記念日

 夕食を終えると、おひろはいつも通り板の間の台所で洗い物をしていた。鯉之助は襦袢を着て、敷布団の上であぐらをかき、おひろが寝る準備を整えるのを待っている。表通りで木戸番きどばん拍子木ひょうしぎを打ち鳴らしながら、暮れ六ツ半(午後7時)を知らせている。三社祭を前日に控えた、三月中頃の夜のことだった。

 おひろは洗い終わった食器を流しの上に置いたたらいに伏せ、座敷に戻って帯をほどき始めた。ほどなく襦袢姿になると、きちんとたたんだ着物と帯を乱れ箱にしまい、後ろで結っていた髪をほどいた。行灯の火を消して夜着に潜り込み、体の熱を分けてもらうように鯉之助の体に擦り寄る。すると鯉之助は顔を赤らめ、緊張しておずおずと手を伸ばし、ようやくしてそっとおひろの肩を抱き寄せた。おひろは鯉之助の腕の中でほっこりとくつろいだ気分になり、早くも瞼が重くなってきていた。

「明日、一緒に三社祭行こうね」

「それなんだけどよ……」

 おひろの誘いを断りかけて、鯉之助は口をつぐむ。おひろが今にも寝入りそうな声で続きを促すと、鯉之助はまだためらいがちに会話を続けた。

「明日は隅田堤に花見に行かねえか。祭は明後日もあるわけだし、長命寺の桜餅食わしてやるから」

 隅田堤は、隅田川の向島側に位置する土手である。木母寺から上島村上り場辺りまで桜並木が続き、花が満開の時期を迎えると、それは「長堤十里花の雲」と称せられた。上野の東叡山寛永寺、王子の飛鳥山と並び、現代でも春になると多くの花見客が訪れる桜の名所である。

 しかし浅草の住人にとって、三社祭は正月と変わらないほど重要な行事である。明日は祭に行くものだと思っていたおひろは呆然としたが、少し間を置いて了承した。

 翌朝、鯉之助とおひろは朝五ツ(午前8時)に裏長屋を出て、三社祭の準備でにぎわっている花川戸の表通りを歩いていた。

 紅梅色に桜の文様が入ったよそいきの振袖を着たおひろが、一方的に鯉之助の手を引いて先を行き、その一歩後ろから照れて仏頂面を浮かべた鯉之助がついていく。おひろは花見のためにおしゃれをし、浮き立った様子で鯉之助の前を歩いているが、普段着の紺鼠の小袖の上に褐返かちかえしの羽織を着た鯉之助は、周りの視線を気にして、やや俯きながらおひろの後をついていった。

 二人は枕橋を渡り、対岸の向島に着くと、隅田堤に沿って長命寺に向かった。長命寺名物の桜餅を4つ買い、また少し歩いてから川沿いに下り、桜の木の下に腰を落ち着けた。三社祭があるせいか、隅田堤に人影は見られなかった。

 まだ少し肌寒いが、優しい春の陽射しの中で桜の花びらがひらひらと舞い落ちている。おひろは頭上に伸びる桜の枝を見上げ、花の間からこぼれる木漏れ日に目を細めた。隣に座った鯉之助もおひろに倣って枝を見上げた後、木箱を開けて桜餅をひとつおひろに差し出す。

「おひろ」

 名を呼ばれ、我に返ったおひろは、嬉しそうに礼を言いながら鯉之助から桜餅を受け取る。おひろは筒状の桜餅を包む葉を3枚とも剥がし、白く透き通っている薄皮に目を輝かせ、一口かじってじっくり噛みしめる。半年間塩漬けされた桜葉から移った薄い塩味と、こしあんの控えめな甘みが口いっぱいに広がり、おひろは少しの間幸せそうに噛み続けて、飲み込んでから感慨深げにため息をついた。

「おいしい」

「うん」

 鯉之助は葉を一枚残して巻きつけた桜餅を噛みながらうなずいた。おひろは前に向き直ると、二口目をかじり、さっきと同じように味わいながら咀嚼する。鯉之助も顔には出さなかったが、桜餅のおいしさと、それに喜んでいるおひろの明るい笑顔に内心満足していた。そよ風に運ばれた桜葉の芳香が鼻をくすぐっている。

「俺の分もう一個食っていいよ」

「本当? ありがとう」

 早々と桜餅をひとつ食べ終えた鯉之助が、おひろにもうひとつの自分の取り分を勧めると、おひろはまた嬉しそうな笑顔を鯉之助に向けたのだった。

 二人が桜餅を食べ終え、一息ついている中で、隅田川の対岸の浅草から祭の始まりを告げる大太鼓の轟く音が聞こえてきた。それに締太鼓の軽快な拍子、篠笛の大甲音とかねが合わさり、心を踊らせる祭囃子となる。

 おひろは遠くから聞こえてくる祭囃子に、今からちょうど一年前の出来事を思い起こし、ぽつりと鯉之助に投げかける。

「私と鯉ちゃんが初めて会ったの、三社祭の初日だったね」

「うん」

 鯉之助とおひろは去年の三社祭の初日に、今頃華やかな出車だしの行進でにぎわっているであろう浅草花川戸で出会った。鯉之助の養父の身内に追いかけられていたおひろが、偶然目の前を通りかかっていた鯉之助に助けを求め、かばってもらったことをきっかけに知り合ったのである。それから間もなく付き合いが始まり、当初内面的に荒れていた鯉之助は次第におひろに密かな恋心を抱くようになり、おひろもそれに呼応するかのように鯉之助を慕うようになっていったのだった。

 年の暮れに鯉之助の養父が抜け荷の罪で捕まり、家財を差し押さえられ、傷つきながら路頭に迷うことになった鯉之助をおひろは助けた。鯉之助はそれまでの渡世人稼業から足を洗い、堅気になることを誓っておひろに愛を告白した。今ではなんとか生活できるまでに立ち直り、今日に至るまで幸せな日々が続いている。

「寒くねえか」

 周りに見ている人がいない中、鯉之助は照れ隠しにひとつ咳払いをして、そっとおひろの肩を抱き寄せる。おひろは鯉之助の着ている羽織を自分の肩にかけると、甘えて鯉之助の胸に上体を預けて微笑みかけた。そのくすぐったさに鯉之助も思わず顔がほころび、二人はしばらくの間互いに顔を見合わせて笑った。

 日がだいぶ高くなり、眠気を誘うようなうららかな春の陽気に包まれながら、鯉之助とおひろは幸せに満ちあふれた気持ちで寄り添っていた。もう半刻は経っただろうか、二人の上には桜の花びらが降り積もっていた。

 鯉之助がおひろの頭の花びらを払い落としてやろうと横を見ると、俯いてうっすらと微笑みをたたえたおひろが、まるで白い綿帽子を被った花嫁のように見えた。鯉之助は一瞬どぎまぎしたが、冷静になりながらおひろの頭を撫でて花びらを落とし、そのままつややかな黒髪に口づけして、頬を擦り寄せた。

 なおも桜吹雪舞う二人きりの隅田堤で、来年もここに来て、おひろと出会った日を祝いたいと鯉之助は願っていた。

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春風 あい @rokuane

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