【旧作】トラいろ

カレーだいすき!

第1話


 トラボルタがうちに来たのは、もう十三年も前になる。

 高校受験を控えた夏休み。どういう経緯かは忘れてしまったが、弟と母が知人から譲り受けてきた。

 両の手の平に収まるそいつは、家族に抱きかかえられたことで気がついたのか、目を覚ました。俺のところに回ってきた時、そいつは右手に噛み付いてきやがった。

 人間にとって……いや、動物、静物に限らず、出会いというのは印象を作る一番重要な部分であるはずなのだ。それでいけば、この小さな生命体との出会いと印象は俺の中で最悪なものだったと思う。

 家族には抱き方が下手だの、匂いが駄目だとか色々と言われたが、見知らぬこいつに噛み付かれたことの方が、俺にとって1番の憤慨の種だった。

 夕食中の家族会議で、俺に噛み付いた憎たらしい生命体に名前をつける事になった。家族は皆真剣に「タマ」だの「ポチ」だのと言っている。

 俺はアジフライを皿に取りながら、奴の方を見た。そいつは昼間俺の手に噛み付いた後、夕方まで散々鳴き散らし、気がつくと仏間に敷いたお寺さん用の座布団の上で丸まって眠っていた。

 トラ色をした未知の物体。あるようでない名前。

 全員があれこれ言う中、俺は小さく


「トラ……ボルタとか」


と言った。

 「それはない」と一同が鼻で笑う。結局、一蹴されたものの、「トラ毛だから」という理由で、奴の名前は「トラ」になった。結局俺の言った名前で良かったのではないかと、その当時斜に構えていた俺は、ひとりだけ「トラボルタ」と呼ぶことにした。

というわけで、俺は奴を今でもトラボルタと呼ぶ。


 トラボルタの順応と成長は恐ろしく早く、来て一週間もしないうちに家中を走り回り、引っかきまわった。殊、兄弟たちが暇さえあれば触ったりするものだから、懐くのもあっという間だった。

 ――俺の所には、奴の機嫌が悪い時に、突進して来るだけだったが。

 貰ってきた先方の躾がよかったのか、トイレと飯だけはわきまえている奴だった。兄弟たちと遊んでいると途端に興味をなくしたかの様にふいと向き直り、トイレ用に汲んである砂の上に乗っかり用をたす。飯もキャットフードしか与えていないからか、テーブルの上には乗っかろうともしない。飼い主に似るという言葉があるが、うちの誰に似たのだろう。

 しかし、アグレッシブなのが可愛いのは、精々最初の数週間だ。

 一番ひどかったのは「眠る場所」だろう。

 最初、トラボルタは居間の座布団の上で眠っていた。ある寒い日の晩、家族の誰かが、トラボルタを自分の布団の中に入れて寝たので味を占めたらしい。以降、奴は「寝るときは布団」と覚え、誰かしらの寝床にこっそり入ってくる様になった。そのまま丸くなって眠っていれば可愛いものだが、そうも行かない。


 トラボルタは恐ろしく寝相が悪かったのだ。


 転がる、伸びる。挙句に招き入れた人間が邪魔だと感じたら、噛み付いて移動させる。それは日に日に激しくなっていった。人間以外の動物というのは腹を見せないと友人より聞いていたが、その頃の奴は「仰向けじゃないと眠れない」が基本になっていた。最初の頃の様に、しおらしく丸くなる素振りなんて微塵も見せようともしない。なんて奴だ。


 やがて俺は大学に合格し、家を離れた。とはいえ、年末には帰れる位の距離にあったので、左程寂しい思いはしなかった。が、暫く離れたことが奴と俺との間に軋轢を生み、更に戦火を広げることになったのである。

 たまの長期休講で帰ると、奴は全身の毛を逆立て、手脚を地面からめいいっぱい伸ばし、威嚇してきたのだ。

 少なくとも半年は居たのだから、覚えておいてほしいものだとこぼすと母は言った。


「やっと居なくなった人間が戻ってきたら、そりゃ『なんで帰ってきた』になるでしょうよ」


 まぁいい。たかが猫のすることだ。大目に見ようじゃないか。

 そう思っていたのだが、事もあろうに奴は居なくなった俺のベッドを自分の寝床にしていた。こればかりは大目に見れない。季節は冬真っ只中。古い家だったので隙間風も酷い。ここは奪還せねばなるまいと思った俺は、相変わらず仰向けに寝ているトラボルタをベッドの傍にあるクッションに移し、布団に入った。

 が、やはりそれは気がつくらしく、奴は体勢を変え身構えると、寝ている俺に突進してきた。体ごと俺の頭にぶつかり頭を踏み台にして反対に移ったかと思ったら奇妙な声を上げ、今度は俺の首に噛み付いてきた。

 猫が人に噛み付くとき「あまがみ」という行為があると聞いたが、その時の奴はあきらかにこっちの命(たま)をとろうと決意したそれだった。そう、あまがみではなく、ちっとも甘くない方の噛み方だった。

 叫びながら奴を引き剥がそうとするが、向こうも遊びでやっているわけではない。簡単には引き下がろうとはせず、俺の首にしがみついたまま、あちこち噛み付く。家族が何事かと駆けつけてくれば事は収まったのだが、何故か起きて来ない。これは夢なのかと疑うくらい起きて来ない。

 結局、双方援軍の無いまま戦いは未明にまで及び、トラボルタは俺と殆ど同時に疲れ果て、この争いが不毛だと感じたのか一声「にゃあ」とだけ鳴くと、布団を前足でポンポンと叩き、その中へと潜った。

 俺も眠気には勝てず、布団の中へ入るとそのままあっという間に眠ってしまった。

 その後、昼まで起きて来ない俺を心配した家族が、首中血まみれになっている俺を発見し大騒ぎになったのは別の話。


 数年後、遠い場所での仕事に疲れ、帰郷した俺が聞いたのは、トラボルタが何日も帰ってこないという知らせだった。

 猫はその死を飼い主に晒さないのがポリシーなのだと、友人に聞かされていた俺は、とうとう死んだのかと思っていた。

 その矢先、なんと奴は帰ってきた。フワフワの寅毛は赤黒い色でベッタリと固まり、左目が傷で塞がれていた。右足を地面になるべくつけない様に短い歩幅でヒョコヒョコと歩く様は非常に痛々しかった。

 奴はストーブの前に陣取ると、いつもの仰向けでなく、体を丸めて動かなくなった。家族は呼びかけるが、奴は動かなかった。この界隈の猫の喧嘩が激しいのは知っていたし、トラボルタ自体、喧嘩が弱いらしく、小さな傷をつけてきたのはあったが、ここまで重症なのは誰も見たことがなかった。


 「だめかもしれん」


 誰かが言った。

 可哀想だが、死んだら埋めに行くか。ペット葬儀とやらがある、等と話していると、トラボルタが頭だけ僅かに起こし力なく一声鳴いた。

「死んじゃいねぇよ」と言わんばかりのその一声は絶妙なタイミングだった為、その場に居た全員は顔を見合わせた。


「はて、猫というのは長く生きると人様の声が話せると聞くが、こいつはとうにそれになっているんじゃないか」


 そう祖母が言った。


「猫は長生きすると猫又になるというがそれは何年も生きた猫がなるものであって、こいつはまだそこまで生きていない」


 弟が返した。


 トラボルタは俺が帰ってきて四昼夜、まったくストーブの前から動こうとしなかった。あの日鳴いてからは一度も声を発さず、息をしているだけだった。

 ある朝、俺が居間に下りると、それに気がついたのか、トラボルタはヨロヨロと頭を上げ「にゃぁ」と鳴いた。

 やっと声を発した奴に驚く俺を気に留めず、奴は震えながら立ち上がると、右足を上げたまま歩き、床の間に置いてある水盆の水をガブガブと音を立てて飲み始めた。俺はその間に家族に知らせ、両親が来た頃、奴は元の位置にヒョコヒョコと戻り、再び丸くなった。

 俺がその休み中に見たトラボルタはそれだけ。


 そしてもっと数年が経過した。


 今でも奴は夜毎どこかに出かけ、決まった時間には引き戸を器用に開けて帰ってくる。ボロボロだった身体も今は昔。すっかり治り、逆に図太さに磨きがかかった様子で、家では豪胆に振舞っている。最近では家族全員でテレビを見る時にはその間に入り、テレビを見る。チャンネルを変えようとすると、尻尾でリモコンをはたき、チャンネル変更を阻止したりもする。

 なんて奴だ。

 ひょっとして気づかぬうちにこいつは早いうちから、俺達の気づかぬ間にどこかで油でも舐める猫妖怪にでもなったのではないか。


と、時々思う。



(初出 二〇一〇年 十二月)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【旧作】トラいろ カレーだいすき! @samurai_curry_guan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ