春待ち桜は夢をみる
一澄けい
1.春待ち桜と出会う夜
その少女と初めて出会ったのは、少し早めの桜が咲き始めた、春の夜のことだった。
その日は、ようやく引越し作業が落ち着いた日だった。
教員の採用試験に合格し、本格的に教師として働き始めるのを前に、私は、前に暮らしていたアパートを解約し、新しいアパートに引っ越すことにしたのだ。
どうせ暫くは一人暮らしだろうから、と。選んだのは、狭くてやや古いアパート。駅からも街からも離れた利便性の悪いアパートは、賃料も安く、不便さに目を瞑れば特に問題なく暮らせそうな部屋だった。衣食住にふんだんに金を使うより、他のものに金を使いたかった私は、その賃料の安さに釣られてそのアパートを即契約したのだった。
そうして、その部屋に越してきたのが昨日。そして、ようやくその部屋が人が暮らせるレベルまでに片付いたのが今日の話だった。
「はぁ……やっぱり引越しって疲れるわね」
気付けば、もう夜である。いい加減腹も減るような時間なのだが、如何せん、越してきたばかりのこの部屋には、食べ物が殆どなかった。
昨日からずっとコンビニ飯で、いい加減他のものが食べたい気分だったが、今からどこかへ食べに行くのも、ましてや、自分で料理して夕飯を用意するのも面倒臭い。
仕方ないか。そう思って私は、少し歩いた先にあるコンビニへと向かうことにした。
鍵と財布だけを握りしめて、外へ出る。
ギシギシと不安な音を立てて軋む古い階段を降りて、そこで私は、階段の下に人影があることに気がついた。
そこに居たのは、触り心地の良さそうな長い黒髪がよく映える、顔立ちの愛らしい少女だった。
まるでお人形のような愛らしさを持つその少女は、まだ肌寒い春先だというのに、薄手のパーカーとショートパンツという出で立ちで、その場にしゃがみこんでいる。黒いニーハイから覗く白い太腿には、明らかに、誰かに殴られたような痛々しい痣が幾つも浮かんでいた。
その少女は、私の方をチラリと見ることもなく、その場にしゃがみ込んだままぴくりとも動かない。
その見た目も相俟って、本当にお人形のようだと、そう思った。
その、哀れさすら感じさせる姿に、思わず私の良心が動かされる。
君、そんな所でどうしたの。そう声をかけようとして。
だけど。
(お前のその優しさが嫌いなんだよ)
つい先日、私を捨てて逃げた男の言葉が、不意に頭を過ぎった。
駄目だ。また、誰かに優しくしたら。優しくしたところで。
私は、何時だって、置いていかれてしまう。
そう思うと、私は、何も言えなくなってしまった。
見なかった振りをしよう。あんな子、私は知らない。私にはなんにも関係ない。
そうして、彼女の姿ををなるべく視界に入れないようにして、私はコンビニへと足を向けた。
「……嘘でしょ」
コンビニで夕飯と、それから少しだけ飲みたくなったビールを数本購入し、アパートへと戻ると、そこには、家を出た時と同じ格好のまま、階段の下にしゃがみ込む少女の姿があった。
思わず、きょろきょろと辺りを見渡す。辺りにはそれなりに人の姿がある。
それなのに、ここでしゃがみ込んでいる少女に声をかける人は、誰も居ない。
異様な光景だと、思った。
誰もが、この少女の存在を、見て見ぬふりしているのだ。きっとこの、如何にも訳ありな少女に、誰もが関わりたくないと、そう思っている。
だから、居ないものとして、無視をする。
そんなの、酷すぎる、そう思った。
一度無視をした私が、そんなことを言う資格はないのだろう、そう思う。
だけど私は、これ以上、その少女を見殺しにするような真似はしたくなかった。
結局私は、困っている人に手を差し伸べることを、止められないのだ。
誰に何と言われても、例えそのせいで、誰かに嫌われることになったとしても、止められないのだ。
それが、どうしようも無い私の本質であり、生き方だった。
「君、そんな所でどうしたの」
少女が、ようやく顔を上げた。綺麗な青の瞳が、冴えない私の姿を映す。
「……あのね、パパにお酒を買ってこいって言われたの。だけど、ボクじゃ、お酒買えなくって……だけど、買えるまで、パパには帰ってくるなって言われてるから、仕方なく、ここで座り込んでたの」
そう言うと、彼女は困ったように、にへら、と笑った。
その顔は、その顔だけは綺麗だったけど、よく見れば、薄手のパーカーから覗く鎖骨付近にも、痛々しい傷跡がある。
それだけで、彼女の事情は痛いほどに分かってしまった。思わず、ぎゅっと眉根を寄せる。
「どうしたの、お姉さん?どっか痛い?」
わたわたと目の前の少女が声をかけてくる。どう考えても痛いのは少女の方だろうに、そんな言葉を向けてくる少女が、痛ましくて、可哀想だった。
「……お酒」
「……え?」
少女が、呆けたような声を出す。困惑した表情を浮かべる。
そんなものは無視をして、私は言葉を続ける。
「君のお父さん、なんのお酒買ってこいって言ってたの?」
そう問えば、少女はおずおずと、品名を述べる。それは偶然にも、私が今日買い込んだものと同じだった。
何本か袋から取り出すと、彼女の前に突き出す。
「……おねーさん?」
「あげる」
未だに困惑した様子の少女に、私は無理やり押し付けるようにして酒を渡す。渡されてもなお、どうして?というふうな顔をする少女に、私は溜息をつきながらこう言った。
「お酒買えないと帰れないんでしょ?それあげるから、ちゃんと家に帰りなさい」
「えっ……でも……タダでこんなの、貰えないよ」
「いいわよそんなの。子供はなんにも気にしなくていいから。ほら帰った帰った」
そう言って、しっしっ、と追い払うような仕草をすれば、少女はぺこりと頭を下げて、アパートの一室へ入っていった。どうやら、同じアパートの住民だったらしい。
ならばこれからも、出会うことがあるのだろうか。
あの、どうしようもなく哀れな、だけどそれを打ち消すような美しさを持つ少女に。
そんなことを思って、だけどそんな考えを打ち消すように、私はぶんぶんと頭を振った。
会えばきっと、情がわく。私はきっと、あの少女をどうにかして、助けようとしてしまうだろう。
これ以上、他人の事情に足を踏み入れる必要はないと、そう思う。
だけど、だけど。
あの少女が、いつかあんな生き方をしなくて済むようになればいいのに。
そんなことを、思わずにはいられなかった。
―しかし。
彼女と、顔を合わせることがなければいいのに。
そんな私のささやかな願いは、一週間後、いとも簡単に、裏切られることとなる。
着任した高校で、担任を受け持つこととなり、初めて踏み入れたその教室の隅の席で。
黒い髪をくるくると弄りながら、つまらなさそうな表情を浮かべて、その少女はそこに座っていたのだ。
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