黒猫の名は


 すべてを思い出したわたしは、茫然自失となり、その場にへたりこんでいた。しばらくそう過ごしていたが、ふとひとつの思いが頭をよぎる。


 ――死にたい。


 洸太と交際を開始させてから、わたしは彼と一緒になることを目標として生きていた。だって『初めて付き合った人と結婚する』というのがわたしの夢だったから。でも、その夢ももう絶対に叶わなくなってしまったのだ。それなら生きている意味なんかないじゃないか。


 わたしは、おもむろにその場から立ち上がると、重い足腰をなんとか動かす。そんな緩慢な動作のまま、のろのろとキッチンへと向かい、戸棚を開けて包丁を手に取った。

 そして、その切っ先を喉元ぎりぎりまで突きつける。


 恐怖はなかった。

 当然だ。わたしには洸太がすべてだったんだから。それを失ってしまっては、もうなにも残っていない。


 わたしは、目をつむり、人生の最後を迎える決意を固めた――

 ――が、


「みゃあ」


 と、不意にこの緊迫した状況にまるでそぐわない可愛らしい鳴き声が背後から聞こえた。わたしは、反射的に後ろを振り向いて声の主を見やっていた。


 そこにいたのは、わたしがコータと名付けた黒猫だった。薄暗い部屋に溶け込んでいたが、そんな中でもはっきりと目立つ黄色い瞳が真っ直ぐわたしを見つめている。


 いま思えば馬鹿みたいな話だ。わたしは洸太のことを忘れたかったはずなのに、別れを告げられた直後に出会ったこの黒猫にコータなんて名前をつけてしまったのだから。結局、洸太のことを全部頭から追い出しても、心では引きずっていたのだ。


 そんなわたしの考えを察しているかのように、黒猫はじーっとこちらを見つめて再び「みゃあ」と小さい鳴き声をあげた。それは、まるでわたしを慰めているかのように優しい声だった。


 ふと、わたしは自分が涙を流していることに気づいた。


 なんの涙だろう。


 洸太にフられた悲しみ?


 夢破れた絶望?


 違う。そんな涙はとうに尽き果てた。


 これはもっと暖かい涙――そう、希望。わたしはこの黒猫に希望を見たのだ。


「あ、あ……」


 わたしは、この黒猫を飼うと決めた時に瀬野さんに言われた言葉を思い出していた。


 ――生き物を飼うということは、その命に責任を負うってこと。無責任に途中で投げ出したり、逃げたりするのだけは絶対にダメだからね。


 小学生への注意勧告みたいだと思っていた。でも、今のわたしはそんなことすらも破ろうとしていたんだ。

 強く握っていたはずの包丁が、いつの間にか床に落ちていた。


 わたしは死んではいけない。だって、この子の飼い主だから。


 わたしは生きていたい。この子と一緒に。


 それがわたしの責任であり、希望だ。


「……ごめん、ごめんね。そして、ありがとう」


 わたしはぼろぼろと涙をこぼしながらも、黒猫を抱きしめていた。胸の内側がぽかぽかと暖かくなっていく気がした。


 黒猫は、わたしに腕の中で、すべてを理解しているかのように「みゃあ」と鳴いた。


 もしかしたら一番の被害者はこの黒猫だったのかもしれない。拾われたのはいいが、女の子だというのに飼い主に男の――しかも元彼の名前をつけられてしまったのだから。とばっちりもいいところじゃないか。


「お前に新しい名前をつけてあげなくっちゃダメよね」


 わたしは笑顔を作ってそう言った。

 この子と生きていくと決めたのにコータなんて呼んでいては、わたしも過去を振り切ることができないし、なによりこの子に悪い。だからこそ、新しい呼び名が必要であった。


「そうねえ、お前の名前は――」


 わたしは考えた。

 この黒猫の本当の名前を。

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黒猫の名は。 笛希 真 @takesou

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