#40 灰になった顔
ベニトビ部長を除く全員が、思わず後ずさった。マクアウリ常務までもが。
「なぜ恐れるのです? こんなに美しいものを」
不思議そうに、ベニトビは首を傾げた。彼は恐らく正気だった。あくまで正気で、その有毒物質を崇拝しているのだ。
「何という物を持ち歩いておるんだ、貴様。そんなことを許可した覚えはないぞ」
蒼白のマクアウリ常務が、部長から遠ざかりながら怒鳴りつけた。
「許可? 何であんたにそんなものを得なきゃならんのです?」
肩をすくめて、ベニトビ部長は乾いた声で笑った。彼はこの場を、完全に支配していた。最悪の毒物をその手に握っているという、全能感によって。
「まあ、ご安心くださいよ。この小瓶は、
「神の恩寵じゃなかったのかね?
彼の矛盾を、軽く突いてみる。正気を失っているかどうかを測るためだ。
「我々ひ弱な人類がまともに浴びるには、神の光はあまりに強すぎましてね。まことに残念なことですよ」
彼は少しだけ、淋しそうな顔をした。意識して作った表情ではない。やはり、こいつは本物だ。
室内は、異様に張り詰めた空気に支配されていた。窓の外に見える、殺風景なドーム内の様子が、平和でのどかなものに感じられる。
「では私からも、残念な報せを伝えよう。君たちの大嫌いな
ゴライトリー副部長からの指令を、私はここで忠実に実行した。この空気の中に投げ込めば、ちょっとした爆弾くらいの威力はありそうだ。さあ、事態はどう動くか。
「そう言われて、我々がはいそうですかと連中に従う訳はない。コーネル先生も、それはお判りのことでしょうがね」
確かに。ベニトビ部長の言う通りだった。
「しかし、連中は間に合わないでしょう」
突然、彼は右腕をこちらに向かって突き出した。その袖口が青く輝く。目の前が、真っ暗になった。
ベニトビは私が先ほど用いたのと同じ、高出力懐中電灯によるブルー・ライト攻撃を使ったのだった。偏光サングラスが瞬時に全遮光モードに切り替わり、網膜は守られたが、視界を奪われたことには変わりない。動きが遅れた。
再び視界が戻った時、奴は鈍く光る
もしも、ベニトビがホルスターから銃を取り出すような動きを見せていれば、私のほうが先制できたはずだ。奴はそこまで読んで、二段階で攻撃してきたのだった。この状態では、周りの人間もみな身動きが取れない。クレヴァ刑事たちを外に出したのは、少々まずかった。
「その青い眼鏡は、ただのファッションではなかったようですね。さすがです、すぐに態勢を立て直してこられるとは」
にこやかに、ベニトビは言った。
「私もプロだからね。無駄な物は身に着けないさ。しかし、なかなか洒落てるだろう?」
「
銃口が赤く輝く。私の胸元で、何かが破裂する。吹っ飛ばされそうになる身体。私は大きくのけぞりながらも、しかしその場に踏みとどまる。
続いてマチルダ専務に向けられた銃口。そこから熱光線が放たれるよりも、私が跳躍するほうが早かった。右手に提げた
放たれた熱光線は保存函の中に形成された停滞空間に阻まれて、まるで鏡に反射したようにその向きを変えた。時空の停止した空間を貫くことはできないからだ。実の所、こいつは最強の盾なのだ。
ベニトビ氏の顔が、消滅する。辺りにぱっと舞い散った灰は、彼の頭部の成れの果てだった。自らが放った熱光線に首を吹き飛ばされたベニトビ氏の身体が、その場にくずおれる。光る粉末の入った小瓶が、カーペットの上に転がった。
全ては、ほんの一瞬の出来事だった。幸いだったのは、故ベニトビ氏が私の頭部でなく、散熱装甲ベストを着込んでいる胴体を狙ってくれたことだった。恐らく、射撃に自信がなかったのだろう。
残念なのは、保存函の中にある絶品モンブランが、恐らくみな駄目になってしまっただろうということだった。外側のケースが損傷してしまっては、停滞空間は維持できないはずだ。
「くそっ!」
今度はマクアウリ常務が、巨大な
もう一つ幸いだったのは、ベニトビ部長が用いたのがこのような実体弾銃ではなかったことだ。いくら散熱装甲ベストがあっても、実弾を喰らえば肋骨の数本は折れてしまっていただろう。
「動くな、絶対動くなよ。動けば撃つんだからな」
震える声でそう言いながら、常務はこちらに銃を向けた。意外だったのは、そんな情けない様子にも関わらず、銃口が微動だにしていなかったことだった。
我々全員を牽制するように、順番に銃を向けながら、彼は後ずさった。その照準はいずれも正確なもので、下手に身動きすれば危険だったろう。
窓のガラスを後ろ手に開くと、彼はこちらを向いたまま窓枠に飛び乗り、そのまま外へとジャンプして逃げ去った。この動きは、常人のものではない。奴もまた、甘く見てはいけない男だったらしい。
「追わなくて、よろしいので?」
カイネリ技師長が、私の顔を見る。
「ここは一旦、マクアウリ氏には退場してもらいましょう。彼とは、またすぐに会うことになるでしょうからね」
私は、足元に転がったベニトビ氏の遺体に目を遣った。
「マチルダ専務。彼らがすでに、
「常務たちはすでに、
床に転がった小瓶を、彼女は見つめた。
「小型の試作品という前提であれば、致命兵器の製造に成功している可能性も、相当に高いと考えざるを得ません。確率は、フィフティー・フィフティー。それがわたしの予測です」
「その威力は?」
「たとえ、どんなに小型でも」
と彼女は言った。
「このアーケード・べトラ一帯を消滅させるだけの威力はあるはずです。
(最終章「支配者の決めたルール」へと続く)
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