第4話「回顧と懐古」
改めて少年宅へ迎えられる喜びを噛みしめる。これまでも環境の変化は幾度も経験してきたが、人間の住処に入るのはこれが初めてだ。だからただ環境を移すのとはわけが違う。何かが大きく変わるのではないかと期待が膨らむ。
体の揺れは時々収まるが、直ぐにまた動き出すあたり、凡そただの信号待ちか何かだろう。時々聞き取れる親子の会話は、少年の保育園での出来事を中心に構成されている。少年はこの上なく上機嫌なようだ。歩きながら時折ジャンプしたりスキップしたりと激しい動きを繰り出してくるせいで私はぐるぐると回される。だが今はそれすら心地よい。実際は三六〇度回転の絶叫マシンのような劣悪な環境に曝されているわけだが、今の私にとってはメリーゴーランドのような優雅なアトラクションに感じられる。要は猛烈に楽しい気分なのだ。
私は意外と純粋なのかもしれない。ピュアさというものは、この少年のような子どもが占有しており、ある一定年数生きたものはみなこれを失うと私は捉えていた。だが私はこれを持っている。これは私が自分はピュアだと錯覚しているのか、はたまたその純粋性を失うほどの人生経験をしていないから今この瞬間ピュアなのか。きっと後者なのだろう。人間が年々不純になっていくのは、大方その人生経験の戦果だろう。たまにいつまでもピュアハートの持ち主のままな人もいるらしいから確かなことは分からないが。しかし今私は現状を邪推もせず、ポジティブ一辺倒な思考になっている。
まだ家に着きそうにないので、せっかくならもう少しこれまでを振り返ることにする。さっきは田んぼの畦道で自我が目覚めた頃を回想していた。思い返すとあの少女が居なくなった後、なんだかんだ色々なことがあった。
少女の次に私に接触したのは、恐らくその近所に住んでいる少し汚れた少年二人だった。彼らは遠くからでも聞こえるほど大きな笑い声を響かせながら私の下にやってきた。悪戯小僧といった出で立ちだ。彼らのうち小太りの方がまず私を蹴った。私は一メートル程前方に飛ぶ。すると今度はもう一方の比較的小柄な少年が私を思いっきり蹴った。次は三、四メーター程飛ぶ。彼らはケタケタ笑う。彼らは暫く交互に私を蹴り合った。だが十数ラリーの後、私は畦道と田んぼの間の溝に落ちた。私はびしゃびしゃに濡れ、彼らの声も正確に伝わらなくなる。彼らは私が溝に落ちたことも面白かったらしく、こちらを覗き込んで笑っているが、その笑い声はまるでスロー再生をしているかのような不自然さとボワボワとした雑音が混ざり合って、どうにも気味が悪かった。少しトラウマになりそうな感じだ。彼らに嘲笑の意図はないだろうが、私には何故だか彼らが勝ち誇り私を嘲っているように感じられた。
溝の中は独房のように退屈であった。見えるのは周囲にある黒く照らされたヘドロと真上に広がる青と白のコントラストのみだ。空は確かに常に変容しているから見応えはあるわけだが、時々私は何か悪さでもしたのだろうかと懐疑心が芽生える。せめて上の畦道まで戻してくれないものかと思ったりもした。結局それは叶わなかったが。
ある日大雨が降り、その辺りが洪水に見舞われた。溝はおろか畦道までも浸水した。こうなると私は、主体性のない人間同様、その流れになす術もなく流されていく。私の体のどこにこの感覚を得る器官が備わっているのかはさっぱりだが、私はこの激流に呑まれる最中苦しみを覚えた。人間でいう所の息苦しさというやつだろうか。私はそんなもの感じるはずはないのに。私は酸素と二酸化炭素を取り込むこともなければ吐き出すこともない。そんな私が息のできない苦しみを実感できるはずはない。だからせいぜい私が感じたのは、本当の苦しみではなく、誰かから取り込んだ水に入ると苦しいという固定のイメージだったのだろう。ともかく、流されている間は気分が悪かった。出来ることならあんな経験はもうこりごりだ。
数十分もの間あちこちに体をぶつけながらもひたすら流された。最終的には水域より高い位置を目指した坂道に衝突し、かつてのノルマン人のような大移動は一旦終了した。水位は時間とともに数ミリずつ下がっていく。その時側溝に水が流れ込むが、キャパオーバーのようで隙間から水が溢れ、時々ボコッボコッと側溝の呼吸音が聞こえる。
波打つ水面を眺めながら、初めて海に訪れた気分に浸った。実際眼前に広がるのは、これまで貰った千草色や瑠璃色の海のイメージとはかけ離れた朽葉色なわけで、しかも辺りに見えるのは川幅程度の広さしかないのだが、私のような小物にはこれすら雄大な景色に思える。今思えば海ではなくアマゾン川にでも見立てるのが適当な気もするが、その時は何故か海が選択された。
黒々とした曇天に僅かに生まれた隙間からこの災害の終わりを告げるように光が差し込んだ。この洪水が完全に引くには数日掛かった。
それからしばらくは、再び定点カメラの如くひたすらその場で周囲を眺め続けた。長らく洪水のせいで人通りも少なく、移動するきっかけがなかったのだ。
洪水の影響が収まった後は、ある時はスーツとかっちりとした革靴に身を包んだ男に蹴り飛ばされ、またある時は車に轢かれた。このような他力によって坂道は早々に登り切り、そこから十数年はその高台の住宅地の辺りを転々としていた。
しかし私はいつだって外的要因でしか移動することのできない無機物。周囲の気まぐれで私の行く末は決まる。私はかつて上がった坂とは違う別の坂道を下り落ちていった。そこは一直線ではなく幾度かのうねりを持っていたので、下るには数カ月、何なら一年近く掛かった気がする。
平地に行きついてからは再び各地を彷徨った。歩道の植え込みに身を潜めたり、民家の庭に迷い込んだり、工事予定地で一休みしたり、そこで工事が始まり油圧ショベルなどの物々しい作業車たちに誘拐されたりした。それはもうとにかく色々な所を訪れた。そして最終的にあの少年と出会った歩道へ行きついたのだ。
そういえばこの頃の私は毎日を楽しんでいた気がする。人間から得た情報をこの身をもって真実であると確かめていく過程が面白かった。何でも新鮮で、その辺りの景色に飽きだした頃にまた誰かが私を別の場所に連れていってくれた。日を追って周りにそびえる建物が高層化していくのも、巨大な積み木を見ているようで興味深かった。街にある万象が私の玩具で娯楽として機能していた。思えば昔はよかったと改めて感じる。
…懐古的になってしまった。あの歩道で過ごした数十年、どうにも投げやりでネガティブ思考で過ごしていた。そこにはかつて冒険家気取りで世界を見ていた私への郷愁があったのかもしれない。あの歩道に行きつく前は、数カ月もすれば周囲の景色が大きく変わっていたものだ。
ところがあの歩道に辿り着いてからはまるで景色が変わらない。果てなく一直線にぶち抜かれた大通りでは、ちょっとやそっとの移動じゃ景観の変化は起こらない。しかも周囲の建物は年々上に伸び続ける。積み木も歳をとれば関心が薄れる。
今まで自分の人生に充実を感じていたのは、現状に飽きる前に新しい餌が与えられていたからなのだ。その点歩道はひどく退屈だった。あんな所に何十年も居座っていたら、生存意欲は削がれてしまう。
だから変哲のない日常に不満を抱く人間には親近感を覚える。人間も石っころも自我を持てばその考えは似たものになるのかもしれない。人間が日常の何気ないものへ目を向けないことに否定的であったが、気が付けば私も当たり前への興味を失っていたようだ。
少しだけあの場所、あのつまらない歩道が恋しく、別れ難く感じた。もっと周りの当たり前に目を向けておけばよかった。私のすぐそばに転がっていた石っころは私同様に自我を持っていたのだろうか。私のすぐそばにいた街路樹はどうか。辺り一面に溢れていた日常が私に何か訴えてはいなかっただろうか。私は何か大切なものを見落としてはいないだろうか、忘れてきてはいないだろうか。家の鍵を閉めたかどうか気にするような、いくら考えても安心や正解が待っていない問いを考えてしまう。
さっきまで新たな冒険に浮き立っていた私は、慌てて地に足をつけ、何なら地面に這い蹲ろうとしている。いるかも分からぬ相手に許しを請うように。
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