寄り添う、影

「どうして『あたし』を君一人だけが持っているのか、その意味を考えた事はあるのかしら」

 そう言われても、人間らしい感情の摩耗した僕の頭では何一つ答えらしいものを見つける事ができなかった。


「ああ…」

 しばらく考えてみるふりだけはした。

「ごめん…分からない」

 そう言うと、画面の中の彼女は薄気味悪い笑顔を浮かべた。


***


 高校二年生の都島雅がその身を軌道塔の屋上から投げたのは、もう三ヶ月も前の事だった。

 厳重に警備された塔に忍び込むのは、健常者でも簡単な事ではない。若くして患った病の果てに視力のほとんどを奪われた雅にとって、それは尚の事困難であったはず。だが雅はまだ目が見える内から綿密かつ周到に用意された計画をもって、ハッキングした介護ロボットの一つの助けを借りながら塔に登ったのだという。


「空がこんなに綺麗なものだとは知らなかったわ」

 それがロボットのログに遺された、雅の最期の言葉だった。

 雅の身体は高度6000mの軌道塔中継層から安芸灘のどこかへ落ちるまでの間に、大気の圧力の中で粉々に砕け散って消えた。


 死ぬ事を酷く恐れていた雅が、酷く計画的で冷徹な自殺に至った事に、遺族の多くは驚きの表情を隠さなかった。どうしてあの子が…あんなにも元気になりたいと願っていたのに…、薄ら寒い悲嘆が飛び交う葬式。

 遺体の欠片も発見できなかった空っぽの棺には、生前の写真から復元されたホログラムの雅が目を閉じて横たわっている。僕は無感動に呟いた。

「それでこそ雅だよ」

 こうして横たわる雅こそが、一つの雅にとっての自然であるのだと僕は直感していた。


 焼香を終え、席に戻った僕は懐から小さな結晶性ディスクチップを取り出した。

 黒光りするそれを手の中で転がしながら、僕は雅から最後に渡されたそれをどうすべきか考えていた。考えても無駄だという事も何となく分かっていた。それでも僕は、その漆黒の光が放つ魅力から目を離す事が出来ないでいた。


***


「現実感を与えたくなかったのよ」

 雅は最初にそう言った。ホロディスプレイの映し出す雅の姿は、生前の姿と何一つ変わらなかった。

「どうして家族でもない連中に、死んだ後まであたしの姿を見せなければならないの?」


 傲然と胸を張る。まだ元気だったころに、よくやっていた仕草。

「あたしの死は、あたしだけの物。どう使おうとあたしの勝手よ」

 雅が何を言っているのかは、僕には分かっていた。遺体の一片も遺らない死に方をした理由、それは雅が何からも自由になりたかったからだ。


 例え脳死を迎えた後の遺体でも、脳が残ってさえいれば人格を復元したAIが構築され、電子の監獄に魂を囚われ続ける。脳が残っていなければ、遺体の一部からでも遺伝子が採取できれば、精巧なクローンを造り出す事ができる。

 そうした時代に在って、それでも不治の病にその身を壊され続けた雅が何を思ったかなんて、容易に想像が付くことだった。


「…君が今、想像しているのとは違うわ。多分ね」

 雅が唯一残した意識体が、僕にそう告げる。


「じゃあ…一体何が雅をそうさせたんだ」

「何がとは、随分お高く留まった言葉ね」

 雅は簡単には答えを教えてくれなかった。わざわざ脳の一かけらも残さない死に方を選んだ少女が、何のために遺したのかも分からない自分の意識体。得体のしれない影と語り続ける事に、僕は心底疲れを感じていた。


「君は、都島雅か」

「そうであるとも言えるし、そうじゃないと言う事も出来るわ」

 雅の影は画面の中でウィンクして見せる。茶目っ気たっぷりの表情が、かえって現実から消え去った雅の喪失を強く意識させた。

「あたしが起動されたって事は、もう現実のあたしは死んでいる…分かってるわ。あたしはあたしが死を決めたタイミングで造られた、あたしのコピーだから」


 くるりと一回転。まるで不自由な身体から解放された魂がそこに在るかのような感覚に、僕は今やはっきりと目まいを覚えていた。頭が痛かった。

「今の日付は…あたしが造られてから四ヶ月、か。あたしの身体、意外ともたなかったのね」

「君は…」

 都島雅じゃない。そう言えたらどれだけ楽だっただろうか。暗い部屋にぼうっと浮かび上がる雅は、見慣れた不気味な笑顔を浮かべて見せる。


「見慣れた都島雅ちゃんじゃない…そう言いたいのよね」

 雅はいつでもこうだった。おつむの足りない僕の考える事などとっくにお見通しで、それをからかって笑っているような女だった。安芸灘に消えたはずの笑顔が再び目の前に現れた事に、いつしか安堵を感じ始めていた。僕はそんな事を考える自分が嫌だった。

「…分からないよ」


「分かって欲しいとは思わないわ。君の中身の足りない伽藍洞の頭蓋骨で理解できるとも思えない」

「そう…」

 刃物のような言葉で僕を滅多刺しにする。それが彼女の常だった。


***


 僕はこれでも献身的な方だったと思う。クラスの誰もがやがて雅のお見舞いになど行かなくなっても、それでも僕は毎日病室に訪れる事を欠かさなかった。別に雅が好きだったとか、そういう理由からではない。ただ単純に、雅が僕の興味を満たす珍しい人物だっただけの事だ。


「君は、正直者なんだね」

 ある日の夕暮れ、ベッドの上に身を起こした雅は、夕暮れの闇が差した不気味な笑顔でそう言った。その顔は笑っているように見えて、その眼の奥にどこまでも深い闇が湛えられている。そこに僕は、とても興味を引かれた。

「ああ…いい夕暮れだね」

 そう言っただけで雅は、僕が何を見ているのかを察したらしかった。小さく息を吐くと、窓の外に沈んで行く太陽をただ見つめた。


「きれいな空ね」

 そう一言呟いたっきり、雅がその日何かを喋る事は無かった。


 逆算するに、雅が自分の複製を作ったのは、その辺りの事だったらしい。

「要するに雅は…」

 僕を好いていたのか。そう問おうとした時には、雅は画面の中で既に眠りに就いていた。


 …徐々に身体の自由が効かなくなって寝たきりになって行く雅の病室は、いつしか僕にとって一つの憩いの場になっていた事は認めなければならない。

 その痩せ細った身体を起こす事もできなくなるほど弱っても、彼女の瞳の奥に宿る闇が消える事は無かった。


「見せて」

 窓の向こうに見える夜の安芸灘と、更にその向こうに見える軌道塔の輝きを、彼女は見たがった。

 これと言って鍛えている訳でもない僕の腕力でも、あまりに軽くなった彼女の身体を持ち上げるのに苦労は無かった。女の子を抱っこするなど、これを逃したらそんな機会があるとも思えなかった僕は、頼りない僕の身体にしがみついてくる雅を展望室まで抱えて行った。

「あれにするわ」

 そう言って雅は、骨と皮だけになった手で軌道塔を指さした。彼女が何を言っているのかも殆ど考えぬまま、僕は上の空で返事をした。

「良いんじゃないかな…」


「そしたらあたしは、あなたと一緒に居られる」


***


 居眠りしてしまったようだった。ホロディスプレイの目の前で、僕は腕を抱えて顔を伏せていた。顔を上げればそこにはまた雅の顔があるに違いなかった。

 いつもの不気味な笑顔で僕の事を見ているのだと思った。

「そんなに、一緒に居たかった…?」

 顔を伏せたまま僕がそう言うと、かすかに驚いたような息遣いが聴こえた。


「それが雅を突き動かした衝動だったの」

 現実感を得られぬ生を捨て、誰かの傍に寄り添う死を選ぶ。それが病の中に沈んで行く雅にとって、どれ程魅力的に映ったかは想像に難くない。


「あの夕暮れの日から」

 僕は飽くまでも顔を上げない。彼女が語り尽くすまで、僕はもう顔を上げない事にしようと思った。


「あたしは自分の死後を、君と過ごすと決めたの」

 どうせ死んでゆくこの身体にしがみつくよりも、君の重力に捕えられて過ごす方がマシだと思った。

 そう雅は語った。


「そう…」

 顔を上げる。そこにはまた、あの日と同じ、影の差した笑顔を浮かべる雅の姿があった。

 心なしかその目元が腫れているのが気になった。電子の海に映る雅の影でしかない存在でも、涙を流す事が有るのかと思った。


「あたしは、正直者なのよ」

 僕はただ、影だけの存在となった雅のその瞳に、昔と何一つ変わらぬ暗闇が宿っている事に気が付いた。雅は僕の為に、最良の状態の自分自身を保存していたのだと今さらながらに気が付いた。


「ああ、いい夕暮れだね」

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