新入社員

こなか とも

第1話

新入社員


 「あぁっ、もう、なんなのよ」


 そう呟きながら、道とはいえない道を歩く。


小さく雨が降っている。今まで降った雨でぬかるんでいるのか、歩いても歩いても一向に前に進まない。それでもどうしても、その道を進まなきゃならない気がして、私は前に前に足を動かした。



全体が漆黒に包まれた冷たい空間。ひっそりと静まり返った森の中は、目の前でさえ見えなくて、私の息遣いだけが響いていた。


「はぁ、はぁ、はぁっ」


今にも滑り落ちやすい足元なのに、つい無意識に、気を抜いてしまった。

その瞬間…


「うわぁぁっ…っ!!!」


暗闇の中にいやおうなしに、足をとられる。


(どうしよう、吸い込まれるっ!)


足元から、底のない暗闇に落ちていく瞬間、


「はぁぁつ!!!!」


と、目が覚めた。


(なんだったの、夢だったの…)

 

そう思った私は、小さくふぅと息を吐き、会社へ向かう準備をしようと起き上がった。


(あれ、昨日の夜ってたしか、飲みに出かけて……)


どうしてなのか、昨日のことが思い出せない。二日酔いか? 私は、思い出せない事に引っ掛かりながらも、支度を急いでいた。


 気分が押しつぶされそうになるほど、人が重なり合う満員電車を降りて、駅からそう遠くない職場に向かう。特別大きくはない会社であったが、少ないスタッフながらも、着実に業績を伸ばしていた。大学を卒業後、私はすぐにこの会社に入社した。入社してからの8年の歳月は本当にあっという間で、会社での居心地も良いものになっていた。


そう、あの日までは。


「…っはようございます」


聞こえるかどうかわからないような声で、朝のあいさつを交わす。しかし、私に挨拶をしてくれる人はだれもいない。「あの事」が起きてから、私は人というものが怖くなった。「あの事」が起きるまでの私は、自分で言うのもなんだが、明るくて元気で、笑顔の絶えない人柄だったと思う。仕事もしっかり取り組んできたし、結果だって期待以上のものを残してこれたと思う。周りとの人間関係もうまくやってこれていたはずだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         


それなのに、どうして自分だけがこんな目に…。


(それもこれも、あの女のせいだ……)


許せない、許してやるものか…と毎日毎日、心に思い返す。苦しい気持ちだけが積み重なって、いつしか周りの人間にまで、敵意を向ける自分になっていた。

        

                  ※


 それは私が入社して6年目が過ぎたころのこと。


数名の社員が同時に入ってきた。その中で彼女と出会った。


「初めまして、新藤みちるです。宜しくお願い致します。」


明るく、しっかりとした印象の彼女はその日から私の後輩となった。


「新藤さん、わからないことはなんでも聞いてね。宜しく。」


「こちらこそっ、宜しくお願いします。」


そう、この日がすべての始まりだったのかもしれない。


いや…。

終わりだったのかもしれない。


 彼女は本当に可愛い後輩だった。私に対しても、周りに対してもとても気の付く優しい子だった。私たちはよく、ランチも一緒にしたし、仕事帰りには食事にも行った。良く食事に行ったお店は取引先でもあったから、仕事もしやすかった。性格のいい彼女は、取引先の人達にも人気で彼女はどんどん人気者になっていった。


 

いつも会社と自宅の往復だった私は、久しぶりの後輩がたまらなく嬉しくて毎日会えるのが楽しみだった。いつしか、みちるに話しかけること、顔を見ること、絡むことが私のエネルギーになっていた。



「新藤さん、これコピー50部、お願いできる?」

「はいー、かしこまりましたっ」


「新藤さん、これ電話で伝言、お願いできる?」

「はいー、かしこまりましたっ」


「新藤さん、これ明日までに、お願いできる?」

「はいー、かしこまりましたっ」


「新藤さん、これ来週までに、お願いできる?」

「はいー、かしこまりましたっ」


「新藤さん、これ今日までに、お願いできる?」

「……。」 


「うるさい」



 新藤さんが入社して6ヵ月が過ぎようとしたころ、新藤さんは変わった。俗にいうと、たぶん…切れてしまったのかもしれない。


私はこれが当たり前の仕事だと思い、平等に、同じように仕事に取り組んでいたつもりなんだが…。訳が分からない。頼んでいた仕事に対して思いもよらない言葉を受けた私は、


「え?」


と立ち尽くしてしまった。そんなに無理難題を押し付けるわけでもないはずなのに、どうして、こんなことを言われなくてはいけないのだろう。あんなにかわいがっていたのに…。カチンときたが、会社のみんなが見ている手前、丸く収めた方がよかろうと、


「あっ、あぁ、大丈夫?新藤さん、体調悪いのかな?」


とにかく早くその場を収めなければと、精一杯の作り笑いをした。そそくさと居心地の悪い雰囲気を後にし、ひきつる顔で私が何かしたのかと思い返す。


特に思い当たることはなかったが、次の日から、新藤さんが精神的に負担にならぬよう人一倍、言葉にも気を遣うようにした。


「おはよう、新藤さん!」


いつも以上にさらに明るく、新藤さんに話しかける。


「おはようございます!」


いつもと変わらない、いつも以上に明るく溌剌とした挨拶が返ってきた。


(あれ?昨日のは、何だったんだろう)

と、少々、気になりながらも通常の業務に戻る。


「新藤さん、、コピーお願いできるかな?」

「はいー、かしこまりました」


いつもと変わらない答えに内心、ほっとしていた。安心した私は、なんだ、気にしすぎだったかと反省した。それにしても何だったんだろうと変な違和感だけが残った。しかし、安心したのも束の間だった。

 

それから数日後、私は、人事部から個別に呼びだしを受けることになる。


                ※


 「君、呼び出されたワケがわかるね?」


 「…はい?」


人事部の部長自ら、取り調べのようなことをされる理由が、わからなかった。しかも、「わかるね?」と聞かれてもわかるはずがない。何もやましいことなどなかった私は、理由もわからず困った顔をしていた。


 「全く君は…なんてことを…。新藤君に悪いと思わないのか?」

 「え?まさか」


まさか、当たり前のように、仕事を頼んだことがこんなに大きくなるとは信じられなかった。ましてや、自分も、6年間も会社に貢献してきたというのに、信用してもらえないとはどういうことだろう。


 「仕事として当たり前の作業を教え、指導してきたまでです」


そう伝えた瞬間、目の前の部長の顔が軽蔑するような眼差しに変わった。


 「クビも覚悟するんだな」


(はぁ?あんなことでクビだと?)

こっちは、精神的に負担にならないようにと、精神的に“気”まで使っていたのよ。

ふざけんじゃね-。


 「え?私がクビ?なんで、どういうことですか」

 

 「言わなければわからないのか」


興奮気味に畳みかけるように話す部長の態度に、何のことやら分からず、どういう事かと問いただした。


部長は少し声を小さくし、話し始めた。


「きっ、君が新藤くんにやらせた、取引先への接待だよ!君に強要されて、何度も取引先との重役たちと相手をさせられたと…。新藤君から、訴えがあったんだ。それが相手の取引先にも、うちの社長の耳にも入り、もう、うちは!大変なことになっているんだ!」


話しながら、顔を真っ赤ににして話す部長なんかどうでもよく、今、この人は何を話してるんだろうと耳を疑う内容だった。


「意味が分からない…」


そう呟く私に、今度は部長が怒った声で叫んでいた。


私は目の前の人が何を言っているのか分からず、これまでの事をゆっくりと思い返していた。


確かに営業と称して新藤さんと取引先のお店に飲みに行くこともあった。でも必ず、帰りは先にタクシーに乗せていたし、取引先の方には自分が間に入って話をするようにしていた。


とても信じられない。


絶対にありえない。


一方的に疑われている怒りで、思わず震える唇をなんとか動かした。


「そんなっ、ありえませんっ。やってません、わたし!!!彼女とっ…、新藤さんと…話をさせてください!」


 部長は困惑した顔で呟いた。


「やっぱりまだ、聞いとらんのか…」


少し溜息をついた後、部長は周りに漏れないよう、潜む声でこう続けた。


「今朝、自宅で自分の首を切って運ばれたんだ……」


 今朝から、欠勤していた新藤さんは体調不良と聞いていた。時間調整のため一人遅く出勤した私は、会社の微妙な変化には全く気づいていなかった。


「なんで…それで…彼女はっ…」

唇と手の震えが止まらない。


「…鹿野市の北浜病院に、運ばれて…」


病院名だけ耳に伝わった後、私の耳には何も入らないほど真っ白な状態になった。


すぐにでも、彼女と話したい。


 どうしてそんな嘘をついたのか、どうして自分の首を切ったのか、なぜ私のせいにするのか、聞きたいことはたくさんあった。しかし、意識の戻らない彼女と周りからの拒絶のせいで病院に向かうことさえ、許されなかった。

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