第5話 青海屋の謎
煙を肺から吐き切ったところで、薄雲はにこ、と隆正に微笑んだ。
「
「会ったこともないのに何が分かる」
涙を堪えて気丈に振る舞った
だが、実際に顔を合わせて鈴の訴えを聞いた隆正には、恋慕に目を塞がれた小娘の甘ったるい言葉とも言い切れぬのだ。鈴も栄屋の主人も、信二という奉公人が実直な人柄であったことは口を揃えて証言している。魔が差すことがあるのは、役目柄隆正も知ってはいるが――それにしても、出入りの料理屋の婿に、と見込まれるのは願ってもない話だろう。将来の展望が開けているのを不意にしてまで、小金を欲しがるというのも考えづらいのではないだろうか。
隆正が睨めつけても、薄雲花魁は笑みを崩さず煙をくゆらせるばかりだった。
「この吉原でもよくあることでありいすもの。遊女の言葉にまことはないと世間では申しいすが、わちきらに言わせりゃあ男も真っ赤な嘘吐きでありんす」
紅い唇の間から、ほうと白い煙の塊が吐き出された。春の夜を模した座敷に、自らを月になぞらえる美女。竹取物語を思い出して、不死の薬を焼いた煙か、などと埒もない考えが隆正の頭を過ぎる。薄雲の
「必ずまた来ると誓ったものを、反故にするのは決まって男の方でござんしょう。文を書いても梨の
だが、世の男がいかに不実だとしても。それでも――あるいは、だからこそ、真実があっても良いはずだ。そして、信二という男を見込んだ鈴の目が誤っていないのだとしたら。信二が本意には寄らず、姿を消したのだとしたら。江戸の町を守る役を負う者として、見過ごす訳にはいかない
「――では、そなたに話したのは無駄であったな。信二を
とはいえ、薄雲に対して吐き捨てるのは、八つ当たりに過ぎないのも分かっていた。隆正の上役も、手先と使う岡っ引きたちも、彼の懸念を杞憂と笑い、あるいは叱った。その娘は恋情の
ただひとり、隆正に多少なりとも同情めいた顔を見せてくれたのが
案の定、というか。隆正の筋違いな当て擦りに、薄雲が眉を逆立てることなどなかった。首を優美にしならせて、細い
「はて、わちきにいかに探せと
「……
吸い口を懐紙で拭った煙管を差し出されて、隆正は首を振りつつ退けた。吸い口のわずかな曇りは、紅い唇が紡ぐ吐息の名残だ。花魁の吸い付けた煙管を愉しむのは
「あい。それでは首尾はいかがでござりいしたか?」
彼の意地を見透かしたように、薄雲はあっさりと煙管を咥え直して話の続きを促した。それでやっと、隆正も本題へと意識を戻すことができる。
信二が奉公していた青海屋を訪ねたことで、彼の勘――というのもおこがましいのだろうが――はいよいよ強まったのだ。どうもただならぬことが起きているのではないか、という。
* * *
こぢんまりとした構えの栄屋とは違って、青海屋は意外にもというか
「これは旦那、何か器をお探しでしょうか。それとも、当店に何か御用で……?」
黒の羽織に二本差しの隆正は、すぐに八丁堀界隈の同心と知れたのだろう。青海屋の店頭の品々を眺めていると、すかさず手代がひとり、駆け寄ってきた。客商売に向くのであろう涼やかな顔に、わずかに警戒の表情が見て取れる。とはいえ、特に後ろめたいことがなくても役人を相手に身構えてしまうのは分からなくもない。
だから、予断を持って対してはならない――そう、自らに言い聞かせながら、隆正は相手の顔色に目を凝らした。
「町の噂でこの店が盗みに遭ったと聞いたのでな。届け出てはいないようだが何ゆえだ?」
鈴とその父親の話を聞いた後、彼は青海屋からも訴えが出ていないかどうかを確かめていた。信二の後釜の奉公人が漏らしたという家内の騒動が、公にはどう報じられているかを確かめたくて。だが、結果は何もなかった。たとえ盗人としてあれ、信二が尋ね人として届け出されていれば、彼も詳しい調べを上に掛け合うことができただろうに。それか、青海屋の中で何が起きているか、鈴に知らせることもできただろうに。
隆正の探る目つきに気付いているのかいないのか、手代は素知らぬ顔で首を傾げた。
「さて、そのようなことは何も――知らぬところで悪い噂を立てられては困りますねえ。一体、どこのどいつがそのようなことを申したのでございますか?」
店での変事を認めない回答自体は、半ば予想したものではあった。栄屋の鈴は、青海屋にとっては付き合いのある相手で信二の知己でもあった。そのような間柄にも漏らさぬことを、役人とはいえ会ったばかりの者に話すとも思えなかったから。手代の言葉通り、盗まれる隙があるのを恥と捉える向きもあるだろうし、奉公人の不始末ならば、内々に話をつけようとすることもあるだろう。
「誰が、というか――噂は、噂だ」
「はい、お武家様には告げ口のような真似は好まれぬのだろうとは存じますが。ですが、
「…………」
身体に馴染んでいるのであろう滑らかさで、手代は低く頭を下げてみせた。だが、それは慇懃無礼というもので、妙に隆正の勘に障った。
だから、知らぬ振りまでなら仕方ないとは思っていたというのに。盗みを悪い噂だと断じ、更にその噂を流した者は青海屋に怨恨を抱いている、と。いっそ念押しするかのように捲し立てた手代の言葉は、妙にきついようにも思われた。それに、考えて用意してでもしていたかのように流暢だった。無論、鈴に肩入れするがゆえに何でも悪く捉えてしまっている恐れはあるのだが。
「……確かに、公儀とは公正であらねばならぬものだ。証拠もなしに決めつけることは、すまい」
「はは、ありがとう存じます……! では旦那、茶器でもご覧になってはいかがですか? 手前どもでは京辺りの由緒ある品も扱っておりまして――」
「いや、いい」
隆正が一旦引いたと見るや、すかさず売り込みにかかる
仏頂面で首を振り、隆正は早々に話を切り上げることにした。信じられる答えが返ってこないのは先と同様としても、相手の表情から何かしらを読みとれないかと期待して、考えておいた嘘で鎌をかけてみる。
「もうひとつ聞きたいことがあった。信二なる奉公人がこの店にいるのは間違いないな? 貸した金を返せという訴えも、届いているのだが」
「いいえ、そのような名の者は当家にはおりません。人違いか、店違いでありましょう」
「器屋の青海屋と確かに聞いたが……?
「いやいや、滅相もない!」
ややわざとらしく凄んで見せると、手代は一層芝居がかった恐縮振りを見せた。大げさな手の振りようが、かえって全く恐れ入ってなどいないのではないかと邪推させる。
「それこそ、恨みに凝り固まった奴らは何を言いだすか分からない、ということでございましょう。根も葉もない噂を流して青海屋の信用を損ねようという企みです。何なら、そこらの若いのを捕まえてお聞きくださいな。そんな奴ぁ知らないと、口を揃えて言うでしょう」
手代が穏やかな笑顔で述べたことは、実際そのようになるのだろう。青海屋の者全てが口裏を合わせるよう、首尾が整えられているのだろう。そう確信させられるような、揺るぎのない笑みだった。
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