第6話 薄雲は朧に月を隠す
隆正が居心地の悪さを感じ始めた頃、薄雲はやっと目を開いた。夜の淵のように黒々とした大きな目に見つめられるのも、それはそれで落ち着かないことではあったが。
「なるほど、
「しかしそれは偽りだ。確かにいた者をいないと覆い隠そうとするのは、何か起きていると見るべきであろう」
動揺を悟られまいと、そして自身の考えの裏付けを求めて、隆正はやや身を乗り出して訴えた。青海屋の者たちは、揃って嘘を貫く構えのようだ。人が無為に嘘を吐くことは――それも、八丁堀の同心に対して! ――あり得ない以上、そこには知られるべきではない何事かが起きているのではないだろうか。
しかし、意気込む隆正を宥めるように、薄雲はゆるゆると首を振った。
「いいえ、他にも筋書きはありんしょう。例えば――
「そのような様子ではなかった」
既に上役などからも聞いたことを、さらに鈴を貶めるような棘をまぶして言われて、隆正の語気も荒くなる。鈴に直に会えば、その父親の表情を見れば、信二という男の
「第一……それならば
「あい。わちきもそのように存じいす」
「ならばなぜ……!」
整然と反論したつもりがあっさりと頷かれて、思わず声を上げてしまう。脇に控える
「それに、娘の申すのが
「面白い……?」
「あい。男が女を騙して逃げるも、女が男を恋して狂うも、
(この女は……!)
自身ひとりの愉しみのみならず、鈴のことを酒席の――もっと悪ければ、閨での余興にしようというのだ。不快と怒りに一瞬
「謀、だと? 話を聞いただけで何か分かったのか」
「確かなことは何とも」
「おい……!」
「ゆえに、
薄雲の言は、事実ではある。女に言われるがままに使い走りを務める屈辱に目を瞑りさえすれば。しかし、隆正が反駁する気配を封じるように、薄雲は居住まいを正した。美しいが掴みどころのない笑顔から、真摯な、そしてどこか案ずるようなものへと表情も改まる。
「幾つか気に懸かることがございんす。さて、
そうして、薄雲は畳に手をついてす、と頭を垂れた。その所作の美しく隙がないこと、それもまた、隆正から反論の言葉を封じるのだった。
* * *
隆正に幾つかのことを
(一体、どういうことだったのだ……?)
薄雲に言い含められたことのひとつひとつは、さほど難しくもないことだった。だが、この女の頭の中で何が織り上げられているのかが分からない。しかも、薄雲は彼に全てを語るつもりはないようなのだ。薄雲は、今は隆正に横顔を見せ、控えていた振袖新造を見下ろしている。
「わちきは馴染みの旦那に挨拶せねばなりいせん。
「あい、花魁」
朧という名らしい振袖新造は、隆正を別の部屋に案内した。花魁の座敷とは異なる簡素な部屋に、布団が一組。吉原が、遊郭が
「あー……」
「名代の振袖新造に手を付けるは、廓のご法度。不埒な真似に及びなさんせば、人を呼びいす」
まさか、と思って言い澱んでいると、朧はつんと顎を反らして言い放った。木で鼻を括る、という形容が相応しい冷たい物言い――だが、隆正にとっては救いに等しかった。少なくとも、年端もいかない娘に手を出すことが作法とされるほど、ここは
「無論、そのような真似はせぬ。遅い時間なのだから、そなたは寝なさい」
「わちきは
子供はもう寝る時間だ、と。ごく真っ当なことを勧めたつもりだったのに、朧はふいと顔を背けてしまった。軽く唇を尖らせた横顔には、年相応の幼さも見える――が、横目で彼を睨む目が、妙に刺々しいように思えてならない。
「常ならば花魁に代わって客人の無聊を慰めるところでありいすが、主さんとは口を利きたくありんせん」
そっぽを向いたまま、半ば独り言のように呟かれるのは隆正としても心外なこと。子供相手に、と思いつつ、つい膝を詰めてしまうほどに。
「なぜだ。
直截に問えば、朧はじっとりとした流し目をくれてきた。不満げに尖った唇に力が篭り、やがて渋々ながら、といった様子で開かれる。
「……
「身揚げ、とは?」
「客人と会うのに女郎が揚げ代を持つことでありんす!」
隆正の問いはさぞ間が抜けて聞こえたのだろう、朧はきっと
「掛かりは女郎の借金になるゆえ、年季明けは遠のくばかり。想うた
言い切ると、朧は首が痛むのではないかという勢いでまた横を向いてしまった。歳に似合わぬ激しい剣幕もさることながら、教えられた身揚げの仕組みも隆正を大いに狼狽えさせた。はっきりとした相場は知らずとも、花魁の揚げ代が目玉の飛び出るようなものだとはさすがに分かる。
「そのような仕組みとは知らなかった――そんな、つもりでもなかったのだ。いや、まず――薄雲花魁はどうしてそのようなことを? ただの物見高さでそのようなことはすまいな?」
隆正の胸に、恐れにも似た思いが湧いていた。座敷の話の種にしたいというだけにしては、花魁が自ら揚げ代を持つのは割に合わない。何か、あの女に深い事情や考えがあるのだとしたら。物珍しさで鈴や信二を侮ったと憤ったのは、的外れな考えだったことになってしまう。ならば――隆正は、あの花魁をひどく見誤っていたのかもしれない。
「
「そのような訳にはいかぬ……!」
「疾く寝なんせ!」
朧は完全に臍を曲げてしまったらしく、隆正の顔を見ようともしない。少女の心を解そうと必死に言葉を探しながら、隆正は胸の裡に抱える謎が増えてしまったのに気付いていた。鈴の想い、信二の行方に加えて、薄雲花魁とは一体どのような女なのか、という謎が。
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