第17話 自分のことを○○だと思い込んでる○○ 下

 ――沈黙が室内を支配する。必死で目をつぶって声を絞り出してから数秒、何の返事も聞こえてこないので恐る恐る顔を上げると、

「……………………」

 目を見開いて口をパクパクとさせ続ける伊吹君がそこにはいた。

 ――やはり。やはりそうなのだ。これだけ面と向かってはっきりと言われても、彼は、この事実を理解することが出来ないのだ。

「もう一度言うぞ、伊吹君。君は……無能なんだ。仕事をしていく上で、生きていく上で、絶望的に能力がない。君はな、自分が合理的に実利を追及し過ぎるあまり周りから恐れられていると思い込んでいるが、実際は単純に能力が低いから周りから煙たがられているだけなんだ……。いや、無能なだけなら何の問題もない。問題なのは君が自分のことを優秀だと勘違いしているせいで、能力が著しく低い癖に、必要とされていない場面で出しゃばって他人の足を引っ張っていることなんだ……そう、君が一番嫌いな人間の姿だ」

「は……は、はぁ? 何を言ってるんですか? ついに気が触れましたか、先生。確かに僕はリアリストが故に人を切り捨ててしまうことも多いですけど、他人の足なんていつ引っ張ったって言うんですか? そんなに言うんなら具体例をあげてみてくださいよ」

 胸が痛い。苦しい。顔を紅潮、目を充血させて、それでもサバサバ感を演じようと必死な伊吹君を見るのが辛い。きっと心の中では斜に構えたような悪態をついたりして、平静を保とうとしているのだろう。

 やっぱりもうやめておこうか。今ならまだ引き返せる。自分の感情をコントロールすることが出来ない伊吹君がシニカルクール男子を演じられている内なら、まだ最悪には至らない。

 でも、ダメだ。それでは誰のためにもならない。このままでは私も君も潰れてしまう。だから私はもう止まらない。

「だからそんなもの、先程の業者キャンセルの件でもそうだろう。君は早く取り掛かるべき仕事には一向に取り掛からず、今やるべきではない仕事に限って何故か早々とやってしまうのだ。やるべきことはやらない癖に、やらなくていいことには張り切ってしまうのだ。仕事に優先順位をつけることすらままならない、それが君だ」

「それはたまたまその一件がそうだっただけでしょう。僕が前もって業者を呼んでおいたおかげで仕事を早く切り上げられたことだってあるんですよ? まぁ僕はその程度の成果をわざわざアピールするようなことはしませんから先生は気づかなかったのかもしれませんけどね」

 業者のキャンセルだけでも一件どころじゃないのはさっき示したばかりなのだが……まぁ、それは置いておくとして。

 確かに伊吹君の言うようなこともあったのかもしれない。あったのだろう。

 しかしそもそもの話、私は除霊仕事を早く切り上げたいなどと希望したことがないのだ。

 むしろ、除霊を避けるためならどんなに時間を割くことも厭わないし、安楽除霊のためならどんなに仕事が長引いても構わないと考えている。

 それは君も知っていることではないか。私は何度もそう伝えているのだから。

 君が早く帰りたいと言うのであれば帰ればいい。むしろ帰ってほしい。いや、そもそもついてこないでほしい。

 私が君に除霊現場への帯同を頼んだことなど、一度たりともないであろう?

 それなのにいつも勝手についてくる。来るなと言っても「先生だけじゃ頼りないから」と顔を突っ込んでくる。それどころか私を騙して怪異の前に引っ張り出すことを自分の仕事だとでも思い込んでいる。

 現場に来てしまったからには私も君に給与を払わなければならないが……本来、君にも私にもそんな義務などないのだ。

 当たり前だ。だってここは法律事務所なのだから。

「確かに君のサポートに助けられたことも何度かあった。しかし私が除霊という仕事を望んでいないことは君も承知しているはずだろう。だからそもそもとして、除霊の案件を取ってこないでくれ……。勝手にネット上で宣伝しないでくれ……。私は弁護士で、君は法律事務所のスタッフなのだから……」

 伊吹君が私の霊能力を口コミで広めていることは把握している。これもはっきりと注意出来なくなってしまっていた私が悪い。実際に依頼人が来るようになる程の効果があるとは思えず放置してしまったのも痛手だった。

 まさか、除霊中の私の画像や動画が拡散されているとは思わなかったのだ。伊吹君が隠し撮りしていたのだろう。ちなみに、私の詳細なプロフィールまで宣伝に使われていた。君はどうやって私の体重や体脂肪率まで調べ上げたのだ。何故求められた仕事はしないのに、やってはいけないことは自ら積極的にやり遂げてしまうのだ。

「はぁ……またその話ですか。あのですね、先生。いい加減現実を見てくださいよ。お金を稼がなきゃ生きていけないんです。いくらあなたが弁護士の資格を持って人権派弁護士を名乗っていたからといって、実際には弁護士としての仕事なんてないんだから仕方ないじゃ――」

「君のせいだろう!!」

「何ですか、急に。無能の自覚がない人ほど人の話を遮るんですよね。はぁ……僕は事実を述べているだけなんですから感情的にならずに冷静に対話しましょうよ」

 伊吹君が鼻息を荒らげながら涙目で言う。それでも――捻じ曲がったプライドを守るためとはいえ――そうやって耐えてくれていることからも、伊吹君の人間性が落ち切っているわけではないことが分かる。まぁ表情に出まくるからその感情は全てありありと伝わってきてしまうのだが。

 君は少し素直過ぎるだけなのだ。だから自分の性格を蔑む必要なんてない。利己的な部分なんて誰しもが持っている。

 君は決して悪い人間なんかじゃない。ただ頭が悪いだけなのだ。

 むしろ私の方が性格が腐り切っている。君と違って、こうやって自分を守るために大声を出してしまった。君が不機嫌でいることが、泣きそうになっていることが、耐えられないのだ。怖いのだ。逃げ出してしまいたいのだ。

 君が堪えてくれている内に、爆発する前に、何とか全てを終わらせなくてはならない。

「あのな、伊吹君。君が来るまではこの事務所にも弁護士の仕事はあったのだよ……」

 確かに自分の能力で獲った仕事だと胸を張って言えるようなものではない。アソシエイト時代からの付き合いで依頼を恵んでもらっていただけだ。

 それでも独立開業してから一年間は、案件を着実にこなしていた。前の事務所のおこぼれを拾っていただけと言われてしまえば何の反論も出来ないが、労働問題をメインに取り扱う事務所として一番大事なのが組合の方々からの信用である以上、コネというのは手放すことの出来ない大きな武器なのだ。

 そんな武器が、信用が、伊吹君のせいで全て吹き飛んだ。

「それが今では詐欺師扱いだ……法律事務所を隠れ蓑に霊感商法なんてものをしていれば当然だよ。前の事務所のボス弁や仲間からも、お世話になっていた組合からも、完全に見放されてしまったよ……」

「別に隠れ蓑になんてしてませんけどね。僕は堂々と宣伝してます」

「受け取る側はそう取っていないではないか。実際に今までの依頼人も皆……」

「だいたい除霊を仕事にしてるだけで詐欺師扱いなんて職業差別じゃないですか。弁護士というのはレイシストばかりの職業なんですね」

「除霊を仕事にしているからというだけではなく、お金の取り方も問題視されているのだよ……契約内容が雑過ぎるし価格設定が高過ぎるのだ。君があんなに強硬に任せてくれと言うから除霊関連の運営は一任していたのだぞ。私は遺伝でこういった能力を持っているだけで知識なんて持っていないし、そもそも除霊なんてやりたくないし……」

 宣伝に関しては任せてすらいないが。

「私が案件ごとに適正料金を調べて、貰い過ぎた分は依頼人に返金していることを君には伝えていなかったな……」

「な……っ! ふ、ふざけないでください! そんなんだからうちの経営状態がこんなことになってるんでしょう! 何でそうあなたは現実を見られないんですか……! 僕のお金が……! 焼肉代が……!」

 これには伊吹君も顔だけでなく言葉にも驚きを表してしまったようだ。相当ショックだったのだろう。

 しかし本当のところそのショックは、金銭的な損失から生じたものではない。そうやって誤魔化しているだけなのだろう。

 実際はただただ自分の会心の仕事を否定されたことで、プライドに傷をつけられてしまったが故のものなのだ。

 そんな伊吹君の急所を知っているからこそ、私も今までなかなか指摘することが出来なかった。

 でも今回は違う。もう後戻りは出来ない。

「しかも君は完全成功報酬を謳っておきながら、中途半端な結果でも料金を発生させようと目論んだり、クリーニング代などの経費を依頼人に請求したりするではないか。それは明らかな契約違反だろう」

 SNSや匿名掲示板での宣伝を信じて来てしまった顧客なだけあってリテラシーが低いのか、こちらの違法行為を指摘してくる人は少なかったが……そんな情報弱者につけ込んだ商法が、さらに我々の詐欺色を濃くしてしまっている。

「除霊の仕事なんてものを募らなければ、うちは法律事務所として最低限はやっていけていた。私が弁護士として食べていくことにも、必要なだけの職員を雇うことにも、困難はなかった」

「…………だから何ですか? はぁ……今あなた自身が仰ったじゃないですか。弁護士一本でやったとしても最低限の収入しか得られないわけですよね。先生の弁護士としての能力が最低限しかないから。それに対して先生の残虐除霊の能力は最強なんですよ。二足の草鞋なんて履いてるから悪いんです。あなたが専業除霊師として僕のプロデュース通りに動いてくれさえすれば大金を稼げることは間違いありません。そのお金をあなたの大好きなポリコレNPOか何かに寄付でもすれば、低能人権派弁護士がちまちまと労働問題扱うよりもよっぽど社会のためになるんじゃないですか? わかりますか、そういうところなんですよ。別に『出来ない』ことが悪いんじゃないんです。それは無能ではありません。自分に何が向いていて何が向いていないかを区別できないことが悪いんです。それこそが真の無能なんです」

「確かにそうかもしれんな」

「何も先生を貶しているわけじゃないんですよ。僕だって学歴もなければ知識も持っていません。でも自分が出来ることと出来ないことを完璧に理解しています。情に流されやすいあなたの裏方として、僕は常に冷酷なほどに合理的な判断を下せるでしょう。先生は僕を信用してくれるだけでいいんです。安心してください、僕が悪者になりますから。鬼畜・外道・下衆・サイコパス――どんな罵倒も言われ慣れています。それで金を稼げるなら何も気にしません」

「確かに、確かにその意見は合理的だ。除霊師一本でやっていれば大金を稼げる――その前提が正しければな」

「は?」

「私の除霊能力で大金を稼ぐことなど不可能だ」

「はぁ? 本当にあなたって人は……。あなたはどんな怪異でもワンパンで地獄の苦しみを与えてぶっ殺すことができるんですよ? そんな能力を持ってなぜ……」

「除霊の仕事なんて大してないから――それだけだ」

「だから……っ! それはここを完全に除霊事務所にすれば解決ですから。『米の代わりにチキンビリヤニ詰められたせいで自分のことをインド人(ネパール人)だと思い込んでるひとりかくれんぼのぬいぐるみ』なんてあなた以外の霊能力者に祓えたと思いますか? 言ってるでしょう、思い込んでる系の怪異案件は全てここに入ってくるはずなんです」

「ああ。だから君が言うその案件の内、ほぼ全てが既にうちに舞い込み済みなのだよ」

「は……?」

「大きな看板を掲げようが大きな宣伝費を投入しようが、知名度が上がるだけで、仕事が劇的に増えることはあり得ないというわけだ。君がとっくに私の除霊画像や除霊動画をネット上にばら撒き済みなのだから。インパクトは充分だよな。『思い込んでる系怪異』に悩まされて除霊依頼を考えているような人なら既に大半が私の情報にアクセス出来ているはずだ。そんな情報なんて信用しない――ある意味賢明な人であれば、そもそも除霊師に依頼なんてしない。怪異の存在など信じない。人間の仕業だと思い込んで、警察か法律事務所に駆け込むはずだ。よってもう『黒沼千夜除霊事務所』の潜在顧客はほぼ残されていないと考えた方がいいだろう。我々は新たな思い込んでる系怪異が出現するのを常に待っていなければならないことになる。と言ってもあんな意味不明な怪異がそう頻繁に出てくるわけがないだろう。現にこれまでずっとそうだったのだから。日本中の奴らを集めても週一度あるかないかのペースだったのだから。こんなビジネスに伸びしろは望めないのだよ。競争相手がいないというメリットがあるように見えるが、そもそも需要自体がそれ程ないのだ」

「…………い、いや人の話をちゃんと聞いてください。僕は何も思い込んでる系怪異だけを相手にしろとは言っていません。今までは思い込んでる系専門の宣伝しかしてきませんでしたが、弁護士を辞めて手が空くとなれば、普通の幽霊の除霊にだって手を回せるじゃないですか。もちろんそれに関しては他の除霊師や坊主との価格競争が必要です。でも先生の場合、単価を大幅に下げても時間も体力も削らず仕事を完了できるわけですから数をこなせます」

「焼け石に水だな。通常の幽霊に手を広げてしまえば、私が一般幽霊相手でさえ残虐除霊しか出来ないこともすぐに知れ渡ってしまうだろう。というより、おそらく既にそのような情報も漏れ出しているのではないか? 今までの顧客は私と伊吹君のやり取りも目にしているわけだしな。とにかく除霊方法を知れば、ほとんどの人間は私に頼みたいとは思わないだろう。幽霊だって元は人間なのだぞ。身内や知り合いだった可能性も高い。実際に霊の存在を認知した人達なら尚更それを実感しているだろう。その上で敢えてあんな目に遭わせたいと考えるものかい? 他にいくらでも選択肢があるにも関わらずな」

「僕は考えますけど」

「そうか。しかしさらに言えばな。通常の幽霊だって、思い込んでる系怪異と同様に、そもそもそれ程多く存在するものではない。ほとんどが人間側の勘違いだ。思い込みだ。巷に溢れる詐欺師まがいの除霊師であれば、本当は存在しない幽霊を除霊したように見せかけることも可能なのかもしれない。あいつらはそうやって稼いでいるのだろう。しかし私にはそれが出来ない。実際に存在する霊であれば殴ることが出来るが、ただの妄想を取り消す術など持ち合わせていないのだよ。カウンセラーを紹介することなら可能だが……それではうちにお金は入らないな」

「…………っ」

 そもそも私はいくら稼ぎが見込めようとも、除霊ビジネスなんて絶対にする気はない。当たり前だ。私が特別、怪異の福祉を重視しているから――というわけではない。どんなに害がある存在だとしても無意味に大きな苦しみを与えたくないと考えるのは誰だって同じだ。

 そしてそれ以上に――単純に怖いから。普通に怖いから、怪異の相手なんてしたくない。幽霊の前になんて行きたくない。

 ライオンを一撃で仕留められる銃を持っているからといって、ライオンのいる檻の中に放り込まれても問題ないと言える人がいるだろうか。私は日々そんな状況に身を晒されているのだ。

 むしろ、何の武器も持っていない癖に猛獣のことを全く恐れない人間の方がおかしいのではないだろうか。一番怖い存在ではないだろうか。そんな奴を隣で守らなければならないことが、何よりも大きな危険ではないだろうか。

 あのヤバ過ぎる怪異達に全く怯えることなく突っかかっていける君はおかしいのだ。平然としているのはおかしいのだ。しかも君の場合、死を恐れていないというわけではなく、単に自分が殺されるわけがないと思い込んでいるだけなのだから。

 それはサイコパスではない。ただただ現状把握能力が、自分と相手の実力差を正しく認識する能力が、著しく欠けているだけなのだ。

 あの日も――最初に出会った時もそうだった。

 君は『自分のことをマナー講師だと思い込んでるこっくりさん』に、それっぽいだけで何の意味もないこっくりさんルールと、それっぽいだけで何の意味もない理不尽マナーを押し付けられたことでムキになり、「十円玉の十は割り切れる数字、円は縁と同じ音。よって十円玉は縁が割り切れる=離縁を連想させる。そんな十円玉を友人達と囲うことを強要してくるとはマナー違反だ」と反論し、マナー講師こっくりさんをブチ切れさせていたよな。

 旧態依然の「女性らしさ」を大和撫子として称賛するタイプのマナー講師だったから私がついついぶん殴って虐殺してしまったけれど……もし私が偶然あの場に居合わせていなければ、君はこっくりさんに呪われていたのだぞ? そもそもインド料理屋でこっくりさんと口論をするな。定員さん達が日本を恐れてネパールに帰ってしまったではないか。後日また別のネパール人店主のお店が入ったけれど。

 まぁその後、君の押しに負けて――それ以上に君の顔面に恋をして――君を雇ってしまった私が一番の無能ではあったのだが。

 だからこそ私達は一緒にやっていくべきではないのだ。強力な武器を持っただけの無能と、プライドだけが高く怖いもの知らずな無能。絶対に手を組んではいけない二人だ。最悪の化学反応を起こしかねない。

「……違う……っ、違う……っ、僕は違う……っ、無能が僕に指図するな……っ、現実を……っ、現実……っ、現実が……っ」

 大きな目を虚ろにし、サラサラの黒髪を掻きむしりながら、伊吹君がぶつぶつと呪詛のように呟いている。

 すまない。端から除霊ビジネスなんてする気がないのだから、こんな議論は無意味であったよな。

 私はただただ、君の主張がずっとずっと穴だらけであったこと、君に示したかっただけなのだ。

 性格が悪いだろう? 傷付いたよな。だから今までずっと指摘出来なかったのだ。いや、違うな。ここに至ってまで善人ぶるとはどこまで愚かなのだ、私は……。

 私はただ、君のなんちゃってシニシズムに限界が来た時、君が内に秘めている(つもりの)怒りが私に向けられるのを恐れていただけだ。

 怖いのだ。君の不機嫌っぷりが漏れ出しているだけでも息が詰まりそうになるのに、それが爆発してしまった時にどうなるのか。君に後先を考える能力があるのか、不安で仕方がないのだ。

 しかしもう後戻りはしないと決めた。今は出来るだけ迅速に事を進めるのが最善の策なのだ。というか私の方がこの空間に耐え続けられない。

「現実を見るべきなのは君だ、伊吹君。私は自分に能力がないことを自覚している。独立して思い知った。このままでは君はいつまでたっても成長出来ない。君のためでもあるんだ。認めてしまおう」

「ちが……っ、ち、が……っ」

 私が詰め寄っていくと、伊吹君は耳をふさぐように頭を抱えてうずくまっていってしまう。

 ああ、そうか。そうだったのだな。

「君は口先だけは上手いし、妙に機転が利く時もあるからな。無能の自覚さえすればきっと一人前の社会人に成長していけるさ」

「ちがう……っ、やめろ……っ」

 君もこんな気持ちだったのだな。自分が無能だから、無能の自覚がない奴にこんなに腹が立ってしまうのだ。追い詰めたくなってしまうのだ。目の前から消え去ってほしくて堪らないのだ。

「それに何より、顔がとてつもなく良いからな。今までもいくら無能で周りの足を引っ張ってもそのルックスで許してもらってきただろう? 自分の実力を把握して謙虚になることが出来ればさらにモテるし、出しゃばらずに地味で単純な作業をこなしているだけでも過大評価してもらえるようになるはずだぞ」

 伊吹君の開き切った瞳孔に映っているのは、虐殺を楽しむ残虐除霊師の笑顔で。

「僕は、無能じゃない……っ、顔が悪くて学歴がないから評価されてないだけで……っ、僕は……」

「無能なんだよッ!! 無能無能無能無能無能っ、無能ッ!! 何で清掃業者はすぐ呼びたがるのにインターホンの修理はなかなか頼まないのだ! 君が自分から任せてくれと言い出したのだろう! そもそも壊したのも君なのに客から指摘されるまで知らんぷりしていたよな! 金金うるさい癖に依頼を取り逃がすような真似を何故するのだ!? 新人がすぐに辞めるのも君のせいだからな! 知ったかぶって間違ったことばかり教えるから! 誰でも知っているようなことを自慢げに教えたがるから! 君でも知っていそうなことがあればわざと知らないフリをして説明させてあげるような都合の良い女なんて私ぐらいしかいないんだよ! その癖、君は知らないことがあっても自分で調べようとしないよな! ポリコレ用語なんて十秒あれば調べられるだろうがッ! 客に対して『知らんけど』を連発するな! だいたい何で運転免許も持っていないのだよッ! 履歴書に持っていると書いてあるではないか! いや、自分の利益のために嘘をつくのなら分かる! しかしうちの採用に免許の有無は関係ないと言ったではないか! 初めから運転を任せられないと分かっていれば何てことはないが、任せられると思っていたのにいつも私が運転しなくてはならないからイライラさせられるのだよ! そういうところなのだよ、無能というのは! 悪事を働くのが悪いという話ではなく、悪事を働く必要のないところで無意味に悪事を働くから無能なのだよ! 当たり前のように昼過ぎに出勤してくる癖に無意味な残業したがりやがって! 金の話でもそうだ! 金に貪欲なのは構わない! 金のためなら手段を選ばないというのも生き方の一つではある! しかしその金儲けの話を依頼人の前でしてしまうことに何の意味がある!? 私の除霊能力で稼ぎたがっているのは君だろう!? 何故いつも私が君のフォローをするために顧客に謝罪の連絡を入れなくてはならないのだ! それと君はSNSや匿名掲示板で拾った情報を鵜呑みにし過ぎだ! 自分で誇大広告を垂れ流すだけに飽き足らず、自らもフェイクに騙されてどうする! たまたま正しい情報に当たることもあるが、君が自信満々で持ってくるのは大抵がガセネタだからな! 結局いつも私が情報を精査することになっているだろう! 君が気まぐれでやる気を出した仕事は全て私のダブルチェックが必要になるんだよ! いない方が捗るのだ! 仕事だけでなく料理や掃除も気まぐれでし始めることがあるが、全部質が最悪で私がやり直しているではないか! だからいくら顔が良くても君とは結婚も出来ない! メリーさんから奪った包丁を日常使いするな! あとシンプルにコーヒーがまずい! いいかい、君はな……自分のことを冷笑系リアリストだと思い込んでる無能ナルシストなんだよ! 非合法なことにも手を出すけどしっかり利益は出すアウトローだと思い込んでる無駄に非合法なことして周りを巻き込んだあげく損失を出すバカなんだよ! 君とこれ以上一緒にいれば事務所の経営も私のキャリアも私の精神もおしまいだ! 顔が良いからこれまで我慢してきたがもう限界だ限界限界限界!! 伊吹伊吹君、君にはこの事務所を辞めてもらう! クビだ!!」

 勢いに任せて全てを一気に言い放った。やっと伝えられた。伊吹君を解雇出来るという事実よりも何よりも、溜まりに溜まった鬱憤を吐き出せたことに気持ちがスッキリとした。ちなみに伊吹君はバレバレの少額横領を繰り返してパチンコに突っ込んでいるので簡単に解雇可能だ。

「……………………」

「そういうことだ、伊吹君。はぁ、はぁ……はぁー……疲れた……まぁセックスフレンドとしてだったら付き合いを続けてやっても構わんぞ。むしろお願いします」

 何かもう爽快感と高揚感と多幸感に包まれて全てをさらけ出してしまいたい気分だ。私は今まで相当な重荷を背負っていたんだな。

 ソファで項垂れ、プルプルと震えることしか出来ない伊吹君を前にしても、一つの罪悪感も覚えない。やってしまえばこんなものだったのだな。何を恐れていたのだろう。さっさとこうしてしまえば良かったのだ。

 そうだ、だから君も早く楽になるべきだ。本当の自分を見つめて、無駄なプライドなんてかなぐり捨てて、本当の自分で生きていくべきだ。それさえ出来れば君は、そう悪い人間じゃないのだから。むしろ私は結構好きだぞ、顔を抜きにしてもな。

「…………ふっ……ふふふふ……ふっ――――あははははははっ! 先生……っ、あなたって人は本当に……っ! ふっ、あははははははっ!」

「え……ど、どうしたんだい、伊吹君……大丈夫かい……?」

 伊吹君が急にお腹を抱えて大笑いし始めた。え……何だ……? もしかしてあまりのショックでおかしくなってしまったのか……?

「あははははははっ! あはっ、あははははっ! ――はぁーー……いやぁ、先生って本当に頭が悪いですね。それほどの霊能力を持ちながら、今の今まで全く気づいていなかったとは。まさに宝の持ち腐れですよ。除霊能力以外は本物の無能だ」

「は……? な、何を……」

 伊吹君は顔を上げ涙を拭いながら、不自然な程に満面の笑みとわざとらしい程に愉快そうな声音で、

「僕がこの世に生きている人間だと思い込んでたんですね。僕はあなたが来る前からずっとこの部屋に住み着いてる座敷童子なんですよ。ま、童子って呼ぶには微妙な年齢ですけど、でも一応児童ポルノ法上では児童に当たりますからね。死んでるんで法律適用されないですけど」

「え……ま、まさか……」

 そんなはずは……私に怪異と人間の区別がつかないことなど…………い、いや、ないとは言い切れない。私は親から受け継いだだけのこの能力について研究したことなどないのだから。むしろこんな力には辟易としていて、出来る限り自分の生活から遠ざけていたくらいだ。経験上知り得たことしか知らないのだ。だから怪異は怪異だと、死んでいる存在は死んでいる存在だと、絶対に見分けられると勝手に思い込んでいただけなのかもしれない。そうだ、だって、見分けられなかった時は見分けられなかったと自分では気付けないのだから。相手から教えてもらわない限りは。

「はぁ……本当に間抜けですね、先生は。ヒントはたくさん転がっていたでしょう。実際鈴木さんなんかは何となく違和感覚えてる感じありましたよ。だって僕みたいなのが生きてる人間なわけないでしょう?」

「…………っ」

 いやっ、でも……っ! やはりにわかには信じがたい……っ! しかし伊吹君にそんな嘘をつく理由がないし……。

「ふふふっ、相当混乱してるみたいですね。まぁ座敷童子は悪戯好きな存在ですから。こうやってからかったりするんですよ。今まで僕があなたにしてきたことも、敢えてです。座敷童子として、わざと無能な人間のフリをしてあなたを試してたんです。あんな無能な人間がいるわけないじゃないですか。なかなか気づいてくれないからどんどん悪戯がエスカレートしちゃいましたよ」

 あ、え……? 嘘だろ? まさか……

「でもね、座敷童子ですから。宿主に失礼なことされると出て行かなくちゃいけないんですよね。何もされなければそのうちちゃんと本当の有能な姿を見せて幸せをもたらしてあげてたのに。残念です」

 まさか伊吹君……自分のことを幽霊だと思い込むことによって現実逃避を図ったのか……? 妄想に逃げ込んで、自分が無能だという現実から目を背けているのか……?

「ま、待て、伊吹君。私が悪かった。一旦落ち着――ぅ――」

 一瞬の出来事だった。何の迷いも感じさせない動きだった。

「落ち着いてますよ。てか僕感情的になったりしないんで。これも本当はやりたくないんですけど、出ていくときには不幸をもたらすのが座敷童子のルールなんで。でも何も問題ないですよね。先生は最強除霊師なんだから今すぐ僕を殴って除霊しちゃえばいいだけです」

「――ぁ――か――やめ――――」

 伊吹君の白くて細長い十指が、私の首を徐々に徐々に締め付けてくる。

「ね? ほら、殴ればいいじゃないですか。いや殴る必要もないですよね。指先でピンと弾くだけで僕は地獄の苦しみの中消えていきます。大丈夫ですよ、僕この世に未練なんてないですから。どっちにしてもこの後死ぬつもりなんです。ね、だから、ほら。それにこうやって先生は首を絞められて殺される寸前っていう確かな実害も受けてるわけですし。緊急避難ですよ。ポリコレ適用外です」

「――ぁぅ――ぁ――」

 ああ、ダメだ。体が動かない。身の危険を感じた時って本当に凍り付いてしまうのだな。だから言ったであろう、ツイッターの男共よ、警察よ。女性が抵抗しなかったからと言って、それは性的同意にはならないのだ。お前らが主張していることはレイプ擁護以外の何物でもないのだよ。

 でも、それでも、私は何とかして指一本でも動かさなければならない。奇跡にかけて。伊吹君が座敷童子だという可能性にかけて。伊吹君の言う通り、こうなったからには安楽除霊なんて主張している場合ではない。さすがに大きな罪悪感はあるし、もし伊吹君を葬ってしまえばもう自分も二度と正義なんて語れないようになってしまうだろうが。

「――――ぅぅ――っ」

「ほらほら、早くしないと最強除霊師のくせに座敷童子なんかに殺されちゃいますよ。あ、そうだ。実は僕って伝統的な存在なだけあって、かなり男尊女卑なところあるんですよね。女は男を喜ばせるだけの家畜であるべきだと考えています。ね? こんな思想を持ってる社会の癌の権利なんて考えてる場合じゃないでしょう? ね、だから、ほらほら。ほらほらほらほらほらほら、早く早く早く」

「――――っ」

 怒りで力が込み上げてきた。伊吹君の言葉が許せなくて、自然と拳を握り込めた。腕が持ち上がった。きっと伊吹君は心にもないことを言ってくれたのだろう。私のために。何でこんなことをしているのかは分からないが、とにかく私を殺すつもりではないのだろう。何とかして私に殴らせようとしてくれているのだ。

 本当の本当に、こんなことはしたくないが……でも仕方ないのだ。これしかないのだ。だって私は無能弁護士なのだから。

「ぅぅ――すま――な――い……っ」

 視界が徐々に狭まっていく中、私は精一杯の力で拳を突き出し――伊吹君の腹を叩き込んだ。

「…………」

 ああ、そうか。そうだよな。当たり前だ。

 そう、しょせんはただの身長百六十センチ・体重五十五キロ・体脂肪率二十五パーセント、好きな食べ物エクアドル産カカオのフェアトレードチョコレートの、二十八歳一般女性の殴打に過ぎないのだ。

 二十八歳一般成人男性の体に、ダメージを与えられるわけがない。

「ぷ。バーカ。死ねよ無能。安心してください。すぐに東西線飛び込んでそっち行くんで」

 バカで無能は君だ。死ぬにしても東西線飛び込みなんて一番周りに迷惑をかけるだろう。君の美しい顔も台無しになってしまうしな。そしてお互い死んだからといって何らかの形で死後に会える保証などどこにもない。

 あーあ、でも確かにあの世って無いと困るんだな、今まで無宗教を貫いてきてしまったけれど。でも古今東西に伝わるあらゆる死後の世界って基本どれも男尊女卑なん

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「自分のことを人権派弁護士だと思い込んでる最強除霊師」が「自分のことをマナー講師だと思い込んでるこっくりさん」とかをできるだけ苦しめずにポリコレ安楽除霊しようと頑張るけど結局ワンパン残虐除霊しちゃう話 アーブ・ナイガン(訳 能見杉太) @naigan

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