誠(10)これが、メッセージなんだね。

「喪、失――」

「世界の変容。その変容により特異な種の植物が誕生し、そしてひと知れず消失した。それと前後して、植物だけじゃあない。さまざまな動物たちからも、実はアナアキにも似た諸症状が発見されていたという事実を、諸君らはまったく識らないだろう? 何しろ、まったく報道をされていないのだからね」


 植物や、動物からも? アナアキと同じような諸症状?


「そしてご存知のように、ひとからも。それが発見されたのは五年前とされているが、実のところもっと前――、そう、八年ほど前には既にアナアキは世界に誕生していたのだよ。その人物こそが――、」


 ああ、だめ。聞きたくない。惑っちゃう、本当に本当に、惑っちゃう。


「夕月夜誠准教授。彼こそが、だ」

「お父さんが……!」


 わたしの瞳が揺れている。何かよく分からない液体のせいで。その先で。

 画面の中で、父が胸を掻き毟りながら白衣を脱ぎ捨てた。


『ああ、ああ、ああ……!』


 それは、死に至る病。喪失感が大きくなり過ぎると、アナアキ患者は静かに死を迎える。そのように言われて久しい。けれど、静かに、だって?

 これは、これではまるで、狂乱状態じゃあないか。


『ああああああああ――っ!』


 シャツすらも脱ぎ捨てた父の鳩尾に、二十センチほどもある巨大な〈アナ〉。それは最早アナというよりは、身体そのものがすべて真っ黒になってしまっていて、異様としか言いようのない光景だった。


「アナアキ……!」


 次の瞬間、わたしは目を疑った。身体に大きく空いた黒いアナが、急速に中心部へと収束する。そして、その中心部から白い糸のようなものがずらりと這い出して来た。

 これは――、何? 一体、何が起こっているの?


……!」


 わたしの隣で、奏が椅子を飛ばすくらいの勢いで立ち上がって、両手を口元に当てた。


「コクーン化?」


 奏の口からおもむろに出て来たそのことばに、わたしは首を傾げた。何だか聞き覚えのあるような、けれどどうにも思い出せないそのことば。

 ただ、ふたつだけ分かっていることがある。父の身体に何かとんでもないことが起こっているということ。それともうひとつ。奏はわたしの知らない何かを識っているということ。

 だって、おかしいじゃあない? コクーン化って何のことよ。ちっとも聞いていないわ。


『うう……、うぐぐああ……っ! あああああ……っ!』


 画面の中で父は、叫び声を上げながらこちらに手を伸ばして来る。その手を取ってあげたいけれど、彼はここにはいなくって。

 胸から飛び出す白い糸が、父の身体をどんどんと覆い隠してゆく。えっと、コクーンって言ったわよね。ってことは、この糸のようなものは、繭? 父は今まさに繭に包み込まれようとしているっていうわけ?


「ね、ねえ。これって、何? 一体全体、何が起こっているのよ!」


 わたしは奏をちらりと見ながら叫んだ。けれど、彼女は画面に釘づけになっていて、わたしの声なんて聞こえていないみたいだった。


「ああ、何てこと……、すでに彼はそちら側へと……! 終わりはとうに始まっていたのですね……」

「そのようだな。先日、この映像を観て驚いたよ。ボクも彼がこうなっていることは想定外だった。残念だよ……、大切な友人をひとり、失ったのだからね」


 奏の呟きに呼応するように、高麗剣先生が口を開く。その表情はどこか寂しげではあったけれど、何だかもう完全に割り切っていて。わたしは彼の言っていることが、まったく頭に入って来なかった。


「――失った?」


 失ったって、何? わたしはとうの昔に母親を失っていて。それから、父親までも、今何かよく分からない現象に呑み込まれそうになっている。ふたりは世界に、置き忘れられてしまったの? ああ、そうだ。そういえば、奏のお母さんはどうなったのだろう? わたし、結局聞けてない。


「奏、奏。ねえ、わたしのお父さんは? それから、あなたのお母さんは? みんな、みんなはどこに行ったっていうの?」


 自分の思考がかき乱されているのが分かる。けれどそれを自覚していたとしても、疑問が多過ぎて感情を落ち着かせることも出来ないんだ。どこから話をすればいいのか、わたしは何を分からずにいて、奏や先生は何を分かっているのか、頭がちっとも働かない。

 ああ、惑っちゃう、惑っちゃう。まったくもって、惑っちゃうことばかりだ。

 考えがまとまらないうちに、画面の中で父の姿がどんどんと糸に包み込まれてゆく。録画なのだから一時停止をすればいいだけだ。けれど、身体が言うことを聞かなかった。


『ぐ、ぐぐ……! マドカムラサキは、教えてくれました。世界の変容と、それに対応すべき新しき姿を。実際にヒトは、新世界に対応するべく新しい姿へと変容をし始めています。その第一段階が〈アナアキ〉なのです。インターネットを介した新しいコミュニケーションの形やスマホ依存症……。その次の段階に、ヒトは至ろうとしているのです……!』


 その次の段階? 一体、父は何を言っているのだろう。糸に呑み込まれながらも、父は語るのをやめない。


『マドカムラサキは世界の環境に適応しました。しかし、そのままの理論ではヒトに適合しない。必ず綻びが生じるのです。次の段階にいくのは、まだヒトには早過ぎる。ヒトは環境を破壊しながらも自らの安寧を求める知恵のある生き物です。決してその歩みを止めることはないでしょう。しかし、だからこそ急激な変化は……、ぐ、うああっ!』


 顔と突き出した腕のみを残して、父のほとんどが糸の中に取り込まれた。


『だ、駄目……、ですか。まったくもって惑ってしまうことばかりです。しかし何とか記録を残せて良かった。誰か、この映像に気づいてください……、政府の中枢ではいけない。真実が隠蔽されてしまいます。……くうっ!』


 画面が揺れる。たぶん、父がスマホを掴んだんだ。ブレる映像の中で、父の声だけがやけに強く聴こえた。


 ああ、そうか。

 これが、メッセージなんだね。


 自分の混乱は一旦放り投げて、わたしはすべてを受け止めようと父の姿を見つめる。糸の中に取り込まれて、繭そのものに変容しそうになっている、父の姿を。


『いい、ですか……! 間もなく私はアナアキに呑み込まれる。その前にこれだけは……、あの花、マドカムラサキを服用してはいけません! あれはヒトのためのものじゃあない……! ヒトを操り、次のフェーズに進ませるためのものだったのです……!』


 ――次の、フェーズ?


『アナ――、つまるところ〈欠落〉。喪失感により空いたアナを埋めるために、リラクゼーション効果のあるお茶を飲む行為そのものが……、それにより、充たされたアナアキは……! む、ぐうっ!』


 父の顔が糸の中に完全に這入り込んだ。その中から、コクーンの中からくぐもった声が漏れ聴こえて来る。


『現在分かっていることは、研究ノートにすべて記録しています。高麗剣先生、研究室の皆さん、あとは任せます……! そしてまどか……、まどか、私の娘。世界は貴女に……、託しましたよ……!』


 父の声が次第に遠くなっていって。それから繭が静かに閉じられる。最期に小さく、父は呟いた。


『うつほ、ああ、うつほ……、ここに……、いたんだね……』


 それで、分かった。父の欠落は充たされたんだ。

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