#15 揺れるエルメリナ、くだらない色男

「そういえば昨晩、ちょっとした騒ぎがあってね」

 リゾットから顔を上げずに、私はそう言った。

「ええ。ベッドが、すっかり灰になったのだとか」

 顔を見なくともその声だけで、彼女が表情一つ変えていないことが分かった。なかなかの抑制ぶりだ。

「ああ、見事にね。君にも見せてあげたかったよ」

「ご無事で何よりでした。ちなみに、コーネル様の本日のご予定に変更は?」

 思わず私は顔を上げた。エルメリナは、妙に楽し気な笑みを浮かべていた。この程度の脅しで、私の行動を本気で変えられるとは思っていないのだろう。

 熱光線兵器でベッドを焼く程度のことは、彼らにとっては、ちょっとした余興に過ぎないのだ。こちら側、羽ヶ淵サイドにとっても、それは同じだった。


「特に変更はないね。これを食べ終わったら、早速そちらの事務所オフィスへ向かうことにするよ」

「残念ですわね」

 私の背後にちらりと目を遣ると、彼女は立ち上がろうとした。

「おい貴様、何をしに来た!」

 背中の後ろで野太い声がした。聞きなれた、カイネリ技師長の声だった。

「何って、コーネル様に、朝の御挨拶に伺っただけですわ」

 先ほどとは違う、冷たい笑みを彼女は見せた。

「先生はプロでいらっしゃいますわ。我々とあなたたち、どちらが有利で、どちらから何を引き出せるか、ちゃんとご存知でいらっしゃるようです。今夜、私はコーネル様のお部屋に伺うお約束をしましたのよ。楽しみですわ、今日の交渉の結果も、今夜の二人きりのデートも」

 エルメリナは、嘘八百を並べて見せた。なるほど、食えない女だ。

「な、なにを言うか!」

 動揺したような声を上げる技師長のほうへと、私は振り返った。彼は、怒りで真っ赤になっている。

「落ち着き給え、技師長。この程度のハッタリに動じていては、勝ち目はないよ」

「はっ。すみません」

 カイネリ技師長は、巨体に似合わぬ恐縮したような表情をして、それから女をにらみつけた。


「見かけによらず、なかなか一筋縄ではいかないご婦人のようだ、君は」

 私がそう言うと、エルメリナはくすくすと笑った。

「さすが、Σグレードの先生。全く動じても下さりませんのね」

「そうでもないよ。君が部屋に来てくれるなんて聞けば、胸も高まるさ。ところで」

 空になった食器を、私は脇に避けた。食事の時間は済んだ。ちょっとしたウォーミング・アップを試してみても良いだろう。彼女と私、それぞれの立ち位置を、立体化されたマトリックスとして、頭の中に描く。

「どちらが有利で、どちらから何を引き出せるか、それを一番知っているのは、聡明なる君のほうではないかね? この先ピクルス社長から、どれだけのものを得られると君は見込んでいるのかね?」

 笑顔を消して、彼女は目を細めた。

「あら。逆襲のおつもり?」

「とんでもない。事実を積み上げればどうなるか、ちょっと確かめてみようと言ってるだけさ。マチルダ専務の側についている人間も多いはずだ。彼のように、強く支持している部下もいる」

 私は再び、背後を振り返った。腕組したカイネリ技師長が、仁王立ちしている。


「パワー・バランスの差はすでにわずかだ。そこに私、このゼロ・コーネルが来た。あと、ほんの少し重しを積めば、針は一気に逆側に振れる。そう思わないかね?」

「どうかしら」

 彼女は、自らの右手に視線を落とした。その黒い瞳が見つめているのは、紅珊瑚のセットされたリングだった。

「まあ、急ぐことはない。少し考えてみてくれ給え。パワー・バランスだけでは決められない、感情的な背景というのもあるからね、この世界には」

 ほんの一瞬だけ、苦悶の歪みがエルメリナの表情を動かした。しかし彼女は直ちに無表情に戻り、続いて微笑んでみせた。

「それだけの自信をお持ちなのは素晴らしいことですわ。それでは、私はこれで。また後ほど」

 靴音を響かせ、烏羽色の髪をなびかせるように、彼女は立ち去った。


「さすがコーネル先生、あの女もたじたじでしたな。折角の朝食の時間を、台無しにされてしまったのは申し訳ないが」

 技師長が、またしても感心したような声を上げる。

「今のはもう交渉の一部、私の仕事だよ。多少、布石として効いてくれる可能性がある。ところで、一つ確認しておきたいのだが」

 私は振り返った。

「アルタラ・ピクルス・ジュニア社長という男、ご婦人方からの評判は?」

「忌々しいことですが、正直に申し上げれば、女性たちには人気ですな。見た目は男前で、女にだけは優しく、金もある。本当は、どうしようもないゲス男ですがな」

 吐き捨てるような口調で、カイネリ技師長は言った。

「なるほど、やはりそうかね」

 私はうなずいた。私は見事に、エルメリナの痛い所を突いたらしい。頭が切れるはずの女性が、性悪の色男に心惹かれてしまう。実際にそういうことが起こるのだ、この世界には。


 フロントでスティック・キーを預け、「行ってらっしゃいませ」と頭を下げる総支配人に見送られながら、私とカイネリ技師長はホテルを出た。頭上の人工太陽板は、朝の爽やかさを感じさせる、白色度の高い光に調整されているようだった。

 ランゲン社の本社ビルは、このアーケード・べトラの近くにある、採掘ドームの中に建っているということだった。そのドーム内へは地下道でつながっているらしく、嵐の屋外に出る必要はなかった。これは助かる。


 地下道の入口は、アーケードの北端そばに建つビルの一角にあった。べトンの壁にトンネルがぽっかりと口を開いていて、その傍らには「ランゲン瑠璃井専用通路」という金属製の文字が並ぶプレートが見える。前に立つと、天井に連なるバチェラー燈が一斉に点り、下方へと続く長い階段を照らし出した。

「では、参りましょう」

 カイネリ技師長は階段を降り始めた。安全靴の底が踏面を打つ、コツコツという足音がトンネルの中で反響する。あまり気持ちの良い通路とは言えなかったが、嵐の中を歩かさせるよりはもちろんずっと良い。私は偏光グラスを外し、黙って彼の後に続いた。


(#16 「ランゲン本社、ベニトビ渉外部長の挑発」に続く)

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