春風

あい

傷痕

 空は灰色の分厚い雲に覆われ、ろくに日が射さない日が続いている。年も暮れに近づき、めいっぱい厚着をした上に綿入り半纏を着ても、火鉢がないと寒さをしのげないほど、江戸の厳冬は本格化していた。

 そんなひどく寒気立つ気候の中でも、浅草花川戸はなかわどの表通りの沿道には大勢の野次馬が群れを成していた。今日、一人の渡世人とせいにんの男が、抜け荷の罪によりはりつけに処されるからであった。

 磔とは主に関所破りや贋金にせがね作り、親または主人を傷つけた場合などに適用される死刑である。受刑者を十字形の柱に縛り、左右から槍で30回ほど突いて殺す公開処刑で、その前に市中引き回しが付加刑として行われる。

 市中引き回しとは罪人を裸馬に乗せて市中を回る見せしめであり、磔の場合は五ヵ所引き回しの上、鈴ヶ森か小塚原の刑場に送られる。この男は鈴ヶ森で磔にされるから、小伝馬町の牢屋敷を起点に浅草、小石川、四ツ谷、赤坂、品川と引き回される。また刑場が小塚原だと、その逆に品川、赤坂、四ツ谷、小石川、浅草の順に引き回されるのである。

 男はかつて浅草花川戸の町家に住み、口入屋を営むかたわら高利貸しとして、抜け荷の他にも様々な悪事を働いていた。そのために、花川戸には男に鬱憤うっぷんを抱えた大勢の人々が集まってきているのだった。引き回しの行列はまだかと皆待ち構えていたのである。

 今、花川戸の表通りは道の両側に構えた全ての商家が表戸を閉めきり、普段のにぎやかな雑踏はなく、沿道に集まった人々がひそひそとささやき合う不気味な静けさに包まれている。そこから木戸をくぐって路地裏に入り、狭小な家が何軒も連なる棟割むねわり長屋の一室に、19歳の二枚目役者さながらの青年・鯉之助こいのすけと16歳の童顔でかわいらしい娘のおひろだけが残っていた。近隣の住人はほぼ出払っているというのに、二人とも引き回しの行列を見物する気などさらさらなさそうだった。

 たすきをし、板の間の台所に立ったおひろが、やかんから沸いたばかりの湯を桶に移している。鯉之助は丸火鉢を前にあぐらをかき、手をかざして暖を取りながら、なんとなしにそれをながめていた。ほどなくして、おひろは湯の入った桶を持って座敷に戻り、鯉之助の後ろに座った。

「鯉ちゃん、上、脱いで」

 言われるままに、鯉之助は肩から紺鼠こんねずの小袖を滑り落として諸肌脱ぎになる。武術の鍛錬で鍛えられた、たくましい上体があらわになる。しかしその張りのある浅黒い肌の上には、思わず目を背けたくなるような生々しい傷痕が至る所に残されていた。

 おひろはそれを気にする素振りもなく、手拭いを湯に浸けて固く絞ると、特に傷痕のひどい背中を拭き始めた。大きな背中一面に痣がまだらに広がっている。中には細かな擦り傷や裂傷、腫れが引かずそのまま肉が盛り上がった箇所がいくつもあった。鯉之助は二年ほど前に傷痕をごまかすため背中に彫り物を入れたが、それもかえって痛々しく見える原因にしかならなかった。

 おひろは鯉之助の体を支えながら、さするようにして背中を拭き、手拭いが冷たくなったところを見計らって湯に浸けて絞るを繰り返している。背中を拭き終わると、おひろは首から両手首までを拭き、鯉之助の前に回って筋肉の張り出した厚みのある胸板を拭き始めた。

 鯉之助は仏頂面をほんのり赤くさせて、彼の体を拭いているおひろを見つめている。桃色の小袖から伸びている白い二の腕が目につき、思わず生唾を飲み込む。不意におひろと目が合い、鯉之助は気まずさに顔を逸らし俯いた。おひろは一拍置いてかすかに笑うと、手拭いを桶の湯に浸けて絞り、鯉之助の正面に向き直る。

 鯉之助の左の脇腹には手の平大の紙が貼られていた。腹筋の割れた腹を拭いて、おひろがその紙を慎重に剥がすと、下から刃物で刺された小さな生傷があらわになった。ほとんど治りかけているが、膏薬の付着した傷口は赤く膿んでなんとも痛々しい。

 おひろは手拭いをだいぶぬるくなった湯に浸けて絞ると、傷口を手拭いの折り山で優しく拭き始める。

「痛くない?」

「大丈夫、だ」

 染みる痛みに鯉之助は顔をしかめているが、おひろに悟られないように気丈に振る舞う。おひろは傷口を拭き終わると、鯉之助の背後にある箪笥の中から美濃紙みのがみと大きなはまぐりの貝殻を取り出し、鯉之助の前に戻った。

 おひろは蛤を開けて使いかけの黒い万能膏ばんのうこうを指先ですくい取ると、美濃紙に塗りつける。おひろはこうして毎日鯉之助の上体を拭いた後、万能膏を塗った紙を貼り替えて、刺し傷の手当てをしているのだった。新たに膏薬を塗った手の平大の紙を鯉之助の傷の上にそっと貼りつけて、手当てを終える。

 その時、表通りが急に騒がしくなった。引き回しの行列が到着したのだった。

 六尺棒を持った男が二人、行列の先頭を歩き、その後にそれぞれ幟、捨て札、抜き身の槍を持った者が続く。木でできた捨て札には罪状が書かれており、さらに紙でできた大きな幟には罪人の名前、生国、罪状などが詳しく記されてあった。

 それから後ろ手に縛られて裸馬に乗せられた罪人が続き、その左右を徒歩の同心が固めている。罪人の後ろに馬に乗った与力がつき、最後尾に槍持ち、挟み箱担ぎといった供が与力に従った。この与力と同心が、処刑後の検死役を担っていた。

 群集は罪人を罵倒して騒ぎ立てていた。罪人の男はかつては恰幅がよかったものだが、今は見る影もなく病人のようにやつれ果て、顔が土気色をしていた。特に目の周りには痣のような黒い隈ができ、ぎょろぎょろと浮き出た目だけが生への未練に光っている。それはまさに死相であった。

「鯉ちゃん、行かないの」

 裏長屋の外で一斉に湧き起こった怒声を聞きながら、おひろは鯉之助を見上げて、しんみりとした口調で問いかける。鯉之助はおひろの顔を見ないように俯いて黙り込んだまま、着物の衿を掴んで袖を通していた。

「おとっつぁんに会えるの、これが最後なんだよ」

「いい。それより眠てえから布団敷いてくれ」

 おひろが鯉之助の両肩に手をかけて説得しても、鯉之助は聞く耳を持たなかった。おひろはしかたなく鯉之助から離れ、先に桶の湯を流しに捨てると、箪笥の横に三つ折りにたたんであった布団を持ち出す。ほどなく床を延べると、おひろは鯉之助の体を支えながら彼を敷布団の上にそっと横たわらせ、鎖骨の辺りまで夜着を引き上げてやった。

 鯉之助の体につけられた傷は全て、彼の養父によるものだった。捨て子だった鯉之助にとって、まるで本当の父親のように慕っていた養父に虐待されたことは、鯉之助の心身に深い傷痕を残した。その養父が死出の旅に出るのを見送ろうと思えないのも無理はないが、親に愛されて育ったおひろにとっては、どうしても納得しきれなかった。

 しかしおひろが町奉行の不正を暴くために諜報活動をしていたのが、鯉之助の養父が抜け荷の共犯者であることが芋蔓式に発覚しての死刑なのである。その判決に助力した者に何が言えよう。おひろはもう、これ以上鯉之助に干渉するべきではないと同時に悟っていた。

「おひろ、お前まだ仕事が残ってるだろ。俺は寝てるから、行ってこいよ」

 二人の間にしばしの沈黙が流れた後、唐突に鯉之助は側に座っているおひろに背を向けて横たわったまま、ぶっきらぼうな言葉遣いながらも、おひろに家事に戻るよう促した。

 平然を装ったつもりだっただろうが、声は湿っていた。おひろは感極まって、目に涙をためながら、たまらず鯉之助の体にすがりついていた。

「鯉ちゃん…… 鯉ちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい……」

 それだけ絞り出すと、おひろは堪えきれずに嗚咽を漏らす。その拍子に、鯉之助の両目からも堰を切って涙が流れた。なんとか堪えようとするが、いったん流れ始めた涙が簡単に止まるはずもなく、胸の奥底に抑え込んでいた感情と一緒にあふれ出ていく。

 鯉之助は脇腹の傷が痛むのを我慢して起き上がると、ぎゅっと強くおひろを抱きしめた。気を引くには十分な鯉之助の行動に、おひろは泣きじゃくりを上げながらも、鯉之助の顔を見た。涙で濡れながらも、まっすぐとした強い光の瞳とかち合う。

「お前が気に病むことはねえんだ。今はつれえが、俺は必ず立ち直るから」

 そう言って鯉之助は、自分よりも一回りも二回りも小さなおひろの体を、いっそう強く抱きしめる。鯉之助の言葉に胸がいっぱいになり、おひろは鯉之助の腕の中で胸板に抱きすがって、とうとう声を上げて泣き始めた。鯉之助の紺鼠の着物に、涙の染みが徐々に広がっていく。鯉之助はあやすようにおひろの背中をぎこちなくさすり始めた。

 鯉之助は結局、養父に会いに行くことはなかった。市中引き回しを終え、夕七ツ(午時4時)に鯉之助の養父は鈴ヶ森で処刑された。それから半刻も経たないうちに初雪が降り始め、磔にされたままの死体を覆い隠すように、降り積もっていったのだった。

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