β やさしくない朝
この靴に彼女が固執する理由は、なんとなく分かる。内偵で彼女の心が崩壊し、その後任として俺が選ばれて。
なんとか引き継ぎができないかと探し当てた彼女は。濡れていた。あれは、朝の四時だったか。街角で見つけた彼女は、虚ろだった。中身がなかった。
いま、彼女は目の前にいる。ちゃんと存在している。あの日俺が履いていたという理由だけで、捨てるはずの俺の靴にしがみついている。
「じゃあ、いいよ。捨てない」
彼女の顔が明るくなる。
「その代わり、貸して。洗うから」
「えっ洗うの」
彼女。ちょっとだけ靴に顔を寄せて。
「ざんねんです」
「おい。香りを確認するな」
靴を奪う。
「あああ」
まだ、内偵は続いている。自分の心も、どうせいつか壊れる。そんな漠然とした投げやりな感情が、たしかに存在する。
「ね。洗ったら返して。ね」
「わかってるよ」
雑に靴にシャワーをぶち当てる。その音に紛れて、彼女が、喋っている。
「わたしが。今度はわたしが。その靴を履いて、あなたを迎えにいくから。あなたが帰ってこれるように。今度は。わたしが」
シャワーに声を隠したつもりだろうけど、聞こえてしまっている。
「はあ」
ぼろぼろの靴よりも、探しやすい靴でいいのに。そう思っても、自然と、顔が綻ぶ。彼女がいるかぎり、俺は、こわれても大丈夫。何度やさしくない朝が来ても。ふたりでお互いに見つけ合えば、また戻ってこれる。
やさしくない朝、雨を越える爪先 春嵐 @aiot3110
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます