雨の終わり

あいさ

雨の終わり

 1


 その人はいつもそこにいた。

 雨が降る学校の帰り道、近道のその公園を通る時に私はいつも、その人の前をじっと息を詰めて歩いていた。


『それは恋?』


 光る画面、ケータイのその向こう。名前も知らない遠い町に住む同い年のみいは、女の子の割には飾り気のないメールを打つ。


『分からない。でも、気になるの』


 その日は少しナイーブな気分だったから、私もいつもみたくハートや音符で目一杯に飾らずに、シンプルな文面を送ってみた。


 真っ暗な部屋。開け放した窓の向こうは雨。

 『送信しました』の文字が浮かぶ、明るいケータイの画面は目に痛い。けれど、三十秒もすれば画面は何も映さなくなり、部屋は本当の意味で光をなくす。


 それでも、照明を点ける気にはなれなかった。独りの夜は大嫌いで、余りに辛いけれど、誰かに会いたいがために安全な家から出る勇気なんてない。

 だから、こんな真っ暗な部屋の隅で縮こまっているのが私にはお似合いだった。


 ただ黒いだけの部屋を眺めていると、不意にパッとケータイの画面が輝き、受信中の文字が浮かび上がる。眩しくて、目を細めていると、すぐに『受信しました』とメールボックスに未読メールが一件追加された。

 送信者の名前も見ずに決定ボタンを連打してメールを開いた。


『気になるんだったら、声を掛けてみたら?』


……そんなの無理だよ、みい。


 そう本気で思っても、みぃはきっと許してくれない。


『それが出来たら苦労しないよ。明日の課題があるから今日はもうお休み、また明日』


 メールのやり取りを打ち切るために、送信ボタンを親指で軽く押した。腕を下ろせば、ケータイと床がぶつかって、無骨な音が鳴った。


 お休み、また明日。


 どんなに可愛らしい絵文字で飾っても、なんてずるい言葉だろうと思う。

 私からメールを切る常套句のそれは、嘘だった。本当は課題なんてないのだ。

 そうして、嘘ばかりが上手くなったように思えた。みぃはちっとも私を疑わなかった。


『そうなんだ』


 みぃから返って来た、メールの一番初めに描かれた言葉。そこから数行分、空白を置いて綴られた文字列の意味はいつもと変わらない。


『課題、頑張ってね。お休み、ゆう。また明日』


 もう、返信の必要はない。

 私たちは、また明日などと言いながら、丸二週間も連絡を取らないことがざらだ。そういう意味では、みぃも私も嘘つきだ。


 ケータイを閉じると、画面の代わりに文字盤に現在時刻が浮かび上がり、消えた。  

 色のない部屋に、雨の音だけが聞こえる。そのせいで、誰もいない家の中で静けさが妙に際立ったような気がして、息苦しさに耐えるようにケータイを握り締めると、みしりと軋む音がした。


 2


 次の日の帰り道も雨だった。


 靴を泥で汚しながら歩いていると、その人はやっぱり、当たり前のようにそこにいた。

 大した雨ではないのに、水に濡れてすっかり色の濃くなった黒いTシャツと紺色のジーンズがどれほど長い時間、その人が雨に降られていたかを教えてくれた。


 その公園は、晴れの日には子供のはしゃぎ声で溢れているけれど、雨の日は誰もいない。その上、その人は近隣にある家の窓からは全く見えない位置にある、色あせた水色のベンチに座り込んでいた。そのお陰か、不思議とその人の不審さが噂になったことはない。

 もしかしたらもしかしたら、その人が雨の日だけそこにいることに気付いているのは、私だけなのかも知れない。


 初めてその人を見たときから、私はずっとその人に対して心の中で問い続けていた。


 ……ねえ、泣いているの?


 雨は嫌いだ。

 その人がいるから。そして、誰とも向き合おうとしない自分がいることを知るしかないから。


 赤い傘の柄に力を込め、奥歯を噛み締めた。足を止めた。何がしたかった、と言うわけではないけれど。

 ただ、雨の降る公園は、世界から隔絶された異世界のようだと思った。


「どうしたの?」


 顔を上げるとその人が私を見ていた。そして、雨の中でもよく通る、柔らかな低い声が、また、私を呼んだ。


「泣いているの?」


 雨の音だけが反響している頭で、反射的に小さく首を振った。すると、その人は初めてベンチから立ち上がり、濡れた黒髪の間からじっとこちらを見つめる。


 感覚が狂いそうな異質な空間の中で、頭だけは冴えて行く。


「泣いているのは、あなたじゃないの?」


 私がはっきりそう言うと、その人は面食らったように一瞬だけ目を見開き、悲しげに小さく笑った。


「かも……知れないね」


 痛ましい、とどこかがざわめいた。それでも、私はその人のことを、夢でも見ている気分で眺めていた。


 3


『良かったね。気になっていたんでしょ』


 結局、みぃにそのことを伝えたのは三日後のことだった。


 それまで、重たい曇り空が広がってはいたけれど、帰り道に雨が降ることはなかった。その人に会わないことに、どうしようもないと思う以上にほっとしている私がいた。


「これは恋だと思う?」


 みいとその人は雨によく似ている。だから、みぃの言葉の端に浮かぶそれも、その人が漂わせるそれもよく似ている。

 呟いた言葉が真実のようで、みぃに伝える気にはなれそうもなかった。結局のところ、メールの作成欄に埋めるのは別の意味の言葉だった。


『そうかもね』


 その人と話せて良かった、なんて思わなかった。

 その人のことが本当は怖くて仕方がなかったのだ。課題があると言った嘘を見破られるよりもずっと。


 憧れは憧れのままで、それが一番良かったはずだった。


 そして、またケータイが私にメールが届いたことを知らせるために光った。

 唇を緩く噛んで、メールを開く。


『呆れた』


 まず、目に飛び込んだ、その言葉。心臓が跳ねたような気がした。


『ゆうは一体、どうしたいの?』


 直視が出来なくなって、ケータイを片手で閉じる。


 真っ直ぐで、率直で、一ミリの歪みさえない。みぃの言葉はいつだって正しい。

 それなのに、その鋭利な刃物のような正しさに対して、武器になる言葉も、盾に出来る言葉も、私は持ち合わせていなかった。

 だから、みぃの過剰なくらいに潔癖な正義が、心臓に突き刺さって痛い。


 部屋の中は相変わらず暗い。

 この家の中に生活音は存在すらしない。気を紛らわしてくれるものなんて何一つ、私は持ってなかった。


 その事実が、手の平のケータイをまた、軋ませる。痛ましい、痛ましい、と心の中で繰り返しながら、現実逃避のように、思いを馳せた。


 その人、みい、私。そして、その人が語った、神さまだった人のこと。


 ――ここで、何をしているんですか?

 ――人を待っているんだよ。僕の神さまだった人だ。いつか、また会いに来るって言ったから、待っているんだ。

 ――どれくらいですか?

 ――三年。実際の付き合いよりも長くなったね。

 ――どうして、そんなに待てるんですか? 三年とか、短くないですよ。いつまで待つつもりですか?

 ――いつまででも、だよ。彼女には返さなきゃいけないものが沢山あるからね、それに、彼女が僕の元からいなくなったのは僕のせいだから。


 話せば話すほど、幻想が狂って行く。

 雨がさらさらと降る音は、憧れの崩れて行く音のように聞こえた。


 神さまだった人の名前さえ知らない、と言うくせに、その人は神さまだった人を心底大事に思っているらしい。

 理解できないと思った。その人は余りに人間らしい。


 神さまだった人のことを話すその人は、やっぱり泣いているんじゃないだろうかと思うくらいに寂しげで、とても楽しそうに微笑んでいた。


 想像以上によく笑い、ひたむきに神さまだった人を待つその人は、みぃを本気で信じていた頃の私にどこか似ていた。


 4


 みぃとはネット上で知り合った。

 切欠は、日々の不満をぶちまけるためだけに作っていた、周りは誰も知らないブログを通して送られたメッセージだった。


 人見知りの私が何を思ってみぃにメールアドレスを教えたのかは、もう覚えていない。けれど、みぃはその正しさで私を救ってくれた。


 私も、みぃも、変な意味で大人びていた。みぃは特にそうで、幼い頃から散々嫌なものを見せられたと嘆いていた。

 それはきっと、誰かにすがりついたって「もっと大変な人はいるよ」と言われ、面倒くさげに一蹴されるようなたぐいのものだった。


 明日の食事に困らないから、黙っていても大学に行けるから、世界で一番不幸じゃないから、いつも誰かは不幸だと思うことを咎める。

 「じゃあ、私と同じ立場に立ってよ」と言うことは、辛うじて飲み込んだ。言ったところで、何一つ誰かの態度が変わることなんてないからだ。


 けれど、みぃはその全てを否定してくれた。その真っ直ぐさで、正しさで、私を救ってくれた。その正義に溺れていられたならば、どれほど良かっただろう。


 みぃは私の神さまだった。


 みぃが私にくれた、どんな言葉一つ取っても、歪みなど一切ない。

 だからこそ、痛い。


 曖昧にしておきたいものも、間違っていると知っていても、貫きたいことも、時にはあるのだ。箱の中に隠しておきたい感情も、誰かに教えるわけには行かないものだった。


 まるで、恋をするようだったと、思う。


 みぃは、どれほど遠くに離れていても、その心だけはいつだって私の隣にあって、この世界に存在する全ての人間の中で最も、近しい人だった。


 いつからだろう。

 みいの言葉が重いと感じるようになったのは。嘘をついてごまかそうとしたのは。みぃの正義が私の正義でなくなったのは、いつからだろう。


 下らない思考に没頭しながら、まばらに子供が遊ぶ、黄昏時の公園を通り過ぎた。昔のように家の鍵を開けても、かつてのような音は聞こえない。

 靴を脱いで、派手な音を立てつつ、鞄を放り出す。自分で照明を点けるしかない薄暗いダイニングに、意味もなく、ほとんど足音を立てずに入った。


 テーブルの上に、母親が作ったのであろう夕飯が置かれていた。窓から入り込む光が、不自然に濃い木の色をしたテーブルに、更に濃く影を落としている。

 そんな、ラップの掛けられた食事を見ると足元が揺らいだ。


 誰もいない空間が重い。生身の人間がいないから、温まることのない空気は更に澱んで行くだけだ。

 確かな重力を持って圧し掛かって来る空間に立っていられなくなって、私はその場にへたり込んだ。


 ケータイをポケットから引っ張り出して、電話を掛ける。結局、どんな感情を持っていても、私が頼れるのはみぃだけだ。


「もしもし」


 メールの飾り気のなさからは想像がつかない、みぃの愛らしい声が耳に響いた。


「みい、あのね……」


 先は続かなかった。少し訛りのある口調で、みぃが「どうしたの」と言う。

 私は、必死に頭を巡らせ、呟いた。


「私、分からないの」


 消え入りそうな声だと、我ながらに思った。みぃには伝わったらしく、「何が分からないの」と繰り返し、問われる。


「全部。何もかも。その人のことも、みいのことも、全部」

「どうして?」


 一つ、話す度に喉が渇く。

 余りに身勝手な話だと理解している。それでも、言わずにいられなかった。


「何にも、知らなければ幸せだったのに」


 いつまででも、みぃを神さまのように信じていられたら良かった。その人が空想の人であれば良かった。そもそも、自分の世界がおかしいと知らなければ、私は幸せな子どものままでいられたはずだった。


 一気に吐き出したそれに、みぃは数秒、逡巡するように間を空けてから、答えた。


「ゆう、知らなきゃ何も始まらないよ。進められない。何も変えられない。だから、知って、向き合って。私がいくらでも相談に乗るから」

「違う!」


 みぃの言葉は、まるで刃物のように痛いから仕方がない。だから、私は逃げなくちゃいけない。


「みぃは……間違っている。正しすぎる。おかしいよ、みぃは。お願いだから、もうやめて」


 叫び出したくなるような沈黙が、降りる。雨が降れば良いのにと、柄にもなく祈るように思った。


「じゃあ、どうしろって言うの? ふざけないで。私が一体どんな思いで……」


 みぃの声は震えていた。泣いているのかもしれない。でも、どうしようもない。こうするしか、私には方法を見つけることが出来なかった。


「正しすぎる私が悪いの? 私には、これしかないのに……。ゆうも、私を見捨てるの?」


 慟哭に似たそれを聞いていられなくなって、ケータイから耳を離した。それでも、スピーカーからは私を責める声は止まない。


 どうして欲しいなんてなかった。ただ言えるのは、みぃの正しさが私の正義になりえなかったということだけだ。

 悪いのはみぃだと、そう願った。


「ごめんね」


 呟いて、通話を切った。

 一人で使うには大きい、四人掛けのテーブルに、ケータイを置き去りにして自分の部屋に入った。着替えることも面倒で、ベッドの上でうずくまる。


 薄暗い部屋で、ただ何も考えたくなかった。歪む視界をそのままに、沈み込むように体を、柔らかい布団に倒した。中途半端に開いた手の内に、ケータイの硬い感触はない。ケータイは常にマナーモードだから、鳴ることはない。

 家の中に、私の呼吸以外の音源は存在しなかった。


 5


 いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。

  鈍い頭痛を感じて目を覚ますと、窓を水滴が叩く音で、雨が降っていることを知った。嫌でも連想するのはその人のこと。いや、心のどこかで望んでいた。


 部屋は真っ暗で、カラカラに渇いた喉が辛く、指一本動かすのも億劫だ。それでも、その人に会いに行かなくてはと、重い体を起こした。

 ぐわんと頭が回る音が幻聴として聞こえた。足元すら危ういまま、ダイニングを通り抜けようとした時、視界の端に、ちかちかと緑色のランプを光らせているケータイが映った。

 瞬間、息を詰まらせてから、それを開ける気もないのにスカートのポケットに押し込んだ。そして、玄関の傘入れから適当に、傘を引っ張り出して家から出た。


 空気は寒く、靴下に雨の冷たさが滲む。

 誰もいない雨の道を灰色に照らす、街灯だけを頼りに、必死に歩いた。恋なのか、寂しいのか、何が何だかよく分からない。けれど、雨に似た、ほの暗いものに突き動かされていることだけは分かった。


 公園に着いて、辺りを見渡すと、その人はいつも通りに、ぼろいベンチに腰掛けていた。


「ねえ」


 そう、その人を呼べば、緩慢な動作でこちらを見て、ひどく驚いたような顔をした。黙って、その人の前に行けば、その人は黒髪から覗く視線を私から外して、自嘲気味に言った。


「彼女が、来てくれたのかと思った」


 まるで独り言のようだ。彼女、神さまだった人のことだろう。


 音もなく、その人の頬を雨の雫が伝う。相変わらず、色の濃いTシャツが肌にへばり付いて気持ち悪そうだった。


「今、何時か分かってる?」


 非難がましい声が、私ののろい頭に届いた。それでも、時間なんて関係なかったと首を振る。

 その人は溜め息をついて、私の後ろにある古びた時計台を指差した。


「一時間もすれば日付が変わる。制服姿の女の子が出歩くような時間帯じゃないだろう」


 雨は止まない。傘に雨がぶつかって、弾ける音がうるさい。


「私を、どうして彼女だと思ったんですか?」


 それはするりと口から出た。ただこれを聞くことが、安全地帯から出てくるのに足るものだと気付く。


「それは、恋ですか?」


 その人はじっと私を見上げて、先より幾分か柔らかく、何かを懐かしむように、優しいような、寂しいような、そんな口調で言葉を落とした。


「星が欲しかった」


 声には出さず、星と復唱してみた。さっきより少し緩んだ雨に、その人の声が懺悔のように響く。


「彼女は僕の神さまだった。そう、仕立て上げた。僕は、彼女を一人の人間としてじゃなくて、僕を救ってくれる星として見ていた。これが恋かどうかなんて、僕には分からない。関係ない。ただ、彼女に謝りたいだけだ。待って、謝って。恋かどうかは、その後に考えるよ」


 言い方が、余りに子供っぽいと不意に感じた。分かりたくない、と幼い誰かが私の中で喚いた。


 足元は変わらずじっとりと冷たく、喉は渇いたままだった。


「彼女は、辛かったと思う。徹底的に依存されていたから。神さまだ、星だ、って。彼女がいなくなって、考えて、ようやく知って。でも、もう僕には謝るどころか待つことしか出来ない」


 明らかに、私より十は年上であろうその人は、いい意味でも、悪い意味でもまっさらだった。

 だから、人を無意識に傷つけてしまう。それでも、それに気付いて正すことが出来る。そこが怖いのだと、漠然と理解した。一番悪いのは私だと思い知らされたくなかったから。だからこそ、臆病な私は憧れることしか出来ない。


 みぃとその人は違うと、今更ながらに知る。

  傷付けた自覚はある。 これから、どれほど後悔するかは分からない。それでも、逃げたかった。

 向き合い続ける覚悟なんて、私は持っていない。みぃの誠実さが、その人のひたむきさが妬ましい。


 白いブラウスに、紺色のスカートを視界に納めて、傘の赤い柄を感覚のない指で、痛いくらいに握り締めた。


「星が、欲しいかい」


 唐突に、その人が私に尋ねた。


 神さまと星。

 信じるものと、求めて止まないもの。


 その人が言う星の意味とは何だろう。


 思考を巡らすがその意味は分からない。そして、聞いてはいけないもののような気がした。きっと、神さまだった人に対する微妙な感情がそこにある。

 それはきっと、その人にとって大切な何かだろう。だから、鈍い頭で必死になって星の意味を考えた。


 長く、考え込んでも文句一つ言わず、黙って待っていたその人に対して、私は久方ぶりに声を発した。


「私は、星になりたかった」


 私の中にある、何もない、ほの暗い空間が出来た理由。それを埋めるためにどうしても欲しいもの。どれほど求めても、もう手に入らないものがそれだった。


「守りたかった。どうにかしたかった。でも、無理だった」


 私が守りたかったものは、私のことなど見向きもせずに、いとも容易く私の手から逃れて行った。私だけを残して。

 どうしようもなかったと、おまじないのように言い続けた。諦めたくて、他人から距離を取った。もう傷つきたくないと言うわがままが、私の小さな穴を押し広げて、埋められない空間にまで広げた。


「私、一体どこで間違えたんだろう。みぃのことも、あなたのことも、距離を置くことばかり考えてる。私は誰も救えない」


 逃げることが、一番簡単だった。そうして、大した覚悟もなく逃げた私が救われたいと願うことは、おこがましいのかも知れない。


「私、どうすればいいのかな」


 途切れ途切れの曖昧な、されど誰にも話せなかった本音を、その人はじっと聞き入っていて、しばらく、思案するように視線を宙にさ迷わせた。


「送るよ」


 そうして、たった一言、そう言ってベンチから立ち上がると、いつも私が帰る方向へ足を向けた。


 その人は私に答えをくれなかった。きっと、それが正解なのだろう。

 それでも、絶望にも似た失望感が私の心に満たされて、足が動かなかった。


「どうしたの」


 責める風でもなく、疑問として投げられたそれを聞き流しながら、私はベンチの上に開いたままの傘を差しかけた。赤い傘と掠れた水色は、妙に映える。


 そうやって、生温い雨の雫が、髪に触れ、項に触れ、ブラウスを濡らした。染みて行く冷たさは、その人と、みぃの体温かしらと考える。

 そうして、軽く首を振ってから、公園の出口で待つその人の方へ歩み寄った。


「傘は?」


「いいの。そういう気分だから」


 そう告げれば、その人はそれ以上、何も言わなかった。

 私が歩き出すと、半歩後ろからその人は着いて来た。歩きながら、私はポケットの中からケータイを取り出す。指先に馴染む、無機質な感触が懐かしい。


 みぃの言葉に溺れることは、もう出来ない。答えは誰もくれない。自分で探すしかない。見つけたとしても、そこに星はないだろう。


 家の前で、「ここです」と言って、礼を述べれば、別れ際にその人はぽつりと言った。


「また、今度」


 涙のように、頬を滑り落ちる雨に思い、その人の後姿が見えなくなってから悟る。


 幻想にすらいない神さまと、存在しない星に祈りながら、ケータイに数件入った同じ番号の着信にリダイヤルをする。


 次に会った時、その人の名前を教えて貰おうと、電子音を聞きながらのんきに考えていた。


「ゆう?」


 数時間ぶりに聞く、かの少女の声。目を閉じた。


「ねえ、みぃ」


 雨の音が、頭の中をこだまする。恋かどうかの答えさえも出せないまま、中途半端な覚悟で、傷つきたくないだけの私が言った。


「私、もう逃げられないみたい」


 何かから、なんて言わなくていいと思った。

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