#30 酒場の合唱、マチルダ専務たちと

「どうでしたか、先生」

 ランゲン本社から外に出ると、さっそくカイネリ技師長が近付いてきた。彼も、ずっと待っていたらしい。

「ああ、社長と少し話し合うことができたよ」

「本当ですか!」

 技師長の声からは、期待が感じられた。

「じゃあ、コーネル先生のほうの商談も、うまく行ったんですね。社長に喜んでいただけて良かったです」

 ユズハの言葉に、カイネリ技師長は不思議そうな顔をした。彼女には、社長との商談を成功させるために、珊瑚を売って歓心を買うのだ、と言ってあったのだった。

「社長には、最高級の宝石珊瑚を全てお買い上げいただいてね。ミス・ユズハのビジネスは、大成功というわけだよ」

 と私は技師長に説明した。

「なるほど、なるほど。では、今夜は一つ、みんなで祝杯でもあげましょうや。先生はご存じだが、実はいい食堂グリルがありましてな」

 もちろん、誰にも異議などあろうはずもなかった。


 私たちが姿を現すと、食堂グリル店内の各テーブルに陣取った客たちから、一斉に声が上がった。

「おお、先生。また来たね」

「珊瑚のお嬢さんも。こんばんは」

「何だ、技師長も一緒じゃないか」

 実は昨晩も、ユズハたちとこの食堂グリルに来たばかりなのだ、と説明すると、カイネリ技師長は大笑いした。

「さっそく、この店のファンを増やしてくれたわけですな。なあ、親父。これは、特別サービスをしてもらわんとな」

「わかっとるわな」

 磨き上げた禿げ頭を光らせた店主が、我々のテーブルに巨大なジョッキを四つ、ドカンとばかりに置いた。

「これはおごりだわい。もっと、じゃんじゃん宣伝しておくれや」


「わたしにも、一杯くださらない?」

 背後からの声に、私は振り返った。マチルダ専務が、そこに立っていた。役者がそろった、という訳だ。しかしこの場では、余計な話などはできないだろう。

「じゃあマチルダの姐さんも、店の宣伝をしてくれるのかいね?」

 店主が訊ねる。

「もちろんよ。今度、社長と常務を連れて来るわ。とっても仲良しなの、わたしと。たくさん飲んでもらって、足腰立たないくらいふらふらにしてあげるわ」

「それはええね。わかったわい。あんたの分もおごりじゃ」

 くしゃっと笑顔になると、店主はカウンターの向こうへと戻って行く。


「ご一緒してもよろしいかしら?」

 と微笑んだマチルダ専務がユズハの隣に座り、追加のジョッキが来ると、小さなテーブルの上が代用ホッピーに占拠されたような恰好になった。

「それでは祝杯と行きましょう。珊瑚の完売に、乾杯!」

 技師長が、巨大なジョッキをまるでデミタス・カップのように軽々と掲げて見せる。残る四人も、各々苦心しながらジョッキを持ち上げた。

「今日は、お祝いの会なのですね。珊瑚と言うのは?」

 専務が私の顔を見た。

「実は、新しい仲介の仕事を請け負いましてね。こちらの」

 と私はユズハたちを手のひらで指し示す。

「ミス・ユズハ。宝石珊瑚の販売を行っておられる方ですが、彼女たちを偉大なるアルタラ・ピクルス・ジュニア氏に紹介させていただきました。それで、見事に最高級の紅珊瑚が完売になった、そういうわけです」

「では、社長にお会いになったのですか」

 専務は、少し驚いたような顔をした。

「ええ。しかしあくまで、珊瑚の売り込みのためですがね」

 私は、カイネリ技師長の顔を見た。ここで余計な話をすると、事態をこじらせかねない。


「本当に宝石珊瑚がお好きね、社長は」

 マチルダ専務は苦笑した。

「お気に入りのあの方、ミス・エルメリナにもたくさんプレゼントなさってるみたいだし。綺麗な方だから、紅珊瑚のリングがとてもお似合いだけど」

 伝わらない真実。それは時として、残酷に見えるものである。しかし、ここで私がしゃしゃり出るわけにも行かなかった。

「じゃあ、社長への売り込みはうまく行ったのだね」

 昨晩、ここでユズハから指輪リングを買ったばかりの初老の男が、我々のテーブルのそばに立ってそう言った。

「ええ、高い珊瑚をたくさんお買い上げいただきました。とても気前の良い方で」

「良かったな、それは!」

「だけど社長も、そんな金があるなら俺らの給料をもっと増やして欲しいもんだ」

「違いない!」

 店内に、笑い声が渦巻いた。


 祝いの乾杯をしてくれたみんなは、続いて一斉に、聞き覚えの無い歌を歌い始めた。いかにも異国風の不思議な節回しのその歌を、専務も澄んだ声で合唱している。

「ランゲンの、社歌ですわ」

 カイネリ技師長が説明してくれた。

 歌詞は分からないものの、メロディーはすぐに覚えられる。私とユズハたちも、一緒にその歌を口ずさんだ。

 しかし、彼らが愛するその会社が、今や危機的な状況にあることを私は知っていた。そして、その崩壊の引き金を引くのは、他ならぬ私自身なのかも知れないのだった。


 昨日、一昨日と同じく、ふらふらになるくらいにたくさんの代用ホッピーを飲んだはずだったが、今夜の私はほとんど酔うことがなかった。

 すっかり酔っぱらったユズハ兄妹をそれぞれホテルの部屋まで送り届けて、私も自室のベッドに横たわる。

 いよいよここからが、機動調査官SSMSとしての私の本当の仕事になるはずだった。それは、ちょっとした冒険と言っても良い、危険を伴うものになるかも知れない。しかし……。

「何もかも忘れて、お眠りなさいな」

 光の線で描かれた全書ぺディー乙女かのじょ、リサⅢの言葉はいつものように優しかった。そう、今はただ眠ること、それ以外のことを考える必要はなかった。


(第四章「ゼロ・コーネル氏の冒険、明かされる陰謀」へと続く)

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