宇宙旅行
いつものとおり遅れて店にやってきたその男が珍しく本屋の袋を持っていたので「お、ついに私の薫陶を受けて本の虫になる決意を固めたのかぁ〜何買ったんだぁ〜?」と期待に胸が膨らんだが袋から取り出されたのがファッション誌だったので心底がっかりした。表紙に映る細身の男は柄もののスーツを身に纏い、目を程よく開き、口角をやや上げ、眉毛の手入れは行き届いていた。
「全部揃ってやがる」
自分には関係のない星の住人だと思った。
という具合に私はその本に対する興味をすぐ無くしたが1つ気になる点があった。
「お主いつからそんなもの読むようになった」
私の向かいに座るその男は大学入学時に生まれて初めて買ったワックスを未だに使い切っていないし休日は購入金額が合計1万円以下のコーディネートで私の前に現れることもザラな言わば「捨てている」人間だった。大学3年の秋に買った3000円のスニーカーを含む組合せを「コーディネート」と呼ぶのは言葉に失礼だったかも知れない。
「着けてる時計とスーツのレベル感が合ってないと本物の人から見下されるからな」
男が答える。心境の変化ではなく、前々からの趣味の延長だったらしい。
その男の数少ない趣味は私の話し相手をすることと、腕時計を集めることだった。
「ほーん」とだけ私は返した。
男がどんな時計を何本持っているのか、私は全てを把握していないし興味もなかった。
私が1本だと思っている時計が実はよく似た複数本の時計であったかも知れない。
そんなにたくさんの時計を持ってどうしたいのか解らないが男は「もはや血だから」と言う。「その血、貸して見して触らして」と私が言うと男は少し不機嫌になる。私よりも(もしかしたらその男自身よりも)愛しの時計たちは丁重に扱われている。
とにかく私には良さの解らないその時計の話をする男の目は、やけに輝いていた。
その日も男はその頼りない腕に似合わない時計を着けていた。短針が1時を指している。
高い時計を着けているのに他の持ち物が安物だとちぐはぐで格好が悪いので、着るものにも気を遣うことにしたその男。
門出という程ではないが、新しい武器を求めて隣町まで散歩、といったところか。
「メニューとって」
入店後、その時計屋は何も注文していなかった。私は手元のメニューを時計屋に渡す。
「おうふ。すまぬ」
気の利かない人間だと、自分でも思う。
メニューを受け取った時計屋がなかなか注文するものを決めないので、その間宇宙人が表紙を飾るファッション誌を眺めて暇を潰すことにした。
「女殴りそうなツラしてやがんなあ」
と言いながら表紙を読了。
中のページを見ていくと、部下を追い詰めて退職に追い込みそうな顔のオフィスカジュアルスタイルの男や、馬鹿大学卒業のくせに持ち前の明るさと心無さが功を奏して社内でそこそこのし上がったあと子会社に管理職として出向して生え抜き社員の出世を邪魔しそうな濃いグレーのスーツの男や、生まれながらに世界から祝福されていて勝負ごとに負けたことがない人でなしですと顔に書いてある男が載っていた。
時計屋に語りかけてみた。
「ちと君とは合わなくないかい、時計屋さん」
随分と大掛かりな散歩ではないか。
「気分は『時の果ての世界』なんだよ」
時計屋が言うのは、人類が地球を捨てて遠い宇宙の星を目指すSF小説だった。
「やっぱり宇宙に行くつもりなのかいお前さんは。この星に移住したらあんた浮くぜ。重力の違いとかじゃなく」
「何がだよ」
「例えばストライプのスーツなんて君が着たら熱湯かけられるんじゃないかい。何者かに」
「俺の身の丈問題よりも、俺のジャズマスターが本当の意味で俺のジャズマスターになることが大事だ」
「地球語でどうぞ」
これから宇宙に飛び出すにしては計画が雑すぎないか。
私に話し掛けられて思考が邪魔されたのか、時計屋はまだメニューを見ていた。
時計の針 ハヤシケイスケ @KeisukeHayashi
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