柳(10)スワンプマンという思考実験があるのです。

「――洗脳」


 成る程。そう来たか。


「あの集いの雰囲気は、まさに洗脳なのです。団地そのものに帰属させる、いえ、隷属させる行為なのです。団地のための奴隷に仕立て上げることで、もしかするとひとの記憶さえ混濁させることが出来るのかもしれません」

「ひとの、記憶」


 それって、アナアキと同じだ。アナアキも、記憶をどこかで落としている。わたしだけじゃあなく、環も、奏も、自分自身の記憶をきちんと繋ぎ合わせることが出来ないはずだ。

 自分自身がいなくなって、アイデンティティが喪失して、そうしていつしか死に向かってゆく病。それが、アナアキなんだ。そういう意味では、この団地も近しいものがあるのかもしれない。自分自身を失うっていう点においては、アナアキも組合員たちも、ある種の同じ穴の狢なのかも。


「もしそうやって、ひとの記憶を触ることが出来るとするなら……、恐ろしいことだよね。環が前と印象が違っていたのも、もしかすると何か記憶を落としてしまったからかもしれないわ。彼女、アナアキだったし」

「環、ですか。私、失踪する前の環と今の環は、」


 彼女はそこで逡巡した。けれど、何かを決めたみたいな顔をして、続ける。


「おんなじ環じゃない? えっと、つまりどういうこと?」


 わたしは、目を何度か瞬かせた。


「姿かたちは、確かに前の環とおんなじなのです。けれど、何か空気感といいますか、気配といいますか、明確に何かが違うのです。説明しろと言われても、正直ちょっと出来ないのですけれど……」


 奏は言い切ったわりには自信なさげに続ける。


「ええっと、という思考実験があるのです」

「スワンプマン?」


 何だか、ちょっと滑稽なことばだ。


「はい。平たく言うと……、」


 奏の話は、こうだ。

 ある日、男がハイキングに出かけた。ところが道中、この男は沼のそばで突然雷に打たれて死んでしまう。そのとき、もうひとつ別の雷がすぐそばの沼へと落ちた。何という偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一で同質形状の生成物を生み出してしまう。この落雷によって生まれた新しい存在のことを、沼男というのだそうだ。


「そして、その男はどうしてか死んだ男とまったく同じ脳の状態、つまり記憶もすべて同じだったのです。けれど、そのまったく同じ形をして記憶もあるその男を、同じ人間と見なすことが出来るでしょうか? そういった主旨の思考実験なのだそうです」

「つまり奏は、今の環はそのスワンプマンだって言いたいわけね? 環は環でも、中身はまったく別のものになっている、って」

「言いたいというか、そういう印象を抱いたっていうだけなのです。けれど、何というか……、円もそんな感覚を抱いたのではないですか? あの環を、前の環と同じだと思いましたか?」

「ううん、わたしも環は何かまったく違うひとになっちゃったみたいに感じたんだ。だから、スワンプマンかどうかまでは分からないけれど、奏の言いたいことは分かるつもり」


 確か、わたしもネット中毒だった頃におんなじような話を読んだ記憶がある。あと、長い航海を経た船の話とか。修理してゆくうちに、その船の部品はどんどんと取り替えられていって、最後にはすっかりすべてが入れ替わるのだけれど、それって本当に同じ船だって言えるのだろうか、とか。


「ううーん、難しい話になって来たわ」


 煮詰まって来た。わたしは軽く頭を抱える。こういうときは、思考をちょっと切り替えるといい。


「ああ、そうだそうだ。それを読み解く鍵になるかは分からないけどさ、さっきの不如帰さんの話で、気になることがあったんだ。第一団地のことなんだけど」

「第一団地?」

「うん、えっとね、さっきの話の中でさ、不如帰さんが『第一団地には絶対に立ち入らせへん。何でかて、まあええわ』みたいなことを言ってたの、分かった?」

「えっと、そこは聞き流していたのです」


 奏は首を傾げて、指を唇に寄せる。


「ああ、そう。それで思ったの。第一団地には、何か秘密があるんじゃないかって。何かは分からないんだけどさ、何かある。だから明日にでも、第一団地に散歩に行きたいと思うんだ」

「……第一団地、ですか」


 奏は何かを思い出したかのように、難しい顔で呟いた。


「そういえば、団地の噂みたいなものを、ここに入居する前に聞いたことがあります。インターネット掲示板に書かれていたのですが、第一団地には〈光を通さない真っ暗な部屋〉があるとか何とか……」

「光を通さない真っ暗な部屋?」

「ええ、それが何を意味するのかは分からないのですが、何でもその部屋は……、」


 ぴんぽーん。


「――――っ!」

「ひゃっ!」


 突然鳴り響いたチャイムに、わたしと奏は飛び上がった。恐る恐る立ち上がると、ふたりでインターホンの画面を覗く。すると、


「環だ……」


 見慣れたスカイブルーの髪の毛が、画面の中で揺れていた。彼女たち元々団地に住んでいる組合員は、夜はそうそう出歩かないはずだ。何か緊急の事態が起こらない限りは。


「ど、どうする?」

「……軽率に出ない方がいいと思うのです。けれど、明かりが漏れているはずなので居留守を使うのもちょっとおかしい感じなのです」

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