎めを受けることになるのではないか、とも思うのだが。


 隆正の戸惑いと疑問を予想していたかのように、夏目はただ軽く肩を竦めてみせた。当時の彼にとっても、異様な事態で異様な訴えだったということだろうか。


「そうだな。俺たちも内心で呆れたもんだよ。よくも恥も外聞もなく訴えられたもんだ、とな。だが、詳しく話を聞いてみると、その剣幕ももっとも、と思えなくもなくてなあ。その旗本家は――仮に、だが森口もりぐち家、とでもしておくか」



      * * *



 森口家の若君は、吉原のとある花魁の馴染みだった。もっとも手練手管に溺れていたのではなく、ひと通り女の味を知っておいた方が良いだろう、若いうちにある程度遊ばせた方が加減を知ることもできるだろう、という家の方針ということだったが。――つまり、だから、若君と敵娼あいかたの花魁は、想い合った仲ということではなかったのだ。少なくとも、森口家の認識においては。


 一族郎党が奉行所に詰めかけた、その数日前も、若君は吉原で過ごしていたのだという。とはいえだらだらと居続けをするようなこともなく、さっぱりと後朝きぬぎぬを済ませ、翌日の朝餉は自邸で取っていたのだとか。爛れた気配など微塵も残さない、平穏なはずの一日は、しかし突然終わりを告げた。着替えをしようとしていた若君が、突然嘔吐して苦しみだしたのだ。

 発熱に、下痢、血の混ざった吐瀉物。悪い病としか思えない症状に、慌てて医者を呼んでも、手当の甲斐もなく若君は衰弱する一方。薬が効かず、邸内に他に流行り病の兆しがある訳でもなく。家人が嘆き悲しみ訝しむうちに、誰かが毒ではないか、と呟いた。若君が倒れた朝をよくよく思い出してみれば、常とは違うことがあった、と言い出す者が現れたのだ。

 着替えをしながらの雑談の時、若君は干菓子を取り出して口に運んでいた。吉原の女にもらったのだ、と笑いながら。前夜の睦言を思い出しでもしたのか、幸せそうな表情で菓子を呑み込んだ――若君が苦しみだしたのは、その後ではなかったか、と。


 そのような言葉が枕元で囁かれ始めたのとほぼ時を同じくして、森口家の若君は儚くなった。痩せた指で枕に爪を立て、掠れた声に滾る憎しみを込め、呪詛のような言葉を吐いて。


『おのれ藤枝ふじえだ……決して、許さぬ……』


 藤枝。それは、若君の馴染みの敵娼の名だった。藤浪ふじなみ屋に座敷を持ち、今を盛りと咲き誇る花魁の名。更に、若君の部屋からは隠すように大切にしまわれた文が何通も見つかった。いずれも、若君への恋慕を切々と訴える女の手跡のものだった。想った相手と添えない我が身が恨めしい、やすやすと死も許されぬ身の上なれば、せめて操立てに仏門に入りたいのにそれすらできない、云々と。


 文を握った森口家当主の手が怒りに震えたであろうことは、想像に難くなかった。息子は、遊女の横恋慕のために殺されたのだ。息子の今際の呟きは、仇の名を訴えるためのものだったのだ。そう瞬時に確信して、当主は奉行所に押し掛けたという訳だったのだ。



      * * *



 遥かな過去の、知らない人々の醜聞と悲報を眉を顰めながら聞いていた隆正たかまさは、覚えのある名前にやっと軽く息を吐いた。


藤浪屋、ですか……」

「そうだ。藤枝は今の薄雲の座敷を与えられていてな。で――客を取らせないで楼主の手元で育てられていた薄雲が、最後の仕上げにと預けられた先でもあった。まあ、当時はそんなことは知らなかったが」


 十年前で、水揚げ前というならあのおぼろくらいの十四、五歳といった年頃だろうか。あの薄雲の少女姿を思い浮かべるのは難しいような、その頃からさぞ美しかったのだろうと思い浮かべられるような、不思議な心地だった。

 とはいえ、薄雲はまだ夏目の話に現れていない。毒殺の疑いありとなれば奉行所へ訴えがあったのも得心がいく。吉原内での刃傷沙汰ともまた話が違うから、大門横の面板所めんばんしょに詰める同心の管轄ではない──だから夏目たちが出向いたのも、まあ筋が通る。だが、それでも吉原は並の世間とは訳が違う場所だ。隆正自身が、つい昨日それを体験している。


「吉原に向かったのなら、刀を預ける預けないでさぞ揉めたのでしょうね」

「そうだな。森口家のお歴々は頭に血が上ってたから、女の顔を見るなり斬りつけかねない勢いだった。だから俺たちも必死に宥めて――あそこだけ見れば、捕物にも見えたかもなあ」


 当時の苦労を思い出したのか、夏目は強面の顔を顰めてみせた。隆正を案内した引き茶屋鶴美つるみ屋の者も、武家は刀を手放したがらないと言っていた。息子の敵討ちに乗り込んだつもりだったなら、抑える側も危険を感じることもあっただろう。しかもそれは吉原の入り口でのこと、くだんの花魁がいる見世ではさらなる悶着が待ち受けていたはずだ。


「その藤枝なる花魁は、本当に森口家の嫡子に毒菓子を渡していたのですか? 相手を殺して自分も死罪になろうという、無理心中のようなことだったとか?」


 話の先を促しながら、隆正はそれは違うのだろうな、と思っていた。武家殺しなどという事件を起こした見世が、商いを続けられる訳がない。藤枝が罪に問われていたならば、薄雲がその女から継いだ座敷で微笑むことなどできるはずがない。だが、どうして藤枝と藤浪屋が罪を逃れたのかが分からない。菓子を食した後に若君が体調を崩したのが事実なら、森口家を納得させるのは至難の技に思えるのだが。


 隆正の疑問は、夏目の意に適ったものだったのだろう。よく聞いてくれた、とでも言うように、厚い唇が弧を描いた。


「まあ、そう思うのが普通だな。知っているか? 吉原では、想った相手同士が時間を取り決めて別の場所で命を絶つ形の心中もあるそうだぞ」

「では、藤枝花魁は既に死んでいた……!?」

「いや。話はもっとややこしかった。一体誰が下手人で、どういう理由でことを起こしたのか。まあ、ちょっと考えながら聞いてみろよ」


 新たに煙管きせるに火をともしながら、夏目はさりげなく隆正に重圧をかけた。紫煙の向こうに窺えるかつての事件は、若く未熟な後輩への何かしらの訓導ということなのかもしれなかった。



      * * *



 当然というか、殺気立った武家と役人の前に押し掛けられた藤浪屋の楼主は腰を抜かして驚いていた。刃はなくとも、楼主を睨みつける目つきや脅すように問い質す声の険しく恐ろしいこと、それだけで神経の弱い者なら心臓が止まりかねなかっただろう。しかし、忘八ぼうはち――八つの徳を忘れ、女の身の上を売り買いすると蔑まれるくるわ者は、多分恐れも忘れていたようだった。藤浪屋は、潰れたカエルのようにみっともなく平伏し、声を情けなく震わせながらも、懸命に反論を試みたのだ。


『うちの藤枝がそのようなことをするはずはございません。あのは、既に馴染みのお客人と身請けの話がまとまっております。若君様に恋慕することはおろか、お恨みするなど――やっと苦界を抜けて人並みの幸せを掴もうというところだったのでございます。まさか、自らそれを壊そうとしたりなどはいたしません』


 だが、それは森口家の怒りに火を注ぐばかりだった。何しろ彼らは若君の部屋に遺された文の文面をしっかりと覚えていた。想った相手と添えない我が身が恨めしい、というのは、つまりは身請け話が不服だったということではないのか、と。


せがれは近く婚儀を挙げるはずだったというのに……売女風情がなんと大それたことを……!』

『それは存じておりました! だからこそ、最後の夜もしめやかな座敷で、別れを惜しむ席だったと聞いております!』


 怒鳴り合う森口家郎党と藤浪屋楼主を他所に、夏目たち奉行所の者たちは藤浪屋の楼内を家探しした。まだ昼見世も始まっていない時刻、寝惚けまなこの遊女たちがしどけない姿で何事かと起き出し、幼い禿かむろたちが尋常でない雰囲気に怯えて泣くのを時に宥め、時に叱って掻き分けながら。


 夏目たちは、見世の二階の藤枝花魁の座敷も検めた。すると、畳の下から怪しげな包みが見つかった。中身は白く、匂いのない粉末――だが、粒の細かさや形状をひと目見て、役人たちの間にはぴりっとした緊張が走った。さらに、くりやでネズミを捕まえて粉末を舐めさせてみれば、その正体は確かなものとなる。


 粉薬を舐めたネズミは、すぐに血を吐いて息絶えた。猫要らず、石見銀山とも呼ばれる毒だ。手に入れるのは容易く、人を殺すことさえできる。藤枝花魁が隠し持っていたのは、そのような劇薬だったのだ。

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