柳(11)けこいく かななかの かだらを たせいつに

 反応がないことを不思議がって、彼女は画面の中で手をぶんぶんと振り回す。それから、扉をこつこつと叩く音。何度も何度も、それは執拗に繰り返された。わたしは反応をしない。息を潜めて、彼女の出方を伺う。


「ねえ、まどまどー、いるんでしょー?」


 そうか、奏がいることまでは分かっていないのかもしれない。相手はひとりだ。けれど今、相手の思惑が分からない今は、彼女の相手をしようという気にはまったくもってならなかった。


「うーん? まどまど、お風呂かなあ? ……いや、音がしないなあ。ああ、もしかしてもう寝ちゃったのかなあ?」


 彼女はひとりインターホンの前でお喋りをしている。饒舌な彼女のことだから、口を滑らせて何か手がかりになることを言うかもしれない。


「んー……、まあ、いっか。でもさあ、まどまど。聞いているか分かんないけど、うち、まどまどのことが大好きだからさあ、警告しとくねえ」


 ――警告?


「面白半分に、団地内を探ることはさあ、まどまど。もうやめた方がいいよお。うちら、友だちでしょう? ねえ、まどまどお。あなたの身を案じて言ってるんだよお? そうじゃあないとさあ――、」


 彼女はインターホンのカメラに、顔をぐいと近づけた。瞳の温度が、明確に下がる。


「そうじゃあないとさあ、まどまど。あんたの友だちのかなかなが、大変なことになっちゃうかもよお? あんた、かなかな見捨てるのお?」

「――――っ!」


 何が警告だ。完全に脅しじゃあないか。きっと彼女は、わたしがここで話を聞いていることを確信している。夜とはいっても、時刻はまだ午後8時頃だ。就寝には早過ぎる。

 わたしは奏を思わず引き寄せて、抱き締めた。温かい奏の吐息が、首筋にかかる。奏は小さく震えている。わたしの背中に、ぎゅっと爪が立った。


「――大丈夫、だいじょうぶだよ、奏」


 力を込めて、抱き続ける。奏が一緒に話を聞いていることは、たぶん分かっていないのだろう、環は反応が返って来ないためか、少し苛立っている様子だった。


「ねえ、まどまどお。聞いてるんでしょう? 言ったからねえ。うち、ちゃんと警告しといたからねえ」


 彼女はそのあともねっとりとした視線をしばらくモニターに映し続けていたけれど、やがてそれに飽きたのか身を引いた。それからスカートをごそごそとまさぐって、何やらメモ用紙みたいなものをポストに投函する。そして、ようやく去って行った。

 わたしは大きく息を吐く。奏がゆっくりとわたしから離れて、


「何か……、メモみたいなものを残していきましたね」


 と玄関扉に向かおうとした。勇敢な娘だ、もう自分を取り戻している。わたしはそれを押し留めて、


「いないとは思うけれど、環が様子を伺っているかもしれないから。わたしが取るね」


 と言って玄関に向かう。それから音がしないように気をつけて玄関ポストを開けて、メモ用紙を手に取った。


「……ん?」


 それは、警告文だった。けれど、どこか奇妙だった。


   


「ん? 何、これ」


 何か暗号みたいな文字列だけれど、ちょっと遠目で見るとちゃんと読むことが出来た。〈けいこく かなかなの からだを たいせつに〉って。普通に書けばいいのに、何だか変なの。


「それにしても……、惑っちゃうわ。まったくもって、惑っちゃう」


 もしも、もしも奏の身に何かあったなら。わたしはそれに、耐えられない。だから、守らなくちゃ。わたしは、奏を守りたい。

 ――いたい、胸が、痛い。

 奏をもしも失ったのなら。わたしはその喪失感に、耐えることが出来ないだろう。


「何て書いてあったのです? そのメモ」


 奏がわたしの手元を覗き込んだ。そして、


「ん……? 何なのですか、これは」


 と、わたしと同じような反応を見せる。


「変な文章なのです。……そして、そのメモ。ちょっと貸して下さい」


 彼女はわたしからメモ用紙を受け取ると、その上の方をうっすらと鉛筆でこすり始めた。すると、前のメモ用紙に書いたであろう文字が、浮かび上がって来る。


「やっぱり、ひとつ前のメモ用紙にも何か書いてあったのです」

「おお、よく気づいたね、奏。そっか、ボールペンみたいな硬いペンで、何か書いてたのかな」


 その文字はカクカクしていて、硬い筆跡だった。そして、何度も何度も執拗に書かれているみたいだった。


「……何でしょう、これは。何か、練習をしているみたいなのです」

「うん、本当だ。何だろう……、これ、は……」


 急に、胸の辺りがざわつき始める。


「――あ、れ?」


 喪失感だ。奏を失うことに対する恐怖が、喪失感を生み出したのだろうか。どうしてだろう。体調が急激に悪くなって来る。目の前がちかちかとする。頭がすごく痛い。


「う、う……、何? これは、一体……」


 わたしは床にくずおれた。さっきまでは何もなかったのに。いきなり、汗が止まらない。鼓動が激しくなってゆく。それから、アナアキになったときみたいな、そんな前後不覚になるくらいの痛み。


「……かっ、あっ、」


 わたしは、虚空に手を伸ばした。その先にあるのは、奏の顔。

 けれど。彼女はそんなわたしを、なぜか冷静な瞳で観察している。まるで、何度も何度もそんな様子を見ているといったような顔で。どう、して?

 どうしてあなた、そんな顔をしているの――?

 それから、先ほどのメモ帳。あの、奏が黒くなぞったところは。何なんだろう、あの文章は。まるで字の練習をしているかのような、何度も何度も書いたみたいなあの文章は。

 それは、ぐちゃぐちゃになっていたけれど、執拗なまでに同じ文字列を書き殴っていた。小学生の書く百字帳みたいに、何度も何度もメモ帳にはこう書かれていたんだ。


    ?〉


 何だろう、どうしてそんな、まるで挨拶の練習をするみたいな。


「あっ、あっ、あっ……!」


 わたしの胸が、一層痛みを訴えて。そしてすべては流転する――、


 ◆


「よろしく〜」


 五月蝿さんは軽やかにわたしたちの横を通り過ぎて、団地の隙間を抜けてゆく。その飄々とした動きは猫科の動物を連想するもので、何となく可愛らしい印象を残すのだった。


「……相変らず、風のようなひとなのです」


 奏が、彼の通ったあとを見て呟いた。


(▽Yanagi is Bad End?)

(…… and To Be Continued.)


▽戻る


https://kakuyomu.jp/works/16816452218745260886/episodes/16816452218745637054

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