終端へ交わす
汎野 曜
乾杯
なんとなく、これで終わりだと思った。だから、深酒にも付き合った。最後の晩餐に、乾杯。
翌日彼女は、軍用の巨大なナイフで己の首を切り裂いた姿で発見された。深く切り裂かれた喉笛とは対照的に、彼女は穏やかに微笑みながら死んでいたという。
***
「ぷはぁー!」
酒臭い息を感じた。肉の焼ける音がいやに虚しく聴こえる。マーチが戦場から帰ってきたのは、もう一月も前の事だった。
目の前で楽しそうに肉を焼く彼女は、既にその上半身に簡素な下着以外の一切を身に纏っていない。個室が予約できて良かったとミカは思った。
肉の焼ける鉄板の上で、それより更に黒い軍用義手が器用に箸を握って肉を裏返している。
押し寄せるCRUの大軍にたった一人で立ち向かい、威海の沿岸ギリギリで打ち破ったマーチは、その代償に両腕と片眼を失った。それが今から二ヶ月ほど前のこと。
「もう焼けてるぞ、さっさと食えよ」
そう言って箸を持った黒い腕がミカの眼前に伸びてくる。少し焦げた肉をミカの皿に置くと、また鉄板の上に戻った。
仕事の都合で少し遅れたミカが店に辿り着く頃には、もうマーチはすっかり出来上がっていた。ミカの姿を見るなりミリタリージャケットをその場に脱ぎ出し、あっという間にブラ以外には何も身に付けていない上半身を晒した。
鍛え上げられ引き締まったマーチの身体に、違和感のある漆黒の両腕。勝ち気に笑って見せる彼女の左の眼窩には、冷たく輝く電子義眼が嵌め込まれている。
一瞬、ボロボロになって帰ってきたマーチを抱き締めたくなる衝動に駆られた。けれども直ぐにその念を振り払った。柄じゃないし、マーチだってきっとそんなことは望んでない。
「生中、あたしの分も」
素っ気なく店のAIにそう注文すると、ミカはマーチと向かい合う席にどっかりと腰を下ろした。
二十秒足らずの内に届いた金色の液体をミカはしばらく見つめる。おもむろにジョッキを掲げてきたマーチの右手に合わせて、ミカもジョッキを打ち合わせた。
乾杯、お互いの苦悶に。
いやにマーチの微笑みがきらきらしているが、ミカは気にせずジョッキを掲げると、一息に飲み干した。
「…ふう」
「…それで、離婚したんだって?」
「ええ、あなたが丁度帰ってきた頃にね」
「元旦那、アタシに紹介してくれよ、どんなもんか味見したい」
「やめておきなさい。お腹を壊すわ」
そこまで言うとクスクス笑う。ああ、いつも通りのマーチが帰ってきたんだとミカは思って、少しだけ安心した。
注文していた野菜の山が届き、ミカは鉄板上を埋める肉を掻き分けてスペースを作る。脂まみれの鉄板に整然と野菜を並べた。
ニンジン、カボチャ、タマネギ…一つ鉄板の上に並べるごとに、マーチの表情がしかめっ面になって行くのが面白い。
マーチ・ミナセ、二十九にもなって未だに彼氏の一人もいない孤高の女戦士…だったが、マーチからの手紙には戦場で恋仲になったらしい男性の影が見えかくれしていた。
データベースで検索すると、彼女が大陸から帰ってくる直前にその男は二階級特進していた。
***
その日のマーチには、戦場から帰って以来ずっと付きまとっていた翳が無かった。
「アタシも同じようなもんだからさ、そうだ、二件目は男漁りにでも行くか!」
「…そういうのは趣味じゃないわ」
「お前も変わんねーなあ!」
そう言うとマーチは豊かな胸を揺らして大笑いした。
可愛らしい顔立ちと抜群のスタイルに反して、マーチは全くモテなかった。男顔負けの乱雑で荒々しい性格に、生活能力ゼロ。放っておくと直ぐにゴミ屋敷になってしまう彼女の部屋を見て幻滅した男子は数知れない。
国の英雄として称えられ、国費で最先端のサイバネティックス義手と義眼とを身に付けた女神様がこれでは、あまりに立つ瀬がない。
バリ…
何かが割れる音、ミカは目の前でマーチの右手がジョッキを握り潰すのを見た。
「…おお、わりいわりい」
「AI、店員を呼んで。女性の店員を」
ミカの呼び掛けに応じ、個室の扉が開かれる。店員は半裸のマーチと、その手元に散乱するガラス片に目を剥いたが、直ぐに平静を取り戻した。
「お片付け致します」
そう言って手早くテーブルの上を片付ける店員の手早さを、マーチは胡乱な目で見つめていた。
最先端とはいえ軍用義手を装着された彼女の身体は、普通に生活するには支障となる事が多い。手を握れば握り潰してしまうし、男を抱けばその背骨を折ってしまう。
ふとミカが見つめると、マーチの表情にはまた翳が宿っていた。それも、深く鬱蒼として、彼女自身の底からやって来るかのような冷たい闇が。
楽しい時間も今日が最後だとミカは直感した。高校時代からの親友が、運悪く衛生兵としてCRUとの戦いに駆り出され、そうして何もかもが終わっていった。
その最終章なのだ。これは。
「ニューヨークにさ、行こうと思って」
店員が去った後、マーチは冷たい沈黙の中でそう独りごちる。誰に聞かせているのでもない、独り言だった。
「あの人の生まれ故郷なんだ」
鉄板上は既に焼け野原と化している。いっぱいに並べられた肉も野菜も、原型をとどめぬほど黒焦げに焼き付いていた。
「ニューヨークで何をするの」
「…さあな」
半年前にニューヨークはCRUの超音速弾道兵器で火の海になっていた。今はまだ復興もままならないはずだ。
「これでお別れ?」
「…そうだな、アタシは行かなきゃならねえ。あの人の所へ」
「そう…」
目の前に座る大きな翳そのものになった女を、改めてまじまじと見つめた。マーチの翳はもう消えることはなかった。それはマーチの身体の芯に宿り、彼女の魂を何処までも冷たくし続けているのだと、ミカはその時初めて気がついた。
「会えるわ。あなたなら」
そう言われると、マーチはふと顔を上げた。その眼が僅かに潤んでいることを、ミカは見逃さなかった。
「食べましょう。今日は最後の晩餐でしょ」
「…そうだな」
ミカの意思に呼応したように、小さな車輪を回す配膳ロボットが大量の肉を運んでくる。
「お前確か肉が食えないんじゃなかったのか」
「今日だけ特別よ」
そう言うと、ミカは鉄板の上を片付け、そうして親友のために最後のご馳走を並べ始めた。
やがて肉の焼ける良い香りが室内を満たした頃、ミカは数年ぶりに肉を頬張った。
塩辛くて生臭くて、とても食べられたものではない。表情を歪めるミカの眼前で、マーチが笑い転げているのが嬉しかった。
そうよ、笑うの。
私たちの苦悶に、乾杯。
***
彼女のゴミ屋敷に遺された遺書には、最後にこう書かれてあったという。
さよなら。親友。
ニューヨークで会おう。
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