春風

 風に吹かれて、腰高こしだか障子がかたかたと揺れている。九尺二間くしゃくにけんの閉ざされた小さな宇宙の下で、鯉之助はその音がどこか遠くで鳴っているかのように、ぼんやりとして聞いていた。

 丸火鉢の炭は、とうに真っ白の灰になって燃え尽き、部屋の温度は下がっていく一方だった。たった一着の夜着からはみ出ないように、鯉之助は隣で眠っているおひろの体を、壊れ物を扱うかのようにそっと抱き寄せた。武術の鍛錬で鍛えられた自分の体と比べると、おひろの体は一回りも二回りも小さく、鯉之助の男としての庇護本能を自然と働かせるものだった。

 不意に冷えた足が、鯉之助の脛に当てられた。思わず上げてしまいそうになった声を飲み込んで、代謝のよい温かな体の熱を分けるように、いよいよおひろを抱きしめて密着するかたちになる。

「……寒いな」

 腕の中にいる相手は、依然としてすやすやと安らかな寝息を立てているのに、照れ隠しに鯉之助は赤い顔でぽつりとつぶやいた。

 二人だけの宇宙の外で吹く風は勢いを強め、腰高障子が先ほどよりも大きな音を立てて揺れており、さらには隙間風までもが入ってくるほどだった。逆立てられたざんぎりの髪が揺れ、鯉之助はぶるりと身震いをして、夜着の中で身を縮こませる。

「……温かいよ」

 予期せぬ返答に、鯉之助はぎょっと目を見開いた。

 暗がりの中で、頬擦りしたくなるような可愛らしい笑みを浮かべて、おひろは鯉之助を見上げていたのだ。

 鯉之助はとっさに離れようとしたが、華奢な腕を背中に回され、動けなくなってしまう。

「鯉ちゃんの体、すごく温かい」

「そ、うか」

 声が上擦った。あまりの気恥ずかしさに、平常よりも体温が上がっていくのを、鯉之助は感じずにはいられなかった。耳まで真っ赤に火照った顔は見られなくとも、この高まった熱と鼓動の早さは、相手に知られてしまっただろう。

 なんとか落ち着こうと、冷静になって思考を巡らせ、鯉之助はおひろに話しかける。

「お……起こしちまったろ、ごめんな」

「ううん」

 寝起きながらも、明るい調子でおひろは返した。朴念仁ぼくねんじんの言うことは、まるで的を外しているようだった。

 おひろはさして気にしていないのだが、会話をつなげようと、鯉之助は次の言葉を探す。

「二月も終わろうとしてんのに、昨日っから風が強いな」

「きっと北風が、春を引っ張ってきてるんだよ」

 ぎこちない動作で髪を撫でられながら、おひろはそれがくすぐったそうにくすくすと笑った。

 冬の寒さをはらんだ北風が、空にたれこめていた灰色の雲を掃いて、優しい春の太陽を呼び戻してくる。

 鯉之助は江戸に縄張りを持つ渡世人一家の貸元に拾われたがために、幼い頃から堅気衆に白い目で見られ、自分も堅気になりたいと訴えると、その意志を打ち砕くかのように養父から手ひどい仕置きを受けていた。

 冷たく陰惨な渡世の道を無理やり歩かされ、苦しんでいた鯉之助を助け出したのは、当時お城のお庭番だったおひろだった。

 おひろは将軍の命を受け、鯉之助の養父が町奉行に抜け荷の手引きを受けていることを暴き、鯉之助と二人で協力して犯人達を刑罰に処させたのだ。

 町奉行は閉門を命ぜられ、養父は磔にされ、鯉之助はようやくそれまでのしがらみから解放された。一連の事件が終わり、やがて安息が訪れた時に、鯉之助はおひろに心の内を打ち明けた。不器用で、精いっぱいそうな愛の告白を、おひろは優しく微笑んで受け入れてくれたのだった。

 一年にも満たない程度の過去の出来事を、鯉之助は回想していた。思えば去年の三月の三社祭に、養父の身内に追いかけられていたおひろをかばったことを全ての始まりに、今日までの穏やかな日々は結びついている。

 まるで絵空事だが、もしもおひろが春を引っ張ってきた北風だとしたら、彼女の言っていることはあながち間違っていないのかもしれない。

「昨日は春一番が吹いたけど、その次の日って寒くなることが多いんだって。でも春が近づいてるのは確かだよ。楽しみだね」

 そう言って嬉しそうに笑っていたおひろだったが、それから数分と経たないうちに、再び眠りについてしまっていた。おひろが眠ったのを確認すると、鯉之助もそろそろ寝ようと目を閉じる。

 二人の眠りを妨げないためか、風はいつのまにか弱まっていた。

 九尺二間のこの裏長屋の一室は、かつて住んでいた町家と比べものにならないほど粗末な住居だが、鯉之助はこれまでなかったほどの幸せを感じていた。

 もうしばらくは寒い冬が続くかもしれないが、いつかきっと暖かい春が訪れるのを、愛しい人を隣に待っていられるのだから。

(俺にも、きっと)

 闇だけが広がっていた虚空が明るくなる。

 意識なき意識の中、鯉之助はおひろと抱き合ったまま、桜の木の下で幸せそうな笑みを浮かべたまま眠っていた。

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