4.春待ち桜と私の決意

彼女に告白されてから、およそひと月が経った。

あの日以来、彼女が私に、愛の言葉を吐くことは、なく。まるであの告白は嘘だったのではと思えてしまうくらいに、私と彼女は、これまでと変わらぬ日々を送っていた。

だけど、完全にこれまで通りとも、いかなかった。

彼女が私を見つめる瞳の奥。そこに、仄かな熱が篭っていることに気がついてしまえば、私は、あの日の告白を、忘れられなくなってしまう。

彼女の胸に灯った、私に対する恋慕の情。

それからはそっと目を逸らして、私は今日も、彼女のもとへ、足を運ぶのだ。


コホ、コホ、と。小さく咳をする声が耳に届く。

「……どうしたの?風邪?」

「うーん……そうなのかなあ……」

私がそう問えば、ケホ、と、厭な咳を零しつつ、目の前の彼女は、困ったように眉を下げた。

「もうすぐ夏だし、風邪引くような時期じゃないと思うんだけど……」

「何言ってるの。夏だって風邪引く時は風邪引くわよ」

そう言えば、そっか、と、ぽつりと呟く声が聞こえた。その声は弱々しく、普段のような覇気さえ感じられない。私は流石に心配になって、彼女にそっと声をかけた。

「大丈夫?そんなにしんどいなら、今日はもう帰る?」

「えー?だいじょぶだよ!元気元気!」

そう言って、彼女はぶんぶんと腕を振り回す。それに、と続けた声には、影が落ちていた。

「……家に帰ったところで、身体が休まるってこともないし」

その言葉に、ハッとした。しまった。その言葉は、どう考えても、彼女にかけるにはふさわしい言葉じゃなかったからだ。

「ご、ごめんなさい、私……」

「んーん?別にいいよ。センセーに悪気がないってことは分かってるから」

そう言って、彼女はにこりと笑った。完全に、年下の彼女に気を遣われている。それが情けなくて黙り込んでしまえば、彼女は、うーんと間延びした声を漏らして、それから、そうだ、と人差し指を立てた。

「センセーがキス、してくれたら、ちょっとは元気出るかも」

「……しないわよ、そんなこと」

「アハハ、だよねえ」

冗談だよ、と彼女は続けて言う。しかし、先程の言葉が、おそらく本当は冗談でもなんでもないことくらい、私にだって分かるのだ。

だって。

彼女の瞳の奥には、相変わらず、あの日告白してきた時とおんなじ、熱が篭っているのだから。

その熱を見ていられなくて、私は、そっと彼女から目を逸らした。ずっと握りっぱなしだったスマホのロックを解除して、マッチングアプリを開く。新着のメッセージに返事を返して、それから、何の気なくアプリの画面を眺める。

……この中の誰かと結婚したなら、この子は、彼女は、私を諦めてくれるのだろうか。

なんとなく、そんなことを思った。そして、それはそうなんだろうな、とも。

きっと彼女は、私が誰かと結婚した、と言えば、潔く身を引くのだろう。

だけど、だけど。その時私は、きっと彼女を泣かせてしまう。悲しませてしまう。

なんだか、それは嫌だなあと。漠然と思った。

泣きそうな顔で「おめでとう」と云う、彼女の姿がありありと思い浮かんでしまって、胸が苦しくなる。

苦しくなったところで、どうしようもないのだけれど。

ああ、これはまずいな。どうやら私は、思っている以上に、彼女に絆されているようだ。

「……ごめん。用事があるのを思い出したから、先に部屋に戻るわね」

「え……う、うん。分かった」

今日はだめだ。これ以上彼女の隣でいたら、余計なことをぐるぐると考え込んでしまう。それに耐えられそうになくて彼女にそう言えば、彼女は寂しそうな声で、だけど了承の意を示してくれた。

その言葉に甘えて、私は彼女の顔も見ずに、自室へ向かうための階段を駆け上がる。古めの階段が嫌な音を立てたが、それに構っているような余裕はなかった。

……分からない。分からない。

私は彼女を、どうしたいのだろう。彼女と、どうなりたいんだろう。

あの告白以降、私は完全に、彼女との距離を、測りあぐねているのだ。


そんなことがあった翌日の放課後のことである。

偶然、自身が受け持っているクラスの教室前を通った私は、そこに見慣れた人影があることに気がついた。

その人影—桜葉彩夜は、教室のロッカー前で佇んだまま、微動だにしない。下校時間が差し迫っていることもあり、一声かけるべきかと思った私は教室に入ろうとして、そして、彼女の姿に愕然とした。

彼女は、頭から水を被ってしまったかのように、全身ずぶ濡れだったのだ。

さらに、おそらく着替えようとしたのだろう。彼女が手に持った体操服は見るも無惨に切り裂かれている。

それだけで、彼女が受けているものが何であるのか。簡単に察することができた。

そしてそれから、ふと思い至る。

彼女がいつもひとりで居る理由。それはきっと、ひとりが好きだから、ではない。

彼女は、きっと。

「桜葉さ—」

「あ!朝比奈先生!ようやく見つけたっすー!」

意を決してかけようとした声は、そんな馬鹿でかい声に掻き消された。

振り向けばそこには、学年主任の先生が立っている。私はぺこりと頭を下げると、声を掛けてきた彼に向き直った。

彼は教室の中にいる彼女をちらりと見て、しかしその存在をまるごと無視したみたいに、すぐに私の方に向き直って、話を始める。

なんで。どうして。私には、それが信じられなかった。

どうして。なんで。目の前にいるのは、私と同じ「教師」という立場の人間ではないのか。

それなのに、そんな人が。生徒が、子供がどんな目に遭っているのか知って、知らんぷりをしている。

それが、信じられなかった。信じたくなかった。

それから、嫌という程痛感したのだ。彼女が周りから、どんな扱いを受けていたのかを。

彼女にとって、きっと、他人とは「自分を傷つける存在」だったのだ。

彼女にとって、きっと、大人とは「自分を守ってなんてくれない存在」だったのだ。

自分を傷つけることしかしない、そんな存在で。

自分には手を差し伸べてくれない、そんな存在だったのだ。

その事実を、改めて痛いほどに実感して、そして思った。

やっぱり、私だけは。

私だけは。ずっとずっと。彼女の味方でいなければいけないと。そう思ったのだ。

たとえ彼女が私を「そういう意味で」好いていようと、関係なかった。

彼女の気持ちに応えないこと。彼女の味方でい続けること。

このふたつは両立できるものなのだと。この時の私は、当たり前のように信じていたのだ。


その日の夜。私はいつものように酒を購入してから、彼女のもとへと向かっていた。

彼女はいつもと同じように、階段下に座り込んでいる。だけど今日は、その様子がなんだかおかしかった。

彼女はまるで寒さから身を守るように、自身の肩を抱き締めている。その細い肩はふるふると震えていて、本当に寒がっているようだった。

「桜葉さん!?」

「……あ……せんせ……?」

私は慌てて、彼女のもとに駆け寄る。私の声に気がついた彼女が、へら、と笑いながら顔を上げた。

その顔は厭に赤く染まっていて、私は抱いていた疑惑が確信に変わったのを感じる。ごめんね、と声を掛けながら額に手を当てれば、案の定、そこはひどく熱を持っていた。

間違いなく、発熱している。

「どうしたの、これ。すごい熱じゃない……!!」

「……うん……なんか最近、調子悪いな、とは思ってたんだけど……今日、冷たい水被って、びしゃびしゃのまんま、帰ってきたのが、だめだったみたい。せんせ、待ってる間に、なんだかどんどん、しんどくなってきちゃって……」

「うん、分かったから。しんどいなら、喋らなくていいから……!!」

私はそう言いながら、彼女のあつい身体を抱きしめた。いつもなら、ほんの少しひんやりとしている彼女が、こんなにも熱い。嫌な予感しかしなくて、私は慌てて言った。

「と、とりあえず病院行きましょ。このまんまじゃ、治んないわ」

「……や、やだ」

「馬鹿言わないで。お医者さんに診てもらわなきゃ」

「……やだっっ!!」

ビリビリと、空気を震えさせるような声に、私は思わず口を噤んだ。

彼女の表情を見れば、明らかに怯えたような表情を浮かべている。

「病院は……やなの……パパに、おこられちゃうから……」

その言葉に、はっとした。そうだ。この子の家庭環境のことを考えたら、病院に連れて行くのはまずいかもしれない。彼女の全身を覆う傷痕を見られれば、何か訳ありであることは一目瞭然である。どこかに通報されることだってあり得るだろう。彼女はそれを、危惧したのかもしれない。

子供を守るための機関だって、きっと、彼女みたいな存在を必ずしも守れるなんてことは、残念ながらないのだろう。そうであれば彼女はきっと、こんな苦しみからはとうに、解放されているはずなのだから。

それは、まあ、今考えることではない。今早急に考えるべきは、彼女をどこで休ませるか、である。

……最も、この状況で選択肢など、無いに等しいものであるが。

だけど、どうしても躊躇してしまう。

彼女を自分の部屋に招かないこと。それは、教師と生徒という、私たちの関係を守る、最後の砦のようなものだったから。

一瞬、はんの一瞬だけ躊躇って、だけど、腕の中で苦しそうな表情を浮かべている彼女の姿を見て、そんな躊躇いなど、すぐに吹き飛んでしまう。

「……ちょっと、失礼するわね」

ひょいと、彼女の身体を抱き上げた。ひょろりとした彼女の身体は見た目通りに軽くて、これなら落とさずに済みそうだと安心する一方、心配にもなる。

私は彼女を揺らすことの無いよう、ゆっくりと、階段を上った。

手探りで荷物から鍵を取り出して、ようやく辿り着いた自室の鍵を開ける。

ああ、本当に。どうしようもないところまで、絆されてしまっているな。

そんなことを思いながら、だけど、彼女を救えるのは私だけなんだと、ほんの少し、浮ついた心地になりながら。

私は彼女を初めて、自室に招いたのだった。

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春待ち桜は夢をみる 一澄けい @moca-snowrose

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