3.春待ち桜と淡い恋
彼女に—桜葉彩夜に声を掛けてから、ひと月ほどが経った。
私は相変わらず、少しでも彼女の助けになれたら、と。夜な夜な、彼女にお酒を渡し続ける生活を送っていた。
あくまで私は、彼女の担任として、彼女を助けたいと思っているだけだ。しかし、これだけの期間、毎日のように顔を合わせていれば、自然と、彼女について知っていることは増えていった。
例えば、彼女が意外と、本好きだということ。彼女はかなりの読書家のようで、学校でも、それから、私を待っているアパートの階段下でも、本を読んでいることが多かった。
彼女が言うには「本の世界には、幸せがいっぱいあるから好き」なのだそうだ。確かに彼女は、登場人物が最後には幸せになるような、ハッピーエンドをひどく好んでいるようだった。本を読む時の彼女の横顔は、なにかを羨んでいるような表情を浮かべていて、彼女が「幸せ」というものに、憧れを抱いているんだということを、嫌と言うほど感じさせられた。
私も本は読む方だ。だから話は意外なほどよく合って、いつしか、本の貸し借りまでするようになっていた。
それから、彼女は「大人が好きじゃない」みたいだった。
「大人はいつだって、ボクのことを、助けてなんてくれなかったから」
そう言う彼女の表情は、ひどく冷めきっていて、私は、こんな子供にこんなことを言わせた、彼女の周りにいた顔も知らない大人に、ひどく憤りを覚えたものだ。
その後、慌てたように「あ、センセーは違うよ!」と言った彼女に、私は、私だけは、彼女を助ける大人で居続けようと、そう、思った。
彼女にもう二度と、あんな冷めきった顔はさせない。それが彼女の担任としての、私の使命だとさえ思えたのだ。
彼女を守りたい。彼女を助けたい。
それは、ひどく傷ついていた私の心を癒してしまうほどの、心の支えとなりつつあった。
だから私は。今日も。
「お待たせ、桜葉さん」
「先生!」
ひとりぼっちで傷ついていたこの少女に、手を差し伸べるのだ。
「はい、今日のぶん」
私は、仕事帰りにコンビニで購入してきたアルコールを、彼女に手渡す。
缶ビール5本。それが今日、彼女が父親から要求されたものだったらしい。
本当はこんなことをしてはいけないのだろうが、彼女と私は、連絡先を交換していた。
「なにかあったら、いつでも連絡していいから。連絡をくれたら、絶対、君のことを、助けに行くから」
そう言って彼女に手渡した連絡先だったが、今のところ、メッセージアプリで、今日必要な酒の種類の連絡に使われているのみだ。彼女が家に帰り、父親に頼まれた買い出し(無理難題も含む)を確認し、自分で買えない酒類などのみ、私にメッセージアプリで連絡する。それを私が確認して、仕事帰りに購入し、彼女に手渡す。それの繰り返しだ。なんだか拍子抜けだが、彼女が変な事件に巻き込まれるよりは、ずっと良かった。
「ありがと、センセ」
彼女はにこりと笑って、お酒の入った袋を受け取った。それから再び、階段下にストン、と座り込む。
私もそれに倣って、彼女の隣に座り込んだ。
そして、各々好きなことをしたり、時々、話をしたりする。
「家に、帰りたくないな」と。そう言った彼女のために、いつの間にかできた時間だ。流石に、生徒を部屋に招くわけにもいかず、この階段下のスペースを活用するしかなかったが、それでも、自分の隣で、ひどく心地よさそうな表情を浮かべる彼女を見るのが嬉しくて、流石にこれは駄目だと言えないままでいる。
隣で座る彼女は、どうやら今日は読書がしたい気分だったらしい。彼女が読書を始めてしまえば、どうしても手持ち無沙汰になってしまう。仕方なしに、登録しているマッチングアプリを開いてみれば、ここ最近、よく連絡を取り合っている相手から、新しくメッセージが届いていた。それに返事を返してしまえば、本当にすることがなくなってしまい、私はつい、ふう、と溜息をつく。
「それ、マッチングアプリってやつ?」
そんな、私の溜息に気が付いたのだろう。彼女はいつの間にか読書をやめて、私の手元のスマホを控えめに覗き込んでいた。
「……ええ、そうよ」
「ふーん。先生、そんなのしてるんだ。意外かも。婚活?とかしてるの?」
「まあね」
「……ふうん」
特に隠すようなことでもなかったので、私は素直に、彼女の質問に答えていく。そんな私の声に、彼女はなんだか面白くない、とでも言いたげな返事を返した。
「……センセーは、結婚したいの?」
一拍ぶん、言い淀むような間を空けて、彼女はそんな言葉を、ぽつり、と零した。
「そりゃ、まあね」
「どうして?」
「うーん……一人は寂しいから、かなあ」
「センセー、ひとりは嫌い?」
「……うん。あんま、好きじゃない、かな」
「そっか」
矢継ぎ早に、彼女から質問が飛んでくる。その言葉に、少々面食らいながらも返事をしていけば、やがて彼女は、納得したような返事を零した。
「……じゃあさ、先生」
「ん?なあに?」
「先生は、どんな人と結婚したい?」
その質問には、なんだかうまく答えられないような気がした。
私が結婚したい、ひと。一緒にいたいと、思う人。
それは一体、どんなひとなのか。今までそんなこと、考えたことがなかったような気がした。
誰かが隣にいてくれたら。たったそれだけでよかったから。
だから「どんな人と」なんて、考えたことが、なかったのかもしれない。
「……そうね……」
言葉に詰まりそうになりながら、たったそれだけの言葉を零した。だけどその答えは、最初から私の中にあったみたいに、いつの間にか、口から零れ落ちていた。
「……私のことを、放ってどこかにいかないような、そんな人が、いいかな。それさえ守ってくれる人なら、誰だっていい」
その言葉に、返事はなかった。不安になって隣を見れば、少女は、なんだか熱が籠ったような瞳で、じっと、私を見つめていた。
どきり、と。私の心臓が、嫌な音を立てる。ヒュ、と。私の喉が、変な音を立てて、空気を吐き出した。
そんな私に構うことなく、目の前の少女は、なにかを言おうとして、口を開こうとして口を開く。
はく、と。その可憐な唇が、ちいさく息を吸うのが、なぜか、スローモーションのように、ゆっくりと見えて。
なんだか。なぜだか。彼女が言おうとしている言葉は、聞いてはいけないような気がした。
「……ボクじゃ、だめなの」
ちいさい声で吐き出された、言葉。その言葉に、私は返事をすることができなかった。
「先生、寂しいのが嫌で、結婚したいんでしょ?先生を放ってどこかに行かないような人なら、誰とでもいいんでしょ?なら、ボクでいいじゃん。ボク、先生をひとりになんてしないよ。絶対に。だから、ボクにして。ボクを、先生の家族にしてよ」
「っ、待って、桜葉さん、」
「ボク、先生が好き。先生が誰かと結婚するって思ったら、すごく嫌だった。ボクには先生しかいないの。先生だけなの、だから……」
「……桜葉さん!!」
熱に浮かされたように言葉を紡ぐ彼女の肩を掴んで、私は思い切り、彼女の名前を呼んだ。
その声に驚いたのか、彼女はびくり、と、細い肩を震わせて、押し黙る。そして、縋るような目で、私の方を見た。
そんな目を向けられると、思わず、絆されそうになっってしまう。だけど、絆されるわけにはいかない。
私は教師で、彼女は生徒だ。その関係だけは、絶対に、壊してはいけない。
「……ごめん、桜葉さん。君のその想いには、答えられない」
だから、私に返せる返事は、これだけしかない。
「私は、君の先生だから。だから、その気持ちを、受け入れるわけにはいかない」
「……そ、う……そうだよね」
彼女は、悲しそうに目を伏せた。だけど、次の瞬間には、伏せていた瞳を持ち上げる。
その瞳は、キラキラと輝いているように見えた。
「……でも!それだけが理由なら、まだチャンスはあるってことだよね?先生は、ボクのことが嫌いだから、断ったわけじゃないんだもんね?」
彼女は身体を乗り出すと、がしり、と私の手を掴んで、言う。
「……先生。いつかボクを、先生のおよめさんにしてね」
熱を孕んだ声音で、彼女は言う。
私の手を、包み込む熱さが。蕩けるように、優しい視線が。呪いのように、私から言葉を、奪っていくような心地がした。
結局。私は、彼女が部屋へ戻る時間になるまで。彼女のその言葉に、何一つ、言葉を返すことができなかった。
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