2.春待ち桜とちいさな約束
教員として働き始めて、一週間が経った。
あの夜、階段下で出会った少女とは、あれ以降、学校でも、それからアパートでも、特に会話をすることはなかった。
この一週間で彼女について新たに分かったことと言えば、
一人で過ごすことの多い彼女が心配にはなるが、ここは高校である。「みんな仲良く」などという学級目標を掲げて朗らかに笑えるような時期はとうに過ぎた少年少女が、過ごす場所だ。
彼女が好き好んでひとりで過ごしているのであれば、それについて特に言うことはないだろう。そう思って、学校では、彼女のことを遠巻きに眺めるに留めていた。
しかし、アパートに帰り、階段下に蹲る彼女の姿がないことを確認する度に、どうしても、別の心配が、頭を過ぎってしまうのだ。
あの日「お酒を買うまでは帰ってくるなと言われた」と困ったように笑った彼女は、一体どこで、どうしているんだろう。
彼女の身体についた傷。あれはきっと、昨日今日だけで付いたものではない。あの日、彼女はなにも言わなかったが、その「パパ」とやらに、暴力を振るわれているのは、間違いないだろう。
酒を買うまで帰ってくるな。未成年である少女にとっての無理難題まで、押し付けて。
あれが彼女にとっての日常だったなら、彼女は毎日、階段下で蹲っててもおかしくないのに。
それなのに、この一週間、そんな姿さえ見かけないことに、私は嫌な予感を覚えた。
そもそも、私があの夜、あのような形で介入するまで、彼女はどういう経路で酒を入手していたのだろう。周りの大人は誰しもが知らんぷりをしていた、この場所で。
一体誰を頼って、生きてきたんだろう。
そんなことを考えながら、私は、アパートに向かって車を走らせていた。立地の悪いあのアパートから通勤するには、車は必須なのである。
夜の、それもかなり遅い時間だ。辺りには人の気配はひとつも無い。静かな暗闇に、車のエンジン音だけが響いていた。
ようやく辿り着いたアパートの駐車場に車を停めて、車を降りる。
溜まった疲れを、ふう、とため息と共に吐き出してから、部屋へと続く階段へ向かおうとして―そこで私は漸く、階段下になにか人影がある事に気がついた。
一週間前の光景が頭を過ぎって、嫌な予感がざわりと、胸を焦がす。
私は慌てて、階段下に駆け寄った。
人影の正体は、やはりというべきか。
あの夜と全く同じような姿で階段下に蹲る、桜葉彩夜だったのだ。
「……あは。一週間ぶりだね、おねーさん。おねーさんっていうか、センセ、かなぁ?」
だってボクのクラスの、担任だもんねぇ。
そう言って笑った彼女は、なんだか酷く、窶れているように見えた。
「……今日も、酒買ってこいって言われたの?」
「……うん、そうだよ。でも今日はダメだったんだよね。結構粘ったんだけど、誰も捕まんなくって」
「……捕まらない?」
なんとなく、彼女の言わんとしていることは、分かる気がした。
教師という立場上、それを聞いてしまえば、咎めなければならないことも。
だからこそ、私は彼女に躊躇わずに尋ねた。それが彼女を傷つけるかもしれない。そう思ったけれど、聞かなければと思ったのだ。
大人として、彼女のことを守ってあげるためにも。
彼女は、ハッとしたような表情を浮かべて、それから、気まずそうに顔を逸らした。彼女も気付いているんだろう。それを、教師の前で口にすることがどういう事か、ということを。だからこそ、口にするのを躊躇っているのだ。
でも、いつまでも口を噤んでいるわけにもいかないことにも、彼女は、気がついているはずなのだ。
「……どういう事なの?桜葉さん」
そう言えば、彼女は観念したように、ぽつりと口を開いた。
「……大人の男の人に、買ってもらってたんだ」
やっぱりか。私は黙って、彼女の言葉を聞くことに徹した。
ぽつりぽつりと零される言葉を、聞き逃さないように。
彼女は、笑顔を貼り付けたまま、だけどなんだか苦しそうな表情で、言葉を吐き出していく。
「ねえ、知ってる?先生。可哀想なオンナノコってだけで、男の人って簡単に釣られるんだよ」
そう言う少女はわらっていたけれど、だけど、どこか、傷ついたような顔をしていた。
「馬鹿だよね、みんな。大人の癖に。ボクがどうしようもない、可哀想な子供だと分かった途端に、助けてあげるからって言って、ボクに対価を求めるんだ。ボクが抵抗もできない弱い子供だからって、ボクを使って、欲求を解消するんだよ」
少女はぎこちなく、口角を釣り上げる。歪な笑顔がやたらと、私の脳裏に焼き付いたような気がした。
「でも、それでいいんだよ。ボクは彼らの欲を利用して欲しいものを得てるし、彼らはボクを助けたような気になって、たったそれっぽっちのことで満足する。ボクは―ボクたちみたいな人間は、そうやって利用し合って生きていく。ううん、そうやって生きていくしかないんだ」
その言葉に耐えきれなくなって、私は、少女に尋ねた。
「……君は、それでいいの?」
「いいよ、それで。ボクはそれだけでいいんだ。今はただ、この世界で生きていられたら、それだけで、いいんだよ」
だって、生きてさえ居られたら、あとはどうにだってなるんだから。
そう言って笑う少女の笑顔は、どうしようもなく綺麗だった。
それでいい。そういう風に生き方を定めてしまった少女は、きっと今までも、これからも、そうやって生きていこうとするんだろう。
生きていればいいと。そうやって言い聞かせながら、生きていくのだ。
だけど、本当に?
本当に、それで、いいのだろうか。
否―いいわけが無い。絶対に、そんな訳がないのだ。
だって、少なくとも、私は。
「……そんなこと、言わないでよ」
目の前で、守られるべき子供が、そんなふうに全てを諦めて生きていく様を、見ていたくなんてない。
だから、私は。
「そんな生き方で、いい訳がない。君はまだ子供なんだから……もっと楽しいことして、夢を抱いて、誰かに守られて、生きていていい筈よ」
守られるべき子供である君に、手を伸ばすのだ。
「困ってるなら、私が助けてあげるから。私が、君の盾になれるようにするから。だから、お願い」
そこまで言って、ふと、言葉を切った。
自分を落ち着かせるためにそっと息を吐いて、それから、どこか呆然としている彼女の眼前に、そっと手を差し出した。
どうか、この手を握って欲しいと、願いを込めて。
「そんな、自分を大切にしない生き方をしないで。君はもっと、子供らしく生きていいはずよ。だから、ね」
どうしようもなくなったら、どうか、私を頼ってね。
「……いいの?」
弱々しい声音で、少女は言った。迷うように、ふらりふらりと揺れるちいさな手のひらを迎え入れるように、私はその手をゆっくりと包み込む。
「もちろん。生徒を守るのが先生の役目。そして、子供を守るのも、大人の役目だもの」
そう言えば、目の前の少女の顔が、くしゃりと歪んだような気がした。
そう、思った一瞬後。とすん、と胸元に軽い衝撃を感じ、ふと視線を下に向けると、そこには、私に頭を預けて俯く少女の姿がある。
「せんせぇ……」
「なあに?」
「ありがとう……」
ぽつり、と。ちいさな声でそう言った少女の背中を、私はそっと撫でる。
ありがとう。そう呟いた声は、震えていて、涙が滲んでいるようにも聞こえて。
ようやく零せた少女の弱音なのだと思うと、ほんの少しだけ、安心することができた。
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