柳(09)まるで、この団地に住んでいる皆さんが全員劇団員であるかのように。
わたしは奏と食卓を囲んだことがない。彼女が泊まり込むようになったのは最近だし、その前は環の家でだらだらすることが多かった。環はお菓子が好きだったので、よく一緒にチョコレートやスナック菓子を摘んだものだ。
けれど、奏はどうだっただろう。その辺りの記憶も曖昧だったけれど、たぶんそれらも食べたことがなかったような気がする。
「やばっ」
考えごとをしていたら、お湯が吹きこぼれそうになっていた。ふにゃふにゃのパスタを口に入れたくはない。わたしは慌てて火を止めてパスタをお湯から取り上げると、茹で汁と共に炒めたベーコンたちが待っているフライパンへと投入した。
「奏、あんた本当に、ちゃんと食べなよー?」
いつもの小言を繰り返しながら、味を整えてバジルを振る。お手軽ペペロンチーノの完成だ。何と今日は、三人前も作ってしまった。立ったまま味見。味見。味見、味見――、味見。あれ? いつの間にか半分くらい食べてしまっていた。いけない、いけない。何だか今日はことさらに疲れてしまったから、食が一層進んでしまう。
残ったパスタをとりあえずお皿に盛りつけて、わたしは食卓についた。
「いただきまーす」
疲れているときにはパスタに限る。楽だし、早いし、美味しいし。わたしはお皿に乗せたパスタをあっという間に平らげると、手早く洗い物まで済ませてしまった。
あとは洗濯物にお風呂、それから今日こそお花を砕いてお茶っ葉をつくる準備をしなくちゃ。いや、違った。そんなことをしている場合じゃあない。環のことだ。環のことを考えなくちゃいけないんだった。
「ああ、惑っちゃう、惑っちゃう」
わたしは、今日感じた違和感を洗い出す。
『――ああ、おかえりぃ』
『もう、体調は良くなったの? 環ちゃん』
環のことでいちばん引っかかるのは、ここだ。
わたしたちの調査では、団地内で環のことを覚えていたひとはいなかったはずなんだ。不如帰さんたちも確か忘れていたはず。環のお母さんだって、自分の娘のことを忘れていたじゃあないか。けれど、先ほどの会話。環に対して、普通におかえりと声をかけていた。どう考えてもおかしい。ということは、
「……環のことを、管理組合のひとたちは忘れていたわけじゃあなかった?」
そういう結論に至ってしまう。まったくもって惑っちゃう話だ。一体、どのように考えればいいのだろう。
「そう考えるのが、自然かもしれないのです。つまり、すべては仕組まれていた」
ソファーでくつろいでいた奏が、テレビを消した。それから、片目をきゅうっと細めてそう言った。
「仕組まれていた」
わたしは、奏の隣に座る。それから彼女のことばを反芻した。
「えっと、でも、どうして? 環のことを忘れたっていう嘘を吐く意味なんてあるのかな?」
「環のことだけじゃあなくって、円のお父さんや私のお母さんの失踪、それにそのほか数名の失踪も、私たちは把握していますよね。それらが仮にすべて管理組合のせいだとすれば、中途半端な嘘を吐いてしまうと、どんどんとボロが出てしまうはずなのです。それを隠すために、すっかりそんなひとのことは知らないというふりをしていた、という仮説はどうでしょう」
何か足りない気はするけれど、説明としては一応、腑に落ちる。
「つまり、わたしたちはそんなひとは知らないんだって集団で主張しているだけで、本当は忘れていないってことだね」
「はい、そうなのです。……けれど、これは正しくないかもしれないのです」
「どうして?」
「先ほどの集いでの振る舞いが、自然過ぎました。つまり、環のことを忘れているっていう設定そのものを忘れている、そんな風にも見受けられたのです」
「うーんと、それはわたしたちがいることをついつい失念してて、うっかり普通に振舞っちゃっただけなんじゃない?」
「そうかもしれません。ですが、環のことはそれでいいとして、円のお父さんのことはどうなのです? 失踪してから半年も経っているのです。もしお父さんのことを本当は覚えていたのだとすれば、あまりに演技派過ぎるのです。まるで、この団地に住んでいる皆さんが全員劇団員であるかのように」
確かに、半年もの間わたしの父のことをまったく知らない風に振る舞うことは、かなり難しいだろう。父が普通のいち社会人だったなら、多少の誤魔化しは効くかもしれない。
けれど、わたしの父はこの団地内でかなりの知名度を誇っていたし、家庭菜園をはじめとしたアナアキ支援の活動を懸命に行っていた。その記憶をうまく隠しながら、日常を過ごし続けることが果たして可能なのだろうか。
「ううん……、でも、あり得ない話じゃないよ。だってこの団地は、奇妙過ぎる」
わたしたちの団地。わたしたちの団地。わたしたちの団地……
「かつての宗教法人の影響が、いまだに団地内に影を落としてる。そのちからというか、連帯感を存分に発揮したら、大劇団を作り上げることも不可能じゃないかもしれないわ」
「はいなのです。あるいは洗脳をしているか、なのです」
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