誠(11)チェーホフの銃は弾丸を発砲しなければならない。
映像が消えたあとも、わたしはずうっとノートパソコンの黒い画面を見つめていた。そこにはうっすらとわたしが写り込んでいて、四角い画面はアナアキそのものだった。
わたしの横で茫然自失になっていた奏が、しばらくしてからのろのろと椅子を引き寄せて、座り込んだ。向かいに座っている高麗剣先生も、腕を組んで考え込みながら、じいっと椅子に座り続けている。
それからどれくらいの時間が経っただろう。気がつくと、カップの中身は空になっていた。ああ、そうだ。早く次のお茶を注がなくっちゃ。
わたしは立ち上がると、冷蔵庫を開けようと手を伸ばす。その腕を――、
奏が、掴んだ。
「もう、やめるのです、円。もうやめてください」
――え?
「何を?」
奏は、何を言っているの? やめてください? 一体、何を?
「何を、って……。つい先ほども言ったのです。昨日も、一昨日も、ううん、ずっと前から言い続けているのです」
「だから、何を!」
わたしは苛立って叫ぶ。掴まれた腕を乱暴に振りほどくと、奏はあっさりと床に転がった。彼女は一瞬だけきょとんとしてから、次の瞬間には目から大粒の涙をこぼし始める。
「う、うう……、ううううう……」
奏を泣かすつもりなんてなかった。わたしは冷蔵庫からお茶が入ったボトルを取って、カップに注ぐ。それを飲み干してから、クッキーを数枚つまんだ。
その一連の顛末を、高麗剣先生は静かに見守っていた。まるで何かを見定めるかのように。それから長く息を吐いた。
「――マドカムラサキの浸食が進んでいる。もうだめだよ、恋蝶くん。彼女はもう、戻れない」
「ち、ちち違う! 違う違う違う違う! そ、そんなは、はずはないのです!」
奏は半狂乱状態になりながら、わたしの方を向いた。目が真っ赤になっていて、頬も紅潮していて、醜く歪んだどうしようもない表情で。けれど、わたしにとってはとっても愛おしい姿で。
「ねえ、円。何度でも、何度でもやり直しましょう。私が貴女を連れてゆくのです」
「やり直しなどないのだよ、恋蝶くん。世界は前にしか進まない。君も毒に侵されているのかね? だとすればボクは、君のことまで疑わなくてはいけなくなる」
「浸食? 毒? ねえ、一体何のことを話しているの? わたしにも分かるように教えてよ」
奏と先生のやり取りの意味が分からない。彼は少し考えたあとに、
「……ふむ、そうだね。もう一度、考えを整理しておくとしよう。諸君、こころを落ち着けて座りたまえ」
わたしと奏は気まずい空気を感じながらも腰を下ろす。奏は横で涙を拭いている。袖口が、びしょびしょになっていた。
「映像を観て分かって来たとは思うが、夕月夜准教授をはじめとしたチームで取り組んでいたマドカムラサキをアナアキに処方するための研究は、失敗に終わったのだよ。あの植物は今の世界に本来あるべきものではなかった。ボクはそれを患者に服用させることによって、アナの大きさの推移を観察していたのだが……、格別の効果はあったものの、今の映像を観る限り、それは悪手だったと判断せざるを得ないね」
「えっと、それはさっき言ってた、強い毒性と強烈な依存性のこと?」
「そうだ。マドカムラサキには強い毒性があった。准教授からの受け売りも混ざるが、元々植物というものは、地球上に生まれたときから猛烈な毒素を辺りにまき散らしていたのだよ。それが、酸素だ。やがてその酸素を吸収し二酸化炭素を排出する細胞が生まれて来るわけだが、原初、植物とは毒を生み出す生命体だったのだ」
酸素が猛毒っていうのは、わたしも父から聞いたことがある。地球上に本来なかった酸素は、植物の光合成によって生まれたらしい。そして、それを吸い込んで数多の生命体が絶滅したと言われている。
「近年でも、例えばフィトンチッド。森林浴をすると、樹木が発散する化学物質によってひとは心地よさを感じることが出来る。それは人間には快適さをもたらしたが、同時にある種の微生物にとっては猛毒だった。多くの微生物が、森から発せられる揮発性の物質によって死滅させられたのだ。毒と薬は表裏一体なのだよ。同じように、リフレッシュのためにと思って服用していたものが、実のところ猛毒を持っていたなどと言われても、ボクはそこまで驚きを持たないね」
「そりゃあ、新種の植物をお茶にしたのだもの。危険性は認識していたつもりよ。父の研究に貢献出来る。わたしはただその一心で、お茶を飲んだのだから」
そうだ、毒だったからって何だっていうんだ。わたしは無事だ。こうして今も無事に生きているじゃあないか。高麗剣先生が、少し莫迦にしたような笑みを浮かべた。
「はっ、見上げた親子愛だね。これから君の持っている研究ノートも見せてもらうつもりだが……、准教授の研究室にあったノートなどから、マドカムラサキの毒性についてはほとんど認識出来ている。それがもたらす作用の最たるものが、身体の痺れや脳の記憶障害。花が散布する花粉によって、記憶に障害をきたすものが多く現れている。団地内に住むものの多くが罹患していると、ボクは考えている。ボク自身ももしかすると例外じゃあないかもしれないが……、解離性障害によく効く薬があるのでね、それを飲んで自己を保っているつもりだ。念の為に、日記も欠かさないがね」
「記憶障害?」
何か最近は物忘れが激しいと感じていたのだけれど、それがマドカムラサキのせいだったなんて。花粉だけでも障害をきたすのなら、お茶を飲んでいるひとの多くは、完全に記憶に障害があるってことになるじゃあない。そういえば、団地に住んでいるひとたちも最近はどこか様子がおかしかった。
その最たるものが、父をはじめとした失踪したひとびとの忘却。それがマドカムラサキのせいなのだとすれば、辻褄が合って来る。
「そしてもうひとつ。こちらは研究途上ではあるが、アナアキに限った効果だと類推されている。分かりやすく俗っぽいことばで表現するならば、マドカムラサキはアナに寄生する。そして、そのヒトのアナを埋めてしまうのだ。つまり、喪失感や欠落を補完して充足感で満たしてくれる。すると……、」
「……まさか」
さっきの父を思い出す。爽快感さえ感じさせる最後のことばを思い出す。
「そう、そのまさかさ。補完された人類は、次のフェーズに進むこととなる。それが、コクーン化だ。そして、事態はそれだけでは終わらない。コクーンとはそのものずばり、繭のことだ。さて、物語の中に繭があったとするならば――、それが孵らないはずがないだろう? チェーホフの銃は弾丸を発砲しなければならない。ハンプティ・ダンプティは壁から落ちなければならない。それと同じように、孵らない繭は登場してはならないのだよ、物語のロジックに照らし合わせるのであればね」
「と、いうことは……」
「コクーンからはすでにヒトが孵っている。そしてその孵ったヒトビトが、団地内に潜んでいるのだよ。彼らのこころはアナアキと同じような彩りをしていて、私にも見分けがつかないんだ。残念ながら特定はまだほとんど出来ていないし、ここに留まっている目的も不明だ。姿かたちは同じでもまったく違った構造の生命体。ボクは、彼らのことをこう呼んでいる」
先生の姿がぐにゃりと揺らぐ。これ、は……、
「ああ、すまないね夕月夜くん。ボクはとても怖がりなんだ。だから、諸君のことも疑いの目で見つめている。諸君らがボクにそのマドカムラサキの入ったお茶を飲ませる可能性だって、決してゼロとは言えないのだからね。だから、機先を制しておいた。君に飲ませたのは遅効性の睡眠導入剤だ。思ったより効きが悪かったので、不思議には思っていたのだがね」
「この、藪医者め……」
だめだ。抗いようのない眠さが押し寄せて来ている。隣にいる奏は、そんなわたしをどこか冷めた目で観察していた。
な、んで? 何であんたはそんな目をして――、そういえば前にもこんなことが――、
「ああ、それでどこまで話したかね? そうだそうだ、団地内に潜んでいるヒトに良く似た生命体の話だったね。ボクたちは、彼らのことをこう呼んでいるんだ」
だ、め、だ。ね、む、い。
「〈新人類〉、とね――」
そのことばを最後に、わたしの意識は途切れ――、
◆
「よろしく〜」
五月蝿さんは軽やかにわたしたちの横を通り過ぎて、団地の隙間を抜けてゆく。その飄々とした動きは猫科の動物を連想するもので、何となく可愛らしい印象を残すのだった。
「……相変らず、風のようなひとなのです」
奏が、彼の通ったあとを見て呟いた。
(▽Yanagi is Bad End?)
(…… and To Be Continued.)
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