牛飼いの涙

――昼間は休み時間だって、知ってた?


 そんな文字が浮かぶ手元の端末を見て、ミカは顔をしかめた。

「…だからこうして話をしに来たんでしょ」


 凍えそうな冬の曇り空の下だった。傘の向こうに見えるレベッカは、ショートパンツにタンクトップ一枚という格好で地面に腰を下ろし、雨に濡れていた。

 背後には、全身が金属のような灰黒色に変色した牛が巨体を横たえて悠々と眠っている。

「マーチが死んだよ」


 その言葉にもレベッカはちらりと目を上げただけだった。

 目線は直ぐにまた手元の電子ペーパーへ戻る。ヘミングウェイらしかった。


――それが。

「…あんたの戦友じゃないの?」

――関係ないよ。私とは担当した戦場が違う。

「マーチの同期で、戦友だったんでしょ」


 それきり、ミカの手元の端末には何も表示されなかった。

 有刺鉄線の向こうでレベッカは相変わらず牛に背をもたせて両足を投げ出して座り、身体を濡らす冷たい雨に気を止めることなく電子ペーパーの頁をめくっていた。


 やり方を変える事にした。


「今どき有刺鉄線?」

 その言葉に、初めてレベッカは顔を上げた。

 まるで今初めて、有刺鉄線の向こうに立つミカの存在に気付いたかのような、わざとらしい動作。喉まで出かかった溜息を必死で呑み込む。代わりに言葉を吐き続ける事にした。

「電気牧柵じゃダメなの?」


 本当は知っていた。

 レベッカの背後で眠っている大きく黒い牛は、遺伝子操作によってメタロチオネイン発現量が大幅に跳ね上がった改造動物であること。


 兵器製造工場の跡、燃料プラントの跡、そして戦場の跡。高濃度重金属で汚染された大地を浄化するために投入された改造牛たちには、痛みに対する高度な耐性があった。高い電気代を払って高圧電流を流しているのでもなければ、電気牧柵などは何も感じぬままに踏みつぶしてしまう。

 だからわざわざ時代錯誤な…とびきり鋭利な棘をまとった有刺鉄線を使って、改造牛に痛みを感じさせて領域を教えること。


――この子達をバカにしているの?

「そうじゃないわ。あたしが馬鹿にしているのは、あんたよ」

――なるほど。もう少し聞かせて。

「幾ら痛みを浴びせられても気にならない、牛飼い女」

――そう見えるの、私は。


 レベッカは立ち上がる。電子ペーパーを折り畳むと、ポケットに押し込んだ。

 機械仕掛けの身体は美しかった。中国人とアメリカ人のハーフであるレベッカ・ロウ、その元々の肉体を忠実に再現して作られたボディは、0.5%の白金光触媒を含む白く滑らかな金属基複合材の皮膚で覆われている。タンクトップにショートパンツという…その肉体を余すところ見せつけるような服装と、長く伸ばしたままにした美しい金髪。

 そのどれもが、老いる事すら忘れた彼女に朽ちる事のない容姿を与えていた。


「牛みたいだよ、あんたが飼ってるそいつらと、あんたは何も変わらない」

――かなわないな。私はミカの泣き言を聞けばいいの?

「聞いてくれるの?」

――聞かせてよ。それでミカの気が楽になるのなら。


 レベッカは人形じみた無表情でミカを真っ直ぐに見据えていた。

 いや、全身が機械に置換されたレベッカの肉体は、最初から人形そのものでしかなかった。


「何であんたはずっと無表情なの?」

――どうしてそんな話になるの。


 初めてレベッカの眉がぴくりと動いたのを、ミカは見逃さなかった。一本取ってやったと思った。レベッカも気付いたらしい。そっぽを向いた。


――夜に来なよ。また。

「今日の晩でいいの?」

――いいよ。そういう話は夜に限る。


 そこまで端末に表示されると、レベッカはミカに背を向けて両腕を大きく広げた。

 雨の日は天から降り注ぐ水滴をその身いっぱいに浴びるのだという。フル・サイボーグという厳めしい言葉からはあまりにもかけ離れた、変わった女だった。


***


 暗視ゴーグルが無いと、何一つ見えなかった。灯りの一つもない郊外の浄化地域なのだ。

 美しい星空を背景に、レベッカの両眼が放つ黄色い光だけが空間に浮き上がっている。


――そのゴーグル、優れモノでしょ。

 視界の端、色調補正されて青白く浮かび上がる星空に文字が見えた。

「そうね…綺麗。星空が」

――それだけ分かってくれれば十分。

 ゴーグルに搭載されたAIが視野の中に映る全ての物体の表面色を測定し、見えるものすべての色合いを勝手に補正してくれる。しばらく後には、輝く天の川銀河を背景に有刺鉄線の巻かれた鉄杭を移動させる色白の女と、牛たちの姿がくっきり見えるようになった。


――この子達が地表面に残った重金属を舐めとって、代わりに鉱化ナノマシンを地面に散布してくれる。

「へぇ…」

 話には聞いていたが、ミカは改造動物を用いた浄化作業の現場を初めて見た。満天の星空の下で、黒々とした改造牛たちが一心不乱に地面を舐めている。


 間を縫うようにレベッカの身体が奔走しているのが見えた。

 有刺鉄線が巻かれた鉄杭を地面から引き抜くと、巻き取られた鉄線を引き延ばしながら別の場所へ抱えて走り、また突き立てる。

 数十回も繰り返すうちに、改造牛の群れは次なる浄化領域へ移動していた。たぶん、牛たちはいつの間にか移動させられている事にも気が付いていない。


――明けない夜はないなんて、嘘だよ。

 身長の二倍もあるような鉄杭の周囲を舞いながら、或いは鉄杭を軸に身体を器用に躍らせながら。

 夜空を背景に走るレベッカの姿は、まるでバレエ・ダンサーのようだと思った。

――私たちは何処までも闇の中を生きている。あたしは済南、マーチは威海でCRUの兵士を殺した日から。


「…その闇からは、逃れられないの?」

 恐る恐る言葉を投げかける。冷たい夜風が吹き抜け、レベッカまでもが星空の向こうに行ってしまうような気がした。


――逃れられない。けれども、

 レベッカは突き刺した鉄杭の一本に両手を掛けると、鉄杭を地面に押し込む勢いのまま跳び上がる。鉄杭のてっぺんを踏みつけると、更に高く夜空に跳んだ。

 目を瞑り、その一瞬に全てを捧げたかのような恍惚。美しい動きで星空に身を翻す。


――あたしはもう、痛みを忘れた。

 別の杭の上に両足をぴたりと下ろす。小さな杭の上で、舞い踊るようにくるくると回った。


――パパもママも、この世界にはもういない。護る事も、護られる事も、もう、ない。

 やっと少しだけ理解した、とミカは思った。レベッカもまた、変わらない。

 星空の中に浮かんで光を遮る黒い影こそが、彼女の本質なのだと思った。


――あたしはマーチと違って、闇の中に生きる事にしたの。

 レベッカはくるりと回ってミカの方を正確に見つめると、小さな杭の上で優雅にお辞儀して見せた。


「じゃあ…マーチは」

 ミカが言い切る前に、視界の端に文字が表示されてゆく。

――あの子は光の中に戻れると信じていたし、そうして戻っていっただけ。

 レベッカの両眼が、爛々と光を放ってミカを見つめていた。それはもう、人の眼ではなかった。戦争が人を変えてしまったんだと思った。


――追いかけてみれば?

「…どこに」

――ニューヨーク。何か有るんじゃないの?

「あんたは?」

――私はここで牛たちと過ごす。


 レベッカは鉄杭からひょいと飛び降り、牛たちの下へ駆け寄った。まだ小さな仔牛がレベッカの下へ駆け寄ってくると、嬉しそうに小さく鳴いた。

「よしよし、良い子ね」


 レベッカが喋る場面を初めて見た。それ以外にレベッカが声を発する事は無かった。

 外見に違わず、とても美しい声をしていた事が嫌に印象に残った。


***


 浄化地域での力仕事は、戦場を退いたサイボーグたちの数少ない働き口の一つだった。

 済南市でCRUの軍勢に取り囲まれ孤立したビルに236時間、たった一人で籠っていたレベッカは、大陸から帰ってきた時には既に酷く精神を病んでいた。


 幻覚症状の果てに自らの残り少ない生身の身体すらも引き裂いてしまった彼女は、緊急手術で全身サイボーグへと生まれ変わる事となった。

 脳以外の全てを失ったと気が付いた時、初めて彼女は涙を流せなくなった自分の身体に絶望したという。


 星空をその作り物の両眼に映して、きらきらと瞬く。

 その美しい顔立ちには涙の一つも流れなかったが、きっとレベッカは今も泣き続けているのだと思った。


――陽は、もう昇らない。

 そう視界の端に表示された時の、レベッカの顔がいつまでも記憶に残っていた。

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終端へ交わす 汎野 曜 @SummerShower

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