第5話「新天地」

 この少年の動きによる揺れのせいか、私の感情の起伏の激しさのせいか分からないが、なんだかクラクラした気分になってきた。

 この親子が歩き始めてもう十分以上経ったはずだ。にもかかわらず、少年の動きは衰えるどころかむしろ勢いを増している。先ほどまで私と我慢比べをしていた子どもと同一人物とは思えない程の活発さだ。彼の盛り上がりと自宅までの距離が反比例していると仮定すれば、到着はもうじきかもしれない。

 こちらとしてはそれなりに回想も済み、出発前の興奮から落ち着くどころか、何なら自分の失態の可能性に気付き盛り下がり始めているので、ここらで少年宅にて心機一転したいところだ。ミスを感じればどうにか早急に挽回したいと思う心理は、人間も石っころも同様だ。自分の失敗を意識すると、人間でいう胸がどきどきして苦しい所謂胸騒ぎ状態に陥る。今更気にしても仕方がないのに、私は如何ほども駄目でどうしようもない存在だと感じてしまう。

 これは少々大げさに表現したかもしれない。だがそれほどまでに、自分の私は人間と同じく何気ないものへ目を向けていないという結論に面食らってしまったのだ。意外と私は気にしいというやつで、しかも情緒不安定な所があるのかもしれない。私の精神は人間に当てはめれば、思春期かそれ以前辺りの未成熟度なのだろう。


 突然この世界の重力法則が変容したかに思えた。その直前のピンポンという上がり調子の音も含めて考えると、これがいつぞやか疲れ切ったサラリーマンから仕入れた情報にあった、エレベーターというやつだろう。数十秒ほどはこの独特な浮遊感を体感していた。今この二人の目指す先が違わず自宅であるならば、その住居はマンションの一室と推定される。今度はパンッという高音が響いた。それと同時に中途半端な浮遊感も収まった。それとともに二人の移動も再開される。ここから目的の階層に到達したことがわかる。

 暫くして、ガチャという音が聞こえてきた。そして親子は少しズレながら、「ただいまー」と声を発した。どうやら漸く家に着いたらしい。もやもやが心に残ってはいるが、そのことは後で改めて考えればいいか。とりあえずはこの新世界を偵察するとしよう。

 偵察とは言ったものの、私の居所は相変わらず少年のズボンのポケットの中なわけで、今はまだこの家の内壁の材質すら分かり得ないでいる。「お帰りー。」しばらくすると、少年ともその母親とも違った、低くて疲れを感じる男の声が聞こえた。どうやら少年の父親のようだ。「ただいまー。」少年は無邪気に答える。「はい、ただいまー。」母親は父親につられて疲れの漏れた返事をみせた。街の喧騒から離れたこの場所では、彼らの声がよく聞こえる。

 ひとしきり挨拶を済ますと、父親は二人の帰りが遅かったわけを質問し始めた。私の身体を人肌が包む。少年は私を掌に載せ、宝石を見せびらかすかのように父親に差し出した。「帰る時、この子見つけたんだ。」少年は質問に端的に答えた。ポケットが作り出す防音室から解放され、親子の会話がよく聞こえるようになった。

 私の視界は、先ほどまでの毛玉交じりの灰色スウェットから、壁の白色や地面・家具の茶色、インテリアの緑色や黒色に変わる。モノクロからカラーに移った高度経済成長期のテレビのようである。これは単に今この視界の色味が増えたというだけでなく、近頃の退屈で色落ちした景色が改めて染色されたような感覚でもあった。世界がこれほどまでに生き生きとしているのは随分久しい。目をやるものが多すぎて視覚に集中が注がれる。聴覚に意識を向けるだけの集中力は残っておらず、折角親子の会話が籠らなくなったが、肝心のその内容は頭に入ってこない。視覚・聴覚・嗅覚・触覚の四感覚がここまで同時に刺激される経験は乏しく、その様々なベクトルの情報のどれをどのくらい如何にして取り入れるかを判断できず、結果的に視覚以外の三感覚を一旦機能低下させるという諦めともとれる対応に打って出たのだろう。ここは変に藻掻いて情報に溺れるより、取り込まれた情報のみを楽しむことにしよう。現状に慣れれば必然に親子の会話も理解できるようになるだろう。

 野菜の詰め放題の袋の中のように、乱雑に詰め込まれゆとりのなかった私の感覚器官が次第に落ち着きを見せ、親子の話に耳を傾けることができるようになった。親子は私について話している。少年はいたく私を気に入ったようだ。母親の方は如何にも同意しがたいという表情を見せている。父親の方は息子の考えを尊重していたが、そこにはいずれその興味が薄れるだろうという見透かしたような推測が含意されていた。これはあくまで私の希望的観測に過ぎないかもしれないが、少年が私への関心を失うことはないだろうという安心感があった。この少年は私という生命なき命の存在を感じ取った稀有な存在だ。他の人間とは違ってきっと特別だ。これから少年は私にどんな世界を見せてくれるのか、この新たな門出に胸が躍る。

 しばらくして母親が夕飯の準備をはじめ、父親と息子は食卓の席についた。少年は恐らく帰り道に母親にした保育園での出来事の話について、父親にも話している。言葉は拙いが、話の内容が単純なので理解はしやすい。母親はその二人を、料理をしながら穏やかに眺め、時々話に加わった。夕飯中もその団欒は続いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

小さきもの ヒコバエ @hikobae

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ