第6話 薄雲は朧に月を隠す

 隆正たかまさが断った煙管きせるを、薄雲うすぐもは再び唇に咥えている。煙を肺に吸い込みながら、目を閉じて沈思黙考しているようだ。唇から煙が漏れるほかは身じろぎもせず、話を聞いているのか、そもそも本当に人なのか心配になるほどだった。整った顔立ちゆえに、黙っていると人形にさえ見えてしまうのだ。頬に陰を落とす睫毛の濃さも長さも艶めかしく、奇妙な息苦しさを覚えるほどだ。微かに聞こえる別の座敷の三味線の音や酔客の笑い声が、辛うじてここが猥雑な吉原よしわらだと思い出させてくれた。


 隆正が居心地の悪さを感じ始めた頃、薄雲はやっと目を開いた。夜の淵のように黒々とした大きな目に見つめられるのも、それはそれで落ち着かないことではあったが。


「なるほど、信二しんじなる奉公人は青海あおみ屋には初めからいなかったかのような扱いであった、と――」

「しかしそれは偽りだ。確かにいた者をいないと覆い隠そうとするのは、何か起きていると見るべきであろう」


 動揺を悟られまいと、そして自身の考えの裏付けを求めて、隆正はやや身を乗り出して訴えた。青海屋の者たちは、揃って嘘を貫く構えのようだ。人が無為に嘘を吐くことは――それも、八丁堀の同心に対して! ――あり得ない以上、そこには知られるべきではない何事かが起きているのではないだろうか。


 しかし、意気込む隆正を宥めるように、薄雲はゆるゆると首を振った。


「いいえ、他にも筋書きはありんしょう。例えば――すずなる娘の狂言だった、とか。出入りの店の奉公人に恋慕したものの、当の相手には脈がなく。かえってうるさがられて、男の方は店ぐるみで身を隠すことにした、と――ありそうなことではありいせんか?」

「そのような様子ではなかった」


 既に上役などからも聞いたことを、さらに鈴を貶めるような棘をまぶして言われて、隆正の語気も荒くなる。鈴に直に会えば、その父親の表情を見れば、信二という男のたちを疑うことはないだろうに。薄雲という女の述べることは、天女めいた容姿の割にれている。吉原で生き抜くには、仕方のないことなのかもしれないが。


「第一……それならばさかえ屋は娘を諫めるだろう。青海屋にしても、奉公人の色恋沙汰に総出で付き合うことなどあり得ない」

「あい。わちきもそのように存じいす」

「ならばなぜ……!」


 整然と反論したつもりがあっさりと頷かれて、思わず声を上げてしまう。脇に控える振袖新造ふりしんが、無作法を咎めるかのように眉を上げたのが視界の端に見えた。だが、彼の正面にゆったりと構える薄雲は、ただ朗らかに笑うだけだった。空に輝く月も恥じ入る、曇りない艶やかな笑みだった。


「それに、娘の申すのがまことの方が、でありんしょう」

「面白い……?」

「あい。男が女を騙して逃げるも、女が男を恋して狂うも、くるわにいてはほとほと飽きるほどに聞く話でございんす。翻って、相手を想う娘の訴えが八丁堀の旦那を動かし、大店おおだなはかりごとを暴いたとなりゃあ、これは世にも珍しい一幕でござんしょう。座敷の客人方も、きっと愉快に聞きなんしいしょう」


(この女は……!)


 自身ひとりの愉しみのみならず、鈴のことを酒席の――もっと悪ければ、閨での余興にしようというのだ。不快と怒りに一瞬はらの奥に炎を感じ、しかし、隆正はすぐに聞き捨てならない言葉に気付く。


「謀、だと? 話を聞いただけで何か分かったのか」

「確かなことは何とも」

「おい……!」

「ゆえに、ぬしさんが確かめておくんなんし。何度も申しいした通り、見廻りがお務めでござんしょうから」


 薄雲の言は、事実ではある。女に言われるがままに使い走りを務める屈辱に目を瞑りさえすれば。しかし、隆正が反駁する気配を封じるように、薄雲は居住まいを正した。美しいが掴みどころのない笑顔から、真摯な、そしてどこか案ずるようなものへと表情も改まる。


「幾つか気に懸かることがございんす。さて、でなければようござんすが。いえ、上手くいけば全て……。とにかく、わちきのためとは申しいせん。鈴とかいう娘のために――どうぞ、骨を折っておくんなんし」


 そうして、薄雲は畳に手をついてす、と頭を垂れた。その所作の美しく隙がないこと、それもまた、隆正から反論の言葉を封じるのだった。


      * * *



 隆正に幾つかのことをと、薄雲はすっと立ち上がった。びらびらかんざしの涼やかな音はもちろんのこと、それだけの仕草で金粉が舞うのが見えるような優美さだ。妖しい蝶がはねを開くかのような。見蕩れてしまうのは、業腹なのだが。


(一体、どういうことだったのだ……?)


 薄雲に言い含められたことのひとつひとつは、さほど難しくもないことだった。だが、この女の頭の中で何が織り上げられているのかが分からない。しかも、薄雲は彼に全てを語るつもりはないようなのだ。薄雲は、今は隆正に横顔を見せ、控えていた振袖新造を見下ろしている。


「わちきは馴染みの旦那に挨拶せねばなりいせん。おぼろ、今より主が名代みょうだいを務めなんせ」

「あい、花魁」


 朧という名らしい振袖新造は、隆正を別の部屋に案内した。花魁の座敷とは異なる簡素な部屋に、布団が一組。吉原が、遊郭がを目的とした場所なのかを思い出して、隆正は朧の顔をまじまじと見つめることになった。華やかな衣装にはっきりと化粧を施してはいても、改めて見れば鈴よりなお幼い少女だ。まだ子供と言っても良い。


「あー……」

「名代の振袖新造に手を付けるは、廓のご法度。不埒な真似に及びなさんせば、人を呼びいす」


 まさか、と思って言い澱んでいると、朧はつんと顎を反らして言い放った。木で鼻を括る、という形容が相応しい冷たい物言い――だが、隆正にとっては救いに等しかった。少なくとも、年端もいかない娘に手を出すことが作法とされるほど、ここはただれた場所ではないのだ。ならばなぜ布団が一組しかないのかというのは腑に落ちないままではあるが。


「無論、そのような真似はせぬ。遅い時間なのだから、そなたは寝なさい」

「わちきは不寝番ねずのばんを務め申しいす。構いなさんすな。主さんこそく寝なんせ」


 子供はもう寝る時間だ、と。ごく真っ当なことを勧めたつもりだったのに、朧はふいと顔を背けてしまった。軽く唇を尖らせた横顔には、年相応の幼さも見える――が、横目で彼を睨む目が、妙に刺々しいように思えてならない。


「常ならば花魁に代わって客人の無聊を慰めるところでありいすが、主さんとは口を利きたくありんせん」


 そっぽを向いたまま、半ば独り言のように呟かれるのは隆正としても心外なこと。子供相手に、と思いつつ、つい膝を詰めてしまうほどに。


「なぜだ。それがしが何かしたか? いや、廓の倣いには確かに不明ではあるが」


 直截に問えば、朧はじっとりとした流し目をくれてきた。不満げに尖った唇に力が篭り、やがて渋々ながら、といった様子で開かれる。


「……夏目なつめ様がご登楼の折、薄雲姉さんは身揚げをなさいんす。奉行所のお役人は、常の客人とは違うとおっせえして。今宵も同様でございんした。……夏目様は花魁に礼を尽くして弁えていなんすが、対する主さんは仮にも呼び出し昼三の花魁に対して無礼が過ぎる」

「身揚げ、とは?」

「客人と会うのに女郎が揚げ代を持つことでありんす!」


 隆正の問いはさぞ間が抜けて聞こえたのだろう、朧はきっとまなじりを吊り上げると彼を正面から睨みつけた。


「掛かりは女郎の借金になるゆえ、年季明けは遠のくばかり。想うた情夫まぶとの逢引きにするならまだしも、ぬしゃあ姉さんのお知恵を借りんと参りんしたんでありんしょう。なのにあのように不躾な――弁えなんせ」


 言い切ると、朧は首が痛むのではないかという勢いでまた横を向いてしまった。歳に似合わぬ激しい剣幕もさることながら、教えられた身揚げの仕組みも隆正を大いに狼狽えさせた。はっきりとした相場は知らずとも、花魁の揚げ代が目玉の飛び出るようなものだとはさすがに分かる。苦界くがいに沈んだ者にとって、年季明けは待ちわびるものであろうということも。それだけの代償を払わせた相手に対しての彼の態度は、確かに不実そのものだった。だが――


「そのような仕組みとは知らなかった――そんな、つもりでもなかったのだ。いや、まず――薄雲花魁はどうしてそのようなことを? ただの物見高さでそのようなことはすまいな?」


 隆正の胸に、恐れにも似た思いが湧いていた。座敷の話の種にしたいというだけにしては、花魁が自ら揚げ代を持つのは割に合わない。何か、あの女に深い事情や考えがあるのだとしたら。物珍しさで鈴や信二を侮ったと憤ったのは、的外れな考えだったことになってしまう。ならば――隆正は、あの花魁をひどく見誤っていたのかもしれない。


わちきはわちきゃこの上何も申しいせん。主さんには関わりのないことでありんす。疾く寝なんせ」

「そのような訳にはいかぬ……!」

「疾く寝なんせ!」


 朧は完全に臍を曲げてしまったらしく、隆正の顔を見ようともしない。少女の心を解そうと必死に言葉を探しながら、隆正は胸の裡に抱える謎が増えてしまったのに気付いていた。鈴の想い、信二の行方に加えて、薄雲花魁とは一体どのような女なのか、という謎が。

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