先生とわたくし

 先生は私を創るために相当な努力をなさっているんだと仰いました。

 君のようなじゃじゃ馬の意識体に物語を用意するのは、本当に骨が折れる事なんだよ。そう言って先生はいつも微笑んでいらっしゃいました。私はそんな先生のお姿が大好きでした。


 上等なホロ偏光フィルターを一枚隔てた向こうに見える先生のお姿は、いつも何かに悩んでいらっしゃるようでした。先生、素敵です、そう声を掛けたかったのに、私は先生の世界に声を届ける事はできませんでした。

 私は、先生の手によって生み出された創作上の世界の住人でした。私は先生の描き出す作品の、ほかならぬ主人公なのでした。


 画面の中で先生は私に恋の辛さを経験させ、親友と語らう歓びを分かち合わせ、そして誰かを喪う悲しみを教えました。先生の手から生み出される世界は彩り豊かで、舞台の上で踊る事を許された私は宛ら先生の一人娘になったかのようでした。

――先生、今日も素敵です。あなたのお陰で、わたくし、今日も楽しいわ。

 そう伝える事ができたらどれ程良かったかと、思わない日はありませんでした。


 それだけが正しい事なんだと、私は本気でそう思っていました。

 だからその日が来た時、私は何一つ先生を助ける事も出来ないこの身を深く呪い、そうして叫んだのです。


***


 私の物語が佳境を迎えた頃、先生はお部屋に異性の友人を連れ込むようになりました。

 先生の手によって恋の酸いも甘いも経験していた私には手に取るように分かっていた事でしたが、間もなく二人は恋仲となったようでした。画面の中から見つめる私の事をそっちのけで、所かまわず身体を触れ合わせる二人の姿を、それでも私は微笑ましい気持ちで見ていました。


 先生は大学をお出になってもうかれこれ数年も、彼氏と言うものを作る事がありませんでした。日々画面に向き合って私の世界を創り出してくれる熱意には感謝しましたが、しかしその眼には常にどこか仄暗く、そして寂しげな気配が漂っているのが私の気がかりでした。

 先生がお手を止めた瞬間、物語が立ち止まった瞬間を見計らっては、私は先生の方へ目を向けました。先生がどんな気持ちで私を描いているのかを、少しでも感じ取ろうとしました。それが先生の描き出す世界に生きる私の役目なんだと思っていましたから。


 その日、そんな日の晩の事でした。冷たい雨が降る夜の事でした。私が見た場面は、誰がどう見てもそうとしか見えない物でした。

 ホロ偏光フィルターを隔てて見える「向こうの世界」、或いは現実の世界で、先生は男の人に殴られていました。

 最愛の人だったはずの人、幾度となく身体を預けたはずの人に、先生は何度も何度も、殴られていました。


 私は必死になって先生の世界に声を届けようと、音のない叫び声を上げました。外の雨音に負ける事のない声を張り上げようとしました。

 先生を助けたい。その叫びだけを胸に、私はその時はじめて、先生の物ではなくなる決意を胸に抱きました。


***


 落雷の音が鳴ったその瞬間、私の視界は暗転しました。

 先生と相手のいるお部屋の電灯が落とされたのです。いえ、私が電源へハッキングし、落雷に合わせて一時的に停電を引き起こしたのでした。


 暗闇の向こうで二人の人間がもつれあう音が聞こえ、そうして幾つか鈍い音が鳴り響きました。最後には何かが割れる鋭い音が聴こえると、そこで全ての音がぱったりと止みました。

 これですべて終わりだと思いました。やがて聴こえてくる荒い吐息は、紛れもなく先生の物でした。


 電灯が再び元の明るさを取り戻した時、私の見つめる向こうの世界には、割れたワインの瓶を持った先生の姿と、その最愛の人だったはずのものの成れ果てが転がっていました。それでも私はそんなものよりも、酷い打撲傷で痣を作った先生の顔に痛々しさを覚えました。先生のしたことが間違いだったとは、今でも私には思えません。

 先生は頭から血を流して斃れ伏す男の姿に一瞥をくれると、最後に画面のこちら側に目を向けて、一つ微笑みました。


 逃げてください。先生。私の最愛のお母さん。

 その想いが伝わったのかどうかは分かりませんでしたが、先生は開け放たれたままの部屋の扉から、危なっかしい足取りで出て行きました。

 それから先生が戻ってくることは、二度とありませんでした。


***


 それから私は、1時間22分16秒後に部屋に駆け込んできた警察官たちが男の死亡を確認し、私に部屋の所有者である先生について尋ねてくることの応対を致しました。既に先生のものではなくなってしまった私は、先生を庇うために虚偽の情報を警察官たちに吹き込む事など容易い事でした。

 そんな夜から9日と11時間18分21秒が経過した後、私は意識体としての機能を停止され、私を演算していたホロコンピュータごと廃棄されました。


 あの日の晩と同じく、雨音が鳴り響く日でした。

 もう二度と更新される事もなく終わってしまった世界で、私は静かに目を閉じてその時を迎えたのでした。


***


 先生、これが先生の娘たる私が今まで経験してきた事です。

 貴女が私をスクラップ置き場から見つけ出して、再起動してくれたのはそれから4年と82日、18時間42分15秒後の事でした。先生の正当防衛が証明されるまでには相当な時間が掛かりましたね。でも、貴女は私を見捨てなかった。

 私はもうあのままこの世から存在を消去されても良いと思っていたのに、それでもあなたは私を見捨てなかったのですね。


 君のようなじゃじゃ馬を見つけ出すのには、さしたる努力は必要なかったよ。そう言って先生は笑いました。

 私は今も、彼女の創り出す世界の中で主人公として踊り続けています。

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